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吉村 萬壱『哲学の蠅』/白川 静『文字遊心 』

☆mediopos2601  2021.12.30

狂気とはなにか

狂気とは異質なものへの逸脱であり
理性を否定するものとしてあらわれるが
闇を通してこそ光がもたらされるように
狂気は理性に内在する内なるものでもある

ゆえに理性的であるためには
みずからの内なる狂気への自覚が必要となる

逆説的にいえば
狂気を自覚できないときの理性は
理性である条件を持ちえていない

それは言葉をかえていえば
悪人正機という悪の自覚による正機であり
無知の知という無知の自覚による知である

ここに吉村萬壱の自伝的エッセイ
『哲学の蠅』がある
作家デビュー20年にあたって著されたものだが
こんな壮絶に綴られた自伝は読んだことがない
「蠅」に擬えたみずからの生が哲学として語られている

帯にこんな言葉が書かれている

「“哲学”を読むこと、“文学”を書くこと、
“人生”を狂うこと・・・・・・。
世間の「自明性」と、世間の「正当性」を破壊しながらも
なお“物語”に人間の希望を託してきた作家の、
魂魄の記録であり、現象的自叙伝であり、
誰も描き得なかった哲学の本である」

本書では「世間様」に「狂気」が対置される

「世間様」は「常識や普通の極北」であり
「狂気」は「その対極に位置するもの」である

著者・吉村萬壱は
「人の道」に拒否反応を示す
それが「当たり前」と考えられていることに対して
自他をその「型」に嵌め込もうとすることを嫌う

とはいえ「人の道」をひとから強制されるのは拒むが
「人の道」を踏み外すような人間は許せないともいう

その理由が頷ける

「そういう人間の相手をするのは大層しんどい」からだ
「人の道」に疑いをもたない「強い」人間は
「何の疑いも持たない」がゆえに「面倒臭い上に、
エネルギーが吸い取られてしまう」という

「世間様」を生きて「人の道」に疑いをもたない者は
往々にしてそうでない者を
過剰なまでにそれに巻き込もうとする
無自覚は自分勝手な正当性を押しつけふりまわすのだ

しかしそのオチが面白い

今の環境に過剰適応し「世間様」を生きているような
「強い種は環境変化によって一挙に絶滅する」が
「辺境に生きる弱い種は生き延びる可能性が高い」という
たしかに過剰適応は環境の変化に極度に脆弱である

一見みずからを笑いのネタにして書かれているが
この「世間様」と「狂気」の対置は
先述したように
まさに悪人正機や無知の知にもつながる
「自覚」への道を如実に示している

世間の「自明性」や「正当性」を疑わないところに
人間の創造的な可能性はひらかれえないからだ

■吉村 萬壱『哲学の蠅』
 (創元社 2021/11)
■白川 静『文字遊心 』
 (平凡社ライブラリー 平凡社 1996/11)

(吉村 萬壱『哲学の蠅』〜「解放」より)

「私は「忠犬」というのが苦手である。
 家に忠犬が一匹いると、それはきっと主人の自由を奪うだろう。主人思いの立派な犬の前で、どうして観責任でいい加減な飼い主でいられようか。それではまるで忠犬という「世間様」がずっと家の中にいて監視の目を光らせているようなもので、息ができないのではなかろうか。」

(吉村 萬壱『哲学の蠅』〜「狂気」より)

「私は狂気というものに対してずっと憧れていた。母が取り憑かれていた「世間様」が常識や普通の極北であったとすれば、狂気こそその対極に位置するものと思われたからである。そしてそれにも増して重要な理由は、狂気が「向こう側の世界」に触れている気がしたからだった。しかしひょっとすると、「世間様」に異様に固執する母こそが狂気と最も親和性が高い人格だったのかもしれない。」

(吉村 萬壱『哲学の蠅』〜「熱量」より)

「「人の道」という言葉を聞くと、私は反射的に拒否反応を起こして「イーッ」となってしまう。「人の道」という「人として踏み行うべき道」が予め決まっていて、それを踏み外さぬように生きていく人生が「当たり前」と考えられていることの背景には、彼らをそう信じ込ませている強大で暴力的な「力」の存在を感じる。彼らは刑務所や軍隊にいるのではない。市井に暮らす自由人であるにも拘わらず、なぜ自ら進んで「人の道」という「型」に自他を嵌め込もうと腐心するのだろうか。
 文化人類学者の奥野克巳は『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』の中で、ボルネオに暮らす狩猟採集民プナンについて、次のように述べている。

  「反省する」という言葉はプナン語にはない。
  「ありがとう」という表現は、プナン語にはない。
  プナン語には、「借りる」「返す」という言葉がない。
  プナン語には精神病、こころの病を表す言葉がない。

 言葉がないということは、その概念もその事象もないということである。プナンの人びとの暮らしには、反省も、感謝も、貸し借りもない。つまり我々の社会で「人の道」とされているものが存在しないのである。「人の道」とは、厳密には我々の社会に固有のものであり、親方のような存在が弟子に懇々と説教することによって辛うじて保たれているような特殊な価値基準に過ぎない。従ってそれを絶対のものと考える必要はなく、それが苦しいと感じるならそこから逃げ出したり、風穴を開けたり、笑い飛ばしても一向に構わないものなのだ。」
「「人の道」のような「美徳」を採用しないことは、私の精神を解放し、伸び伸びとした深呼吸を可能にしてくれる。予め敷かれたレールを往くことほど、うんざりする人生はない。
 しかしだからと言って、私にはサド侯爵のように、サディスティックな悪徳に熱狂するほど、良心の呵責から解放されてもいなければ、充分なエネルギーの持ち合わせもない。逸脱行為には否応なく惹き付けられるが、恐らくまがまがしいプレイの最中にふと堪らない虚しさに不意を衝かれ、恐れをなして逃げ出してしまうに違いない。
 逸脱を享受するには、それなりの能力が必要なのだ。
 生きる力、生きるエネルギーの不足は、ひょっとすると私の人生における根本的な問題かも知れないと思う時がある。世の中には、生きんとする意志が並外れて強い人間が多過ぎる。彼らは生物個体として強靱で、健康で、利己的で、この世界を牛耳っている中心勢力として君臨している。とても敵いそうにない。力で勝てない者は、道徳や秩序に頼って自分を護るしかない。従って私は本当は「人の道」に依存しながら生きているのである。借りた物を返さない人間や、反省も感謝もしない人間が、実は私は大嫌いなのだ。そういう人間が「プナンには、有難うも御免なさいもない」とぬけぬけと言い放ったとしたら、私は内心激怒することであろう。「人の道」を強制されるのは御免だが、「人の道」を踏み外すような人間は許せない。なぜなら、そういう人間の相手をするのは大層しんどいことだからだ。面倒臭い上に、エネルギーが吸い取られてしまう。こういうところが私という人間の矛盾した点である。そして実はこういう人間の存在があってこそ、「人の道」という鵺的存在は延々と生き延びてきたのに違いないと思うと、こんな自分につくづくうんざりする。従って私には「人の道」を否定する資格はない。それでも私は「人の道」が大嫌いなのだ。「人の道」は母の口癖でもあった。母は私より、遙かに生きる意欲に満ち溢れている。強い人間ほど「人の道」に何の疑いも持たないものである。何という疎ましさか。私の唯一の頼みの綱は、強い種は環境変化によって一挙に絶滅するが、辺境に生きる弱い種は生き延びる可能性が高いという進化論上の法則だけである。今の環境にやっと適応して細々と生きている種は、環境が変わっても何とか適応していくだろう。滅ぶのは、今の環境に過剰適応している種である。」

(白川 静『文字遊心 』〜「狂字論」より)

「狂気を意味する alienation は、本来疎外を意味する語であり、さらにいえば alien は異邦人、異質なるものを意味する語である。狂気は理性にとって異質なものとして区別され、排除されるものであるが、しかし闇を通して微光がもたらされるように、人はこの異質なるものを内在させることによって、はじめて理性的であることができるのではないか。すなわちその異質なるものの自己疎外を通じて、より理性的であることができるのではないかと思う。パスカルの[パンセ](四一四)に、次のような一条があることが思い出される。

  人間が狂気じみていることは必然的であるので、狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、やはり狂気じみていることになるだろう。

 フーコーはこのことばを引用したのち、ここには「理性に内在的な狂気の発見、つぎにそのことに由来する二重性」の問題があるとしていう。

  この二重性とは、一方では理性に固有な狂気を拒否し、それを排除しつつもそれを倍化し、この倍化によって、狂気のなかのもっとも単純でもっとも閉じられ、もっとも無媒介な狂気におちいっている「狂った狂気」であり、他方では、理性のもつ境域を受けいれ、それに耳をかたむけ、その市民権を容認し、その激しい力の侵入をそのままにしている「おとなしい狂気」である。−−−−狂気の真理とは、狂気が理性にとって内的であり、いっそうよく自らを確保するために理性の一形姿・一つの力・いわば一つの必要である。[狂気の歴史]

 あの謎のようなパスカルの語について、これは一つの簡明にして説得的な解説といいうるものであろう。そして「ニーチェの狂気、ヴァン・ゴッホの狂気、あるいはアルトーの狂気」のように、「狂気となって炸裂するこうした創作活動は、近代世界ではたびたび起こっている」ことであり、この「頻発性を、一つの問題の執拗さとして真剣に受けとめる必要がある」ともいう。たしかに狂気の問題は、人びとの生活が全地球的に急速に拡大されつつあるいまの時代には、いっそうその緊迫度と頻発性とを加えてきているように思われる。この世紀末的な状況のなかで狂気はすでに日常的なものであり、また、いつどのような新しい狂気が炸裂しても、ふしぎでないような気がする。しかし狂気はもともと「理性自体のなかに、理性の諸形態の一つとして、恐らくは理性の支えの一つとして」あり、理性が自らを確保するために、「理性にとって、一つの必要」として位置づけられるべきものであった。すなわち狂気は、その疎外の原理に従って、「狂気と区別され分割された理性がいかなるものであるかを照らし出す」(中村雄二郎[述語集])役割をもつ。狂気こそが理性と創造の源泉であり、狂気の歴史は、その民族の創造的な活力の消長を示すものであった。」

「狂はロゴス的な世界のなかで、理性の否定者としてあらわれる。しかもそれは理性に内在する、内なるものである。この理性への反逆者は、「これを裁する」ことによって、はじめて理性を支えるものとなり、理性の一つの形態となる。」

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