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永井玲衣「見られずに見る」(文藝 2023年春季号)

☆mediopos2979  2023.1.13.

世界をよく見るというときには
それが世界に根差しているかどうかを問う

よく見るためにはどうしても
それとの距離をとることが必要になるけれど
忘れられがちなのは
それをどこから見ているのかということ
誰として見ているのかということだ

それが問われないとき
見るということは
世界に根差すことのないまま
抽象化された結論ありきの予定調和となってしまう

先日 mediopos2971(2023.1.5.)で
「哲学対話」と称して行われることの
陥穽とでもいえることについてとりあげたが
それは「現実の対話」ではありえない対話だからだ

見る場所つまり視点が固定され
そこで行われるルールに従った対話は
抽象化された枠組みのなかでしか成立し得ないのだ

そこで抜け落ちてしまうものこそが
問われなけれならない要である

見るということは
どうしても「固定すること」になりがちだけれど
見る者も見られることで
そして聴き取ることで変容せざるをえない
「世界に根差し」ているとき
わたしたちは変容しないでいることはできないのだ

「自らの声を聴く、自らが根差している場所に耳を澄ます。
そして対象を見るのではなく、
対象から漏れ出る声を聴き取ろうとする」こと

そうして変容していくことで
たとえ「自分が誰だかわからなく」なるとしても
わからないなかでもわたしたちは
「どのように語るのか、どのように見るのか、
何を聴き取るのかを選んでいる」

永井玲衣は本稿の最後でこう語っている
それこそが「わたしたちにゆるされた、
うつくしく確かな自由そのもの」だと

自由であることは
世界のなかで世界とともにありながら世界を見て
そこなかでじぶんがどこにいるのかを問いながら
「わけがわからないものを、わけがわからないなりに描き、
語り、捉えようと」繰り返し試みることなのだ
最初から決められているような自由を得ようとすることではない

教育はすべからく自己教育であるというのもそういうことだろう
自己教育が繰り返し不断に成立しつづけること
それもまた「うつくしく確かな自由」の姿なのだといえる

■永井玲衣「見られずに見る」
(文藝 2023年春季号 河出書房新社 2023/1 所収)

「世界に根差しながら、世界をよく見ること、それはいかにして可能なのか。
 この問いがわたしにべったりと張り付いて、離れない。

 哲学をすることは、世界をよく見ることだと思っている。わたしたちにはものごとがよく見えていない。こんなもんかと思って生きている。こういうものだろうと見なして生活している。だからこそ、世界に対峙し、それがどんな姿をしているのか立ち止まり、丹念に眺めることを試みたいと思っている。

 興味深いのは、見れば見るほど、その対象は見えなくなることだ。あるいは、見たこともないような姿として立ち現れてくることだ・。たとえば、指。近づいて、見れば見るほど、肌理や毛穴などが前景に浮かび上がり「指」としては見えなくなる。または、「指」というもの、それ自体が、わけのわからない奇妙な何かに姿を変えてしまう。

 そうしてわたしたちは、また見るということを、さらに試みなければならなくなる。わけがわからないものを、わけがわからないなりに描き、語り、捉えようとする。それは失敗し、再度試みられ、また失敗する。それでも、何度も繰り返し、繰り返し、試みられる。

 哲学はそうした意味で無謀な営みであり、絶え間ない運動でもある。

 何かについて語るということを批評と呼ぶならば、批評もまた哲学と同じような試みなのかもしれない。対象をよく見ること。その奥底にうごめく、本質を見ようと目をこらすこと。そうしてそれを言葉にすること。

 批評は対象とのあいだに、距離を導入する。それは意図的になされる。べったりとわたしたちの生に張り付いてしまっている対象を、わたしから引き剥がし、目の前に座らせる。その距離が、批評を批評たらしめる。

 見るためには距離が必要だ。その距離が遠ければ遠いほど、優れた批評であると主張するひともいるかもしれない。目の前に座らせるどころか、対象をひとつひとつかき集め、自分は天高く舞い上がり、上から見下ろすようにして全てをまとめあげることこそ、批評であると言うひともいるかもしれない。もしくは、それが哲学であると考えるひともいるかもしれない。だが、本当にそうなのか。

(…)何かを規定することは、何かを排除することである。むしろ、何が抜け落ちそうになるのか、何が見過ごされてきたのかを見ようとすることが、私たちが夢中になって然るべき問いなのではないだろうか。

 わたしは問いたい。もっとよりよく問いたい。問うことによって、何かはもっとはっきり見えるようになる。そのための問いを探すことが。わたしたちにゆるされた自由である。」

「何かをよく見ること。そのために距離をとること。その際に、免れ得ない問いがある。それは、どこから見るのか、という問いである。見つめるそのわたし、それはどこから見ているのか。誰として、それを見るのか。

 その問いが抜け落ちてしまった批評や哲学は、あまりに虚しい。それに、あまりに滑稽でもある。

 哲学も批評も「何を語るのか」については注力してきた。それはいかなる仕方で語られ、何を明らかにするのかが議論されてきた。だがわたしには、それがどこから語られているのか、誰に向けて語られているのかという問いも、逃げることのできないものとして、わたしたちにのしかかっているように思われる。」

「誰に向けて書くのか?」

「誰として書くのか?

 この問いもまた、わたしたちに覆いかぶさってくる。何かについて語ることが批評なのだとしたら、それを語る主体は誰なのか、その対象についてどのような距離を持っているのかが自覚的でなければならない。自分はどこに根差しているのか、どのような状況からそれが語られるのかを、鋭く自らに問わねばならない。

 そうなれば、何かを語るとき、何かを論じるとき、何かを見ようとするとき、そこには問いが跳ね返ってくる。目を思わずつむってしまいそうな問いだ。冷たい泥水が顔にかかるような、そんなやるせない問いだ。

 見るためには、それを見るこのわたしがいかなる場所で、いかなる者としてあるのかを、問わざるを得なくなる。批評や哲学は、まずもって自己の吟味から離れることはできない。しかしこれは困難な問いである。

 根差すとは何か、自らの階級なのか、属性なのか、社会的な立ち位置なのか、それとも実存のあり方なのか。それらは複雑に絡み合い、何かを決めてしまえば、何かが抜け落ちてしまう。」

「語るためには、見るためには、見るわたしへと問いが跳ね返る。それは不可能なものとして立ち現れる。だからこそ、見ることや、語ることだけに力を注ぐのをやめ、聴くことを始めなければならない。自らの声を聴く、自らが根差している場所に耳を澄ます。そして対象を見るのではなく、対象から漏れ出る声を聴き取ろうとする。

 そのときはじめてわたしたちは、見るという特権的な場所から、ほんの少しだけ距離をとることができる・やめることはできない。免れることはできない。ただ、見るということ自体から距離をとることができる。」

「見ることは固定することだが、聴くことは変容させられてしまうことだ。揺るがないものはもうあまり興味がない。わたしはもう欲しくないのかもしれない。むしろ、そうでない、あたふたとよろめいているような批評、そしてそれは決して批評とは呼ばれなかったかもしれない何か、そのようなものに惹かれる。自分が誰だかわからなくなりながら、それでもどの場所からそれを語ろうとしているのかを描こうと奮闘する。そんな言葉を愛する。

 わからないと言いつつも、わたしたちは何かを選ぶ。どのように語るのか、どのように見るのか、何を聴き取るのかを選んでいる。それは、かぼそく、不安で、心細い自由である。だが、わたしたちにゆるされた、うつくしく確かな自由そのものなのだ。」

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