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大澤 真幸『経済の起原』

☆mediopos2756  2022.6.4

本書では
経済をめぐる二つの問いが
追求されている

ひとつめは
贈与から商品交換への交換様式の転換は
どのように生じるのか

ふたつめは
人はなぜ贈与するのか
そして純粋な贈与の可能性はあるのか

興味深いのはとくに後者なので
その問いについて見ていくことにする

「一般には、贈与交換における互酬こそが、
正義の原型と見なされている」

つまり与えられたものをちゃんと返すこと

それにもかかわらず
「文学や説話の中では、「金を貸す人間」の方が
邪悪であるかのように描かれ」ることが多い
借りるほうをイノセントであるとし
貸すほうが悪く描かれる

なぜか

「贈与は、与え手が受け手を支配する力を
生み出してしまうから」である
「贈与は、他者に価値のあるモノをもたらしながら、
そのことを通じて、その他者を拘束する力を発生させる」

そのため「互酬」は正義の原型とされながら
「うさんくさいもの」として不信を抱かれるもととなる

それならば「純粋な贈与を遂行すれば、
相手を、負債の感覚を通じて支配することなどないはずだ」が
純粋な贈与は不可能だ

どんな贈与のなかにも与えることによる力は否応なく発生する
たとえば無償で与えるという行為に対して
与えられたほうは感謝するのをあたりまえだと思い
与えた方はなんらかの感謝を求めてしまう
そのとき「純粋な贈与」は成立しない

では「互酬的な贈与の論理」なくして
「純粋な贈与」が成立する可能性はないのか
という問いが生まれる

そこで大澤真幸は世界宗教とくにキリスト教における
イエス・キリストの磔刑死を引き合いにだす

そもそもキリストは
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」とさえ言う
その行為は「互酬的な贈与の論理」を超えている
純粋な贈与どころではない

しかもキリストは罪なくして磔刑死する
そしてそれが人間にとって罪の購いになるという以上に
「一般の「贖罪」が前提にしていた
「均衡による正義」の論理そのものが失効してしまう」
キリストは律法を終わらせたのだ
律法の正義こそが「互酬的な贈与の論理」に基づいている

さてその視点から大澤真幸は
なんと高次化したコミュニズムのヴィジョンを示唆している

神はわたしたちのような人間となった
その意味でわたしたち人間は
〈人間/神〉という亀裂を抱えていたイエス・キリストと同様
「〈自己/(超越的)他者〉という分裂を内的に孕んでいる」
そのように「差異において普遍的であること、
これを根拠に生まれる共同体が、聖霊であり、
高次化したコミュニズムだ」というのである

原初的なコミュニズムの限界はその贈与関係において
主体と主体の間に「互いに相手を屈服させようとする
力の闘争としての側面」があることを否定できない

しかしそうした「〈自己(われわれ)/他者〉という複数性」が
「個々の主体に内在している普遍的な差異性であるとすれば」
それは「対立や葛藤の原因ではなく、連帯のための条件となる」という

かなりぶっとんだ論理展開だが
逆説的にいうならば
神であり人間であるという論理構造を
共同体と個々人にあてはめるほどでなければ
「聖霊的なまでに高次化したコミューン」は
成立しえないということだろう

神秘学的にいえば
個を最高度に保ったままで
集合魂的な生を可能にした状態だともいえる
シュタイナーのいう「金星紀」のありようである

むしろこうした大澤真幸の視点は
希望ではなく絶望さえも感じさせるものだが
よく考え直してみれば
シュタイナーの示唆した社会有機体三分節化の
「経済における友愛」はその視点に近しいものであるともいえるが
あらためてその困難さを痛感させられる

■大澤 真幸 『経済の起原 (クリティーク社会学) 』
 (岩波書店 2022/1)

「一般には、贈与交換における互酬こそが、正義の原型と見なされている。この通念に従えば、「互酬が未だに実現していない状態に対して責任があること」こそが、要するにお返しをせずに、負債を残していることこそが、罪の原型である。実際、ニーチェをはじめとする多くの思想家・哲学者が罪を、「負債の一般化」として理解してきた。

 しかし、そうだとすると、不可解なことがある(…)。しばしば、文学や説話の中では、「金を貸す人間」の方が邪悪であるかのように描かれてきたのだ。借りた側、負債のある側が悪い、というのであれば、筋が通っている。しかし、借りた者はイノセントで、貸した方が悪い、と思い描かれる方が一般的だ。しかし、互酬こそが正義であるとすれば、貸した側には、何の責任もない、互酬が実現していない原因は、もっぱら、借りたまま返していない者にあるからだ。どうして、貸した方が悪いかのように言われることの方が多いのか。

 この不可解さは、(…)次のように解決することができる。贈与は、他者にとってポジティヴな価値のあるモノを、その他者にもたらすことである。それゆえ、一般に、贈与は、倫理的には善きこととして評価される。しかし、同時に、贈与には否定的な意味も宿る。なぜなら、贈与は、与え手が受け手を支配する力を生み出してしまうからだ。受け手の側の負債の意識を媒介にして、贈与は、与え手が受け手を支配することを可能にする。

 受け手の方に負債の意識が生ずる原因は、贈与が、一般に、互酬化されることへの強い社会的圧力を伴うことにある。与えた側は、ほとんどの場合、お返しがあって当然だと思っている。そして受け手の側は、お返しすることを義務だと感じている。お返しが実現するまでは——つまり互酬的な交換が未了のうちは——、受け手側は、与え手に対して負い目がある。このとき、受け手はどうしても、与え手が喜ぶように行為しなくてはならない、あるいは少なくとも、与え手に不快なことはできない、と思うことになる。与え手を喜ばすことだけが返済に近づくことであり、逆に、与え手を不快にすることは不快を大きくするからである。

 このように、贈与は、他者に価値のあるモノをもたらしながら、そのことを通じて、その他者を拘束する力を発生させる。「金を貸す人間」が邪悪な人物として描かれるのはこのためである。根底には、互酬性そのものへの不信がある、と解釈してよいだろう。互酬的であることへの要請が、贈与にともなう力を生み出すからである。それゆえ、互酬は、一方では正義の原型と見なされつつ、他方では、「うさんくさいもの」とも感じられているのだ。」

「それならば、どうすればよいのか。(…)答えはごく簡単だ……そのように思える。純粋な贈与、見返りを求めない贈与を遂行すればよいではないか。与えられた者が返済の義務を負わずにすむように、贈与すればよいではないか。

(…)

 それゆえ、もともと贈与としての贈与は、お返しの正当な要求を含んではいない。だから、純粋な贈与を遂行すれば、相手を、負債の感覚を通じて支配することなどないはずだ。こう結論したくなる。

 しかし、ことはそう簡単には片付かない。なぜなら、純粋な贈与は不可能だからだ。贈与という概念には、内在的な矛盾がある。贈与は純化したとき、自己否定に至るのだ。これこそ、かつてジャック・デリダが述べていたことではないだろうか。(…)

 たとえば、あなたが誰かに、お返しなどまったく要求せずに、お返しへの期待すら抱かずに、何かを贈ったとしよう。それでも、あなたは、その贈り物に関して、相手があなたに礼くらいは言うべきだ、と考えるのではないか。相手は、あなたに感謝すべきだと思うのではないか。しかし、そのときすでに、贈与の純粋性は失われている。あなたが感謝しているということは、その人があなたに対して負債の意識をもっている、ということを含意するからだ。

(…)

 したがって、純粋な贈与、真に無償である贈与を目指したとしても、なお、その贈与は、(与え手が受け手を支配する)力を生み出さざるをえない。繰り返せば、純粋な贈与は不可能だからだ。」

「ここでヒントになるが、世界宗教である。世界宗教においても、一般に、互酬の論理が貫徹していることが正義である。しかし、同時に、世界宗教はしばしば、互酬を批判もしている。グレーバーの見るところでは、世界宗教は「市場〔≒互酬〕への怒号」である。世界宗教は、したがって、互酬的な贈与への信頼と不信の両方の表現になっている。

(…)

 考察の対象とするのに最もふさわしい世界宗教は、キリスト教である。キリスト教において、互酬への肯定と否定との間の矛盾が極限にまで強調されて現れているからである。キリスト教の信仰の中心には、キリストの死は人間の原罪を購うものである、という理解がある。人間の罪が重い負債のようなものであって、キリストが死ぬことによって、この負債が精算された、というわけである。これは、完全に互酬の論理である。しかし、(…)実際には、キリストの磔刑死の意味は、どうしても、互酬に立脚した説明では解き尽くせない。したがって、キリスト教にあっては、その信仰の中心で、互酬的な贈与の論理が自己主張しつつ、同時に否定もされていることになるのだ。

 キリスト教は、「互酬的なバランス」としての正義という概念を、説構築的に乗り越えようとしているように見える。どのような論理が働いているのか。解きほぐしてみよう。まず留意しておくべきことは、キリストは、互酬的な均衡を望ましいとする考え方に、しばしば異を唱えている、ということだ。右の頬を打つ敵に対しては左の頬を差し出してやれ、という教えは、中でも最もよく知られているものの一つだ。それだけではない。ここでは、ひとつずつていねいに検討はしないが、キリストの奇蹟や譬え話の多くが、互酬を正義の究極の姿とする考えへの批判が込められている。その最終的な帰結こそが、キリストの磔刑死である。」

「イエス・キリストが十字架の上で死ぬことによって、人間の罪が購われたことになるのは、どうしてなのか?

(…)

 もし、キリストの死が、人間にとって罪の購いになっているのだとすれば、それは、贈与、互酬的な贈与という枠組みで解釈してはならないのだ。」

「キリストの死によって、罪が購われたというとき、われわれは、普通は、互酬的な贈与の関係の中で、罪と罰とのバランスがとれ、帳尻があった、と考える。しかし、キリストの死による〈贖罪〉とは、そのような意味ではない。それは、一般の「贖罪」が前提にしていた「均衡による正義」の論理そのものが失効してしまう、ということだったのである。だから、キリストは律法を終わらせた、と見なすことができるのだ。」

「神は人間となる。このことは次のことを意味している。すなわち神でありかつ人間であるという矛盾からくる対立は、まずは——人間ではなく——神自身に帰せられる、ということ、である。神は、〈人間/神〉という亀裂を孕むことにおいて、他の人間たちといささかも区別できない普通の人間である。そうであるとすれば、他のすべての人間、すべての個人も、これと同じ形式の分裂、〈自己/(超越的)他者〉という分裂を内的に孕んでいるということではないか。すべての人間は、自らのアイデンティティのうちに、このような分裂、このような差異を内在させているという意味において同じである。普遍的な同一性があるのではなく、差異において普遍的であること、これを根拠に生まれる共同体が、聖霊であり、高次化したコミュニズムだ。

 原初的なコミュニズムに限界があったのは、主体の複数性という問題を克服できないからであった。「われわれ」と「他者」とが、相互に外在している以上、両者の間の友好的な関係は、「互酬化されることを願う贈与」という形式をとらざるをえないが、そのような贈与には、互いに相手を屈服させようとする力の闘争としての側面がある。しかし、〈自己(われわれ)/他者〉という複数性は、個々の主体に内在している普遍的な差異性であるとすればどうか。このような意味での複数性は、対立や葛藤の原因ではなく、連帯のための条件となる。

(…)

 ただ、ここで明らかにしてきたのは、純粋に論理的な可能性である。そのようなコミュニズムは、社会的現実においては、どのような形態をとるのか。それはどのような具体的な制度として現実化されるのか。こうしたことにういては、まだ何も示してはいない。コミュニズムは少なくとも論理的には可能である。しかし、現実においてそれは何なのか。それは、資本主義というシステムを分析したあとに回答すべき問いであろう。」

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