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岡﨑乾二郎「那智の一遍」 (岡﨑乾二郎『絵画の素──TOPICA PICTUS』)

☆mediopos-3053  2023.3.28

それまで智真と名乗っていた一遍は
三十六才のとき熊野権現の影向(ようごう)に出会い
「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、
その札をくばるべし」という神託を受け
一遍となった

影向とは
神仏が仮の姿で顕現すること

そのとき配られていた念仏札は
阿弥陀如来が
すべての人間が往生できる
ことを約束するものであったが

熊野においては
「那智の滝はもちろん猪や熊などの動物、
自然の様々に阿弥陀如来の影向が」あるように
「阿弥陀は人間でないものにすら現れるのだから、
聖性は対象の意志にあるのではなく、
むしろ生成するもの」である

その事実を一遍に悟らせた影向とは
どのようなものであったのかが
この「那智の一遍」の章では問われている

生成そのものである聖性ということである

たとえば(那智の)滝の水

加速度をもって落下している一条の水は
一瞬たりとも同じ水ではないのだが
同じ姿かたちを保っているように見えるがゆえに
「われわれの精神は、
滝の中を落下していく水の粒子へと移行」し

そのときに見える水の粒子は
「千年以上、千年のちに、
この滝を落下し、また落下していく
無数の水の粒子にまで拡張されて、
その時間の拡がりをもった滝の水の流れが、
この滝の落下に今、含まれているように感じられてくる。」

こうした時を超えた生成のなかで
ありとあらゆる存在が「無縁の慈悲」に包まれ
聖性を顕現していることに気づくこと
それが影向と出会うということなのではないか

この世に存在するあらゆるものに仏性が宿り
それが顕現されるべく導かれているとでもいえる
日本独特の山川草木悉皆成仏という教えがあるが

他力の極北とでもいえる一遍の
すべての人間の往生を約束するものとなった
熊野権現の影向との出会いは

滝の水や木漏れ日の光などといった
あらゆる事象を時を超えた生成そのもののとして
そこに聖性を見出すことでもあったのだろう

時宗というまさに時の教えは
そんな生成そのものである
時を超えた聖性とともにあることへの
覚醒を説くものであったのかもしれない

■岡﨑乾二郎「那智の一遍」
(岡﨑乾二郎『絵画の素──TOPICA PICTUS』(岩波書店 2022/11)所収)

「一遍が一遍となったのは、彼が三十六才(・・・)の時、熊野をおとずれると熊野権現が現れて、「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし」という神託を受けたからだという。熊野権現、すなわちその影向(ようごう)に一遍は出会った。それを受けた場所は証誠殿だったと伝えられている。しかし熊野では那智の滝はもちろん猪や熊などの動物、自然の様々に阿弥陀如来の影向があり、権現とはそもそも如来や菩薩が仮の姿で現れることをいい、影向とは神仏が仮の姿で顕現することだから、意味として通じている。さらに証誠殿の証誠とはその顕現が確かに起こったという場所をいい、だから本宮証誠殿はそこに建てられているということになる。いずれにしても一遍も熊野で熊野権現を見た、あるいは出会った。

 一遍が配っていた念仏札は阿弥陀如来によって、すべての人間が往生できるという約束を示していたものだった、だからもともと信仰があろうがなかろうがすべての人に機会がある。それまで一遍は札を配る前にその人が信にみずからを投じられるかどうか問うていたというが、その問いがそもそもあてにならない。阿弥陀は人間でないものにすら現れるのだから、聖性は対象の意志にあるのではなく、むしろ生成するものなのだ。神託はその事実を一遍に諭した。では改めてこの認識を一遍に悟らせた、この影向とはどのようなものだったのか。

 たとえば那智の滝に限らず、滝はなぜ人の心をうつ崇高さがあるのか。キリスト教活動家の賀川豊彦は、滝の水が「加速度をもって」落下していることにその答えを求めた。この答えを展開し捕捉すれば、滝の水は一条に見えるが、その上部と下部ではまるで速度が異なっている、にもかかわらず、その速度の変化は、滝の姿かたちとしては一見、現れず、滝は相変わらず連続した一条の水と見える。さらに落下する一条の水はつねに(千年以上も)同じ姿かたちを保持しているようにも見える、が一瞬たりとも同じ水であったことはない。しかも見かけの姿かたちは変わらない、この滝に含まれる水の一粒ひとつぶが、滝のはじめと終わりではおそろしい速度の違いをもって加速し落下していっている。それは確かに感じられるのである。それを認識したとき、われわれの精神は、滝の中を落下していく水の粒子へと移行している。表向きは同一の形態に見えるがゆえに、そのとき把握される水の粒子は千年以上、千年のちに、この滝を落下し、また落下していく無数の水の粒子にまで拡張されて、その時間の拡がりをもった滝の水の流れが、この滝の落下に今、含まれているように感じられてくる。

 同じような感覚が、森の中で日の光を透かしてゆれる樹々の葉叢、木漏れ日から感じられることもあるだろう。樹々の葉を透かして、今、揺らめきながら落ちてくる光の粒は、いったい何時(いつ)からある光なのか。そうした問いの一切が無縁の慈悲に包まれる。つまり今、この時を超出する。こうした認識が覚醒され、顕現することを影向というのではないか。」

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