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ジェニファー・M・ソール『言葉はいかに人を欺くか/嘘、ミスリード、犬笛を読み解く』

☆mediopos-2450  2021.8.1

嘘と
ミスリード

ミスリードは
嘘はつかないで
受け手に誤った理解へと
誘導するという意味だ

言語がその言葉の
直接的な意味だけの次元しかないならば
嘘とミスリードは異なっている

けれど言語に行為や意味の背後にある
意図や文脈の次元を見ようとするならば
嘘とミスリードは交わってくる
そしてミスリードのほうが嘘よりも
ずっと「反道徳的」となることもある

とはいえ
意味の背後にある意図や文脈は
政治においては
往々にして戦略的な欺瞞であり
いわば恥ずべき行為ともなるのに対して
相手への思いやりや配慮のために
ミスリードが使われるのは
とても人間的な言葉ともなる

政治においては
「犬笛」という巧妙な発言も用いられる

犬が人間よりも広い範囲の周波数を聴きとれることから
犬に合図することを目的に用いられるのが犬笛だが
政治的な犬笛の場合は
特定の集団にだけ分かる合図でメッセージを送り
人心を操作する政治手法のことを言う

言葉はミスリードのように
表面上の意味だけではなく
隠された意味をそこに込めることもできるのだ

本書の邦題は『言葉はいかに人を欺くか』だが
言葉の意味を表面的に受け取る次元だけではなく
それとは異なった次元の働きを用いることで
言葉は言葉の表面的な意味を超えた影響を
人に与えることができる

最近よく言及されることのある「リテラシー」だが
表面的な「読みとり」だけでは
「リテラシー」を育てることにはならない

政治の世界はもちろんのこと
マスメディアの世界ではさらにそれが重要になる

現代の宗教は「科学(主義)」だともいえるが
マスメディアの伝える情報は
人が疑いを持ちにくい「科学的」という言葉で
「ミスリード」の手法を用いることが多い

あえて直接的な嘘はつかないようにしながら
伝えたくない情報は外し
伝えたい情報だけを「科学的」と称して伝えている

そして伝えざるを得ないときは
「そう考えられている」と小さく付加する
断定はしないで「考えられている」とするだけで
伝えている情報が不誠実なものであったとしても
「想定外」といったことにできるからだ

かつて原子力発電も
安全だと「考えられて」いたが
「想定外」のことが起こった場合
その情報を伝えた責任をとる主体はそこにはいない
そのときには「そう考えられていた」だけだから
マスメディアの世界もまた同じ

現代はますます言葉の多次元的な使われ方に
意識的であることが求められる時代になっている
そうでなければ「情報」として与えられる洗脳ワードに
ただ振り回されるだけになってしまう
そして振り回されたあとの責任は
それを信じ込んだ自分で負うしかなくなるのだ

■ジェニファー・M・ソール(小野純一訳)
 『言葉はいかに人を欺くか/嘘、ミスリード、犬笛を読み解く』
 (慶應義塾大学出版会 2021/4)

「「言われていること what is said」やそれに関する用語は、現在、言語哲学できわめて多様な使われ方をしている。」
「例えば、「嘘 lie」と「ミスリード mislead」(嘘をつくことなく誤った理解に誘導すること)」という用語を取りあげよう。嘘をつくこととミスリードすることの区別はきわまて自然である。(・・・)これは、一般の話し手がごく簡単に区別でき、大抵は日頃から意識する区別である。この区別は法律の分野では明確に認識され、重大な意義が与えられている。胸部深いことに、それは「言うこと saying」という概念に関心を向けさせる区別でもある。というのも、「誤ったこと」(あるいは少なくとも、誤りだと信じている何か)を意図的に言うのでないかぎり、嘘をつくことはできないからだ。
 それでも、この区別こそが問題なのだ。」
「実際、嘘とミスリードの区別は、政治においてかなり頻繁に重要になる。嘘とミスリードの区別に自覚的であることによって、プッシュ・ポールという悪名高い政治的な実践が可能になる。プッシュ・ポールは、データ収集のための世論調査を偽装した電話を有権者にかけるキャンペーン戦術である。だがデータは収集されなし。その代わり、有権者は一連の質問をされる。このプッシュ・ポールの背後で意図されているのは、これら一連の質問が、選挙運動の対立候補にとって不利と見なされる情報を真実であるかのように示唆することだ。最も有名な例の一つは、二〇〇〇年の[アメリカ大統領選]予備選でジョン・マケイン(・・・)に対しジョージ・W・ブッシュが実施したプッシュ・ポールだ。そのプッシュ・ポールで有権者は「ジョン・マケインが黒人の私生児を認知したとあなたが知ったとします。あなたは彼に賛成票を投じて大統領に選ぶ可能性がより高くなると思いますか、それとも低くなると思いますか」と尋ねられた。実際にはジョン・マケインが、黒人だろうと白人だろうと、非嫡出子を認知したという事実はない。もし「マケインが認知した」と言っていたら、それは嘘になっただろう。だがこの世論調査は、そう明言せずいnあたかもマケインが認知したかのような印象を巧みに植え付けることに成功した。そして、これによってマケインはサウスカロライナ州の予備選で大敗を喫したと広く考えられている。
 しかし、嘘とミスリードの区別を意識するのは政治家にかぎらない。私たちのほぼ全員が行きにするだろう。ある優しい老婦人が死の間際に自分の息子が元気か知りたがっているとしよう。あなたならどうするか考えてみてほしい。あなたは昨日、彼に会ったが(その時点で彼は元気で幸せそうだった)、その直後にトラックにはねられて死んだことを知っている。もしあなたが大多数の人と同じなら、2よりも1を発話する方が善いと考えるだろう。なぜなら、1の発話が単なるミスリードであるのに対して、2の話は嘘だからだ。その理由は、1が言うことは真実であるが、2が言うことは誤りというものだ。

 1 I saw him yesterday and he was happy and healthy.昨日会った時、彼は幸せで元気そうでしたよ。
 2 He's happy and healthy.彼は幸せで元気そうにしています。

 私は以前から「言われていること」に関心があるが。政治家の慎重な発言や策略にはさらに前から関心があった。したがって当然ながら、嘘とミスリードの間にあるかなり直感的な区別に関わる「言うこと」という概念と、言語哲学の文献で論じられている概念との関係に疑問をもつようになった。もし、嘘とミスリードの区別にかかわる概念が、言語哲学の文献にみられる諸概念のうちの一つと同一であるなら、その概念は少なくとも一般の話し手が考え、気にすることと同じだとわかる。しかしそうでないなら、そこには取り組むべき問題があることがわかる。」

(「訳者解題」より)

「嘘もミスリードも、人を裏切るという意味とその効果については変わらない。ただしミスリードでは、ミスリードする側にのみ非があるのではなく、聞き手が自分自身で間違った解答にたどり着く点で部分的に責任を担うという考え方もある。ミスリードする人は自分の手を汚さずに、つまり嘘をつかずに、嘘と同じ成果を得ることができる。それどころかミスリードする人は、自分が相手を欺いたのではなく、相手が勝手に誤解したのだから、自分は悪くないと安心感を得るかもしれない。自分の行いを正当化する自己欺瞞であるなら、嘘と比べてより反道徳的だとも言える。
 だがもし、もうすぐ臨終を迎える心優し老人が、前日にむずこが事故死したことを知らず。自分の息子が元気かあなたに尋ねたら、どうするだろう、「あなたの息子は昨日死にました」と事実を告げるべきか。それとも(不慮の事故の前に会った時は)「元気でしたよ」と答え、穏やかな最期を迎えさせるべきか。この議論は、日常生活でどの言語行為を選ぶかで発話者の人格や道徳性が露呈する点で重要だとソールは指摘する。」
「このようにソールは数々の事例を挙げ、嘘とミスリードの間にある道徳的な区別をあぶり出し、ミスリードの方が善いという常識を疑い、倫理学に新しい議論と知見を提供する。両者の区別には、言語哲学の中心概念である「言われていること」や、言葉通りの意味、言外の意味が関わる。哲学だけでなく。ありふれた会話や政治の中で「言われていること」とは何かという問題は、自明のようでいて、実は共通した理解がない。」

「人を欺く言語行為は嘘以外にもさまざまに存在する。その一つが、民主主義にとって危険な政治戦略としての「犬笛」である。これも含意によって人心操作するという特定の目的をもった「言うこと」である。」
「元来、犬笛は犬が人間よりも広い範囲の周波数を聴きとれることを利用し、犬に合図することを目的に行われる。この意味を転じて、特定の集団にだけ分かる合図でメッセージを送り、人心を操作する政治手法を犬笛と呼ぶ。犬笛による発話は、誰もが言葉通り理解できる表現から成るが、その隠れた意味は一部の聞き手だけが把握でき、他の人は気づかない。特に政治家は犬笛を用いて、人種差別的な態度を隠しながら、自分の人種差別主義に賛同する相手にだけ合図を送り、支持を得ることができる。その真意を公言すれば支持を失うことが確実でも、犬笛を巧みに利用すれば、差別に反対する人たちでさえ支持者にできるかもしれない。
 差別主義者の真意を読み取れずに、もし私たちが、その政治家に投票してしまったら、どうなるだろうか。私たちは意に反して、人種差別的な政策や発話に加担したことになるかもしれない。政治家に功名に欺されたと感じた有権者に対し当人は、自分はそんなことは言っていないとか、自分は人種差別主義者ではないと否定するだろう。このように犬笛は錬られた戦術なのだ。そこでソールは犬笛政治への有効な対抗措置を提案する。論文が立脚する実証実験が示すように、どんなに巧妙な犬笛でも、それが人種差別である可能性が指摘できるよ、被験者への効果が弱まることが分かっている。確かに犬笛は知らずに拡散されることから、意見を声に出して言うという民主主義の根幹を蝕む。この脅威に対する強力な対策を言語哲学の見地から示唆するからこそ、ソールの考察は重要なのだ。」

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