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伊藤亜紗「一番身近な物体」 第四回 帝国主義者のまなざし(「あさひてらす」)

☆mediopos3355  2024.1.24

伊藤亜紗「一番身近な物体」の連載
第四回は「帝国主義者のまなざし」

第三回までは
mediopos3229(2023.9.20)と
mediopos3289(2023.11.19)ですでにとりあげている

伊藤亜紗による
「シン・ユニさん」の自宅でのインタビューから

シン・ユニさんは
「先天性疾患・脊髄性筋萎縮症(SMA)」の大学院生で
「認知能力や会話に問題」はないものの
「筋力が低下しているため、
体をほとんど動かすことができ」ず
「入れ替わり立ち替わり約10人のヘルパーさんの
介護を受けながら自立生活」をしている

「一般的な社交において、見ることを許されているのは
ほぼ「顔」だけ」なのだが
伊藤氏がインタビューのためリビングに入ったとき
「ユニさんの視線」が「私ではなく私の体を、
頭のてっぺんから足のつま先まで
さっとスキャンしたように感じた」という

しかしユニさんのばあいのそれは
「きわめて実践的・実利的な関心からくるもの」で

「ユニさんの移動可能性は、そのときたまたま近くにあった
他人の体の身体能力に完全に依存して」いるため
「あらゆる他者の体が潜在的に「自分の体」」であり
「他人の体は文字通り「自分ごと」」になるのである

そんなあり方をユニさんはみずから
「冗談めかして「帝国主義者」と呼」んでいる
「他者の体を取り込んで、
自分の領土の一部にしていく」という意味である

ユニさんにとって
「自分の体を自由に動かせないこと」と
「すべてを手中におさめる帝国主義者としてふるまうこと」が
「ダイレクトにつながっている」という

ユニさんは「自分の延長である他人の体を使いこな」すために
介助者とのやりとりにおいて「自分の体の生理的な状態を、
絶えず外に向かってブロードキャストしている」
つまり「ずっとしゃべっている」

「体を動かせる人であれば、ちょっと姿勢をずらしたり、
患部をさすったり、食べ物を口に運んだりすることで、
小刻みに起こるそうした欲求を解消して」いくが
「ユニさんはそれを、外へと常に「可視化」ならぬ
「言葉化」することで解消につなげている」のである

「「しかし、何でも言葉にするということは、裏を返せば、
言葉にしないものはない、ということを意味」するため
ユニさんは「内語とかない」のだという
「反省、リフレクシオンとかない。全部パロール」

「体を動かせる人にとって、自分の「領土」は
基本的に体の物理的限界と一致」していて
「その領土内で行われる知的な営みを
「考える」と呼んでいる」のだが

「ユニさんの「領土」は、体の物理的な限界を超えて
その外側にも広がって」いて「考えるという営みが、
物理的な体の外側において行われることになる」

つまり内的なものとされる思考が
つねに外在化されて表現される

伊藤氏は晩年の谷崎潤一郎が
ほぼ全面的に口述筆記によって執筆するようになり
「谷崎が言葉で話した内容を秘書が書き留めるという、
ユニさんと同じスタイルで書くようになった」
という事例をとりあげているが

そうした秘書といった「他の人間の身体を媒介に」した
「執筆形態は作品の内容にも影響を与えているはず」で
(「表面上は「コンテンツ」の外部に置かれて」いるが)

それは「「オーサーシップとは何か」という
大きな問題につながって」いくという

「体の使い方が変われば考える方式が変わり、
考える方式が変われば思想の主体も変わる。
それは単に、そこに関わった人すべての名前を列挙すればいい、
という単純な話ではない」からである

そのように
ユニさんの拡張した「体」は
「考える」ということ
そして「思想の主体」といったことに問いを投げかけている

ユニさんのように「他者の体を取り込んで、
自分の領土の一部にしていく」こととは異なっていても
ひとは多かれ少なかれ「他者の体」から切り離されてはいない

「他者の体」だけではなく
ひと以外のさまざまな環境や道具などもふくめ
「自分の領土の一部」にしていきながら生きている

さらにいえばじぶんの体としている「領土」も
「じぶんの」といえる「主体」さえ明確ではない

「じぶんが考えている」と思っていても
その「主体」の「じぶん」を問うとき
それがなんなのかわからなくなったりもする

こうしてキーを打ち込みながら
「書いて」いるぼくにしても
その「ぼく」とはいったいどんな「主体」なのか・・・
使っているパソコンなどもふくめ
「自分の領土」を合わせて成立する「主体」なのかもしれない

■伊藤亜紗「一番身近な物体」
 第四回 帝国主義者のまなざし(2024.01.06)
 (朝日出版社ウェブマガジン「あさひてらす」)

*(「初対面で全身スキャン」より)

「シン・ユニさんの自宅におじゃましたのは、夏の初めのじめじめした日。介護のためにシフトに入っていた悠平さんに案内されて洗面所で手を洗い、マスクを新しいものと取り替えて、リビングにいるユニさんと対面しました。

 ユニさんは先天性疾患・脊髄性筋萎縮症(SMA)の当事者。24時間、入れ替わり立ち替わり約10人のヘルパーさんの介護を受けながら自立生活する大学院生です。認知能力や会話に問題はありませんが、筋力が低下しているため、体をほとんど動かすことができません。両腕も祈るような姿勢で常に肘が折り曲げられており、介護者がその位置をときどき調整しています。「自分の体でさわったことがない部位があるわけですよね」と訊いたら、「そうだね、お尻とかさわったことない。足もとどかない」と早口で返事が返ってきました。

 日頃のインタビューで私が一番知りたいのは、その人とその人の体の関係です。生まれてから現在までのあいだに、その人は自分の体をどのようなものとして捉えるようになり、それに対してどのような距離感で接するようになったのか。しかしユニさんにはそもそも体との関係なんてあるのか? その設定自体、あまりに自分の体を前提にしたものだったのかも……そんな不安に苛まれながらの訪問でした。

 リビングに入ると、ユニさんは筋肉の少ない細い体をソファに横たえていました。水平のユニさんに、垂直に立ったまま近づいていく私。その出会いに、水平と垂直によって十字を作るようなぶつかり合いを感じたのは、私を見るユニさんの視線が、独特な動きをしたからでした。あくまで私が受けた主観的な印象ですが、ユニさんの目は、私ではなく私の体を、頭のてっぺんから足のつま先までさっとスキャンしたように感じたのです。

 一般的な社交において、見ることを許されているのはほぼ「顔」だけです。初対面のときは特に、断りもなく相手の体をじろじろ見ることは、それだけで失礼な行為にあたります。胸やお尻はもちろんのこと、頭部を見るだけでも「この人、私の髪型を変だと思っているのかな」等の疑念を相手に与えてしまうことになりかねません。視線に関しては、まさに顔だけが、他者に許された唯一のインターフェイスなのです。」

*(「帝国主義者に狙われる」より)

「ユニさんのスキャンするまなざしは、欲望や疑念からくるものではなく(そういう場合もあるかもしれないけれど、少なくともそれだけではなく)、きわめて実践的・実利的な関心からくるものだったのです。その背景を、ユニさんはこんなふうに語ります。

  たとえば万が一今地震がきて、その人が生き残ったけど、ぱっと横見たらOくん〔そのときのヘルパー〕の体に鉄骨がぶっささってて「もうOくん死んだんだ」ってなったら(笑)、その人に抱っこしてもらって逃げるのかとか、そういう妄想をね、するよね。」

「私のように自力で動くことができる人が他人の体に対してもつ潜在的関係と、ユニさんが他人の体に対してもつ潜在的可能性は、全く異なっています。万が一のときは、自分はこの人の体を使って逃げるかもしれない。ユニさんの移動可能性は、そのときたまたま近くにあった他人の体の身体能力に完全に依存しています。つまり、ユニさんにとっては、あらゆる他者の体が潜在的に「自分の体」なのです。他人の体は文字通り「自分ごと」です。

 他人の体を潜在的な自分の体として見ること。見られた「他人」の側からすれば、それはユニさんの生存に自分の体が巻き込まれていくことを意味します。他人の体が自分の延長じゃなきゃ困る、というユニさんにとって、それは死活問題です。しかし、見られた側にも、ユニさんの体に組み込まれてしまうことへの直感的な戸惑いがあります。単刀直入に言ってしまえば、ユニさんに見られたとき、私は「狙われている」と感じたのです。横たわる細い体から発せられる、スナイパーのようなまなざし。ほんの一瞬だったけど、何だか射すくめられるような感じがしました。もちろんその緊張は言葉を交わすことによってすぐに解けたのですが、ユニさんにとって身体という言葉が意味するものを垣間見た気がした瞬間でした。

 そんな自身のあり方を、ユニさんは冗談めかして「帝国主義者」と呼びます。他者の体を取り込んで、自分の領土の一部にしていく。領土拡大を狙って、目は次なる大陸=体を探しています。もちろん、これはあくまでユニさんのケースであって、同じように介護を受けながら生活をしている人がみなそうだ、というわけではありません。「自由が好きなくせに、すべてを自分の手中におさめないと、気が済まない」というユニさん。(・・・)

「自分の体を自由に動かせないこと」と「すべてを手中におさめる帝国主義者としてふるまうこと」。自分に裁量のある範囲の多寡という意味では真逆にも思えるこの二つの傾向が、ユニさんのなかでは、ぶつかるどころかダイレクトにつながっているのです。」

*(「他者の体の自己性/自己の体の他者性」より)

 ただ注意しなければならないのは、ユニさんの帝国主義が、「他人の体を自分の意のままにあやつる」という意味での単純な道具化とはどうも様相が違っている、ということです。確かに関係性としては、他人の体は自分の体の延長じゃなきゃ困る。でもたとえば先にあげたような地震が本当にやってきたとき、他人の体が実際に役に立つかどうかは別問題だ、ともユニさんは言うのです。守ろうとしても、守りきれないかもしれない。他人の体は不確実性をはらんだ領土なのです。」

*(「体の声をブロードキャスト」より)

「ではここからは具体的に、ユニさんと介助者のやりとりを見ていきましょう。ユニさんはどのように、自分の延長である他人の体を使いこなしているのでしょうか。

 そばにいてまず驚くのは、ユニさんが「ずっとしゃべっている」ということです。「体調がわるくてもしゃべってる。肺炎でゲホゲホしてるときでも、わりとしゃべってる」。もちろん普通の会話もしています。独り言や歌もあるそうです。でもユニさんに特徴的なのは、そうした言葉に加えて、「お水ちょうだい」「首のばして」などヘルパーさんへの指示が小刻みに挟まれていくことです。

 注意しなければならないのは、これらの指示の言葉が、一般的な社会的ふるまいとしての「人に何かをお願いする」場合とはやや違ったテンションとメカニズムを持っている、ということです。体を動かせる人の場合、喉が渇いたなと感じたら、手が自然と飲み物のほうに伸びていきます。場合によっては、喉の渇きを自覚するよりも先に、手が伸びているかもしれません。一方、ユニさんの場合、喉が渇いたなと感じたら、口が自然と「お水ちょうだい」と言っている。つまり、体を動かせる人にとって反射的な反応である「手を伸ばす」という動作と等価なものとして、ユニさんは言葉で介助者に指示を出しているのです。社会的なふるまいではなく、生理的ないし神経的な反応としての指示。ユニさんは言います。「何も考えずに口が動いてる」「体から出た信号が、ほぼ無意識的に口からぶわって出る感じ」。

 つまり、ユニさんは自分の体の生理的な状態を、絶えず外に向かってブロードキャストしているのです。睡眠、空腹、疲労、かゆみ、痛み……人間の体には、そうした生理的な欲求が一日中ざわめきのように起こっています。体を動かせる人であれば、ちょっと姿勢をずらしたり、患部をさすったり、食べ物を口に運んだりすることで、小刻みに起こるそうした欲求を解消していきます。一方、ユニさんはそれを、外へと常に「可視化」ならぬ「言葉化」することで解消につなげている。だからずっとしゃべっていることになる。見方を変えれば、ユニさんという存在は、刻々と変化する自分の体の生理的な状態と、介助者の具体的な行為を結びつけるための、単なる媒介者であるかのようです。「自分の体の声が支配の根源」だとユニさんは言います。「体の声しか聞かない。自分の体の声が支配の根源で、まわりを従属させる。わりとそういうところがあるかな」。」

*(「内語とかない」より)

「しかし、何でも言葉にするということは、裏を返せば、言葉にしないものはない、ということを意味します。すべての感覚や思考を口に出すという習慣は、そのようなローカルルールを持たない人間にとっては、想像を絶する苦痛にも思えます。何しろそれは頭の中を常に誰かに覗かれている、ということなのですから。プライベートな自分と社会的な自分の区別はどうなっているのだろう? 誰にも言えない秘密はないのか? 自分を常に外に晒していて疲れてしまわないのか? いろいろな疑問が湧いてきます。

 こうした疑問に対し、ユニさんは「内語とかない」ときっぱり答えます。つまり、自分の頭の中だけでああでもないこうでもないと考え事をすることはない、と言うのです。「内語とかない。反省、リフレクシオンとかない。全部パロール」。

 体を動かせる人にとって、自分の「領土」は基本的に体の物理的限界と一致しています。そしてその領土内で行われる知的な営みを「考える」と呼んでいる。その内容は表情などによって漏らさないかぎり、本人の意思に反して「領土外」に知られることはありません。「考える」とは秘匿的な行いであり、法的にも、その秘匿性が保たれることを、「内面の自由」と呼んで保障しています。頭の中では何を思ってもいいし、何を信じてもいい。この意味で物理的な体は、思考を他者の目から匿っておくためのブラックボックスとしての機能を持っているといえます。

 一方ユニさんの「領土」は、体の物理的な限界を超えてその外側にも広がっています。だからこそ、考えるという営みが、物理的な体の外側において行われることになる。パロール、つまり声に出して話すことと、リフレクシオン、つまり頭の中であれこれ考えることは、物理的な体によって自分の思考の秘匿性を守ろうとしている人(≒体を動かせる人)にとっては截然と区別される二つの行為です。しかしユニさんにとってはそうではないのです。すべてがパロールの中で行われる。

 もちろん、だからといってユニさんの私生活がすべての人に対して公開されている、ということにはならないでしょう。介助者との信頼関係は重要であり、誰もがユニさんの「領土」に入り込めるわけではありません。それぞれの介助者との関係は、一朝一夕で作られたものではなく、数ヶ月から数年にわたる調整のたまものです。ユニさんの「物理的な体の外側で考える」行為は、あくまでそのような安定したネットワークの上に成り立っています。」

*(「舞台にあがる舞台裏」より)

「ユニさんのインタビューは「セリフ」と「指示」がときに不可分のものとして混じり合いながら進行します。しかもその混合具合は均一ではなく、「指示」が頻繁になされる時間帯とそうでない時間帯がある。結局、私は「指示」も含めてすべて文字起こしすることにしました。ユニさんに事前に原稿を見てもらったところ、「読みにくい」との指摘があったのですが、理由を説明して納得してもらいました。」

*(「口述筆記する谷崎」より)

「おそらく、世の中にすでに出版されている文章の行間にも、こうしたさまざまな「指示」が実はあったのでしょう。それらは、実際には著者の「考える」の一部を成していたかもしれないけれど、コンテンツではないと判断されて、原稿からは削除されていったのではないか。

 たとえば晩年の谷崎潤一郎(一八八六―一九六五)は、高血圧症に起因する極度の眩暈や右手の麻痺、視力の低下のために、自分で筆をとることが難しくなっていました。そこで原稿執筆の補助を中心的な役目とする秘書・伊吹和子を雇い、一九五八年以降はほぼ全面的に口述筆記によって執筆するようになります。つまり、谷崎が言葉で話した内容を秘書が書き留めるという、ユニさんと同じスタイルで書くようになったのです。

 その過程を詳細に分析した田村美由紀は、谷崎の「一人ひそかに原稿用紙に向はなければ思想が湧いてこない」という発言を受けて、彼の口述筆記の経験をこう分析しています。

  他者を前にした外的な発話行為は、思考を刺激し、自己の意識化を促す契機にもなり得るが、谷崎の場合、思考を湧き上がらせるのは生身の人間との接触や対話ではなく、原稿やペンなど書字用具を通した物理的な刺激と自己との内的対話だったのだろう。思考と書字との連携はそれほどまでに強固であり、外的な発話はその再帰的な関係を断ち切る行為として認識されていたことがわかる。長い作家生活のなかで谷崎が培ってきた創作スタイルは、口述筆記という執筆形態とけっして相性が良いわけではなかったのだ。(田村美由紀『口述筆記する文学――書くことの代行とジェンダー』名古屋大学出版会)

「自分の物理的な体でもって道具を使用すること」と「自己との内的な対話」がなくては思考が生まれないとは、ユニさんの思考のシステムを知った今となっては、「谷崎もまだまだだなあ」という気がしてきます。田村が指摘するように、執筆形態の変更は、単なる物理的な技法の更新というだけでなく、「作家」としての主体性やジェンダー規範とも関わる複雑な問題をはらんでおり、谷崎にとっては幾重にも困難な道のりだったでしょう。」

「発表された谷崎の作品からは、こうした「行間」は削られています。実際には、伊吹やヨシさんという他の人間の身体を媒介にして谷崎が執筆した作品であり、その執筆形態は作品の内容にも影響を与えているはずです。にもかかわらず、そうしたことは少なくとも表面上は「コンテンツ」の外部に置かれています。

 こうしたことは、根本的には「オーサーシップとは何か」という大きな問題につながっていきます。ある文章があったとして、その作者は誰なのか。何がコンテンツなのか。障害は、近代が作り上げたこの「作者」という概念に、疑問を投げかけます。体の使い方が変われば考える方式が変わり、考える方式が変われば思想の主体も変わる。それは単に、そこに関わった人すべての名前を列挙すればいい、という単純な話ではないでしょう。ユニさんの拡張した「体」は、そんなことも問いかけているように感じます。」

□愼允翼(シンユニ)さんプロフィール
1996 年、千葉県生まれ。東京大学文学部人文学科哲学専修課程卒。東京大学大学院人文社会系研究科フランス語フランス文学研究室 修士課程2 年。専門はジャン= ジャック・ルソーおよび18 世紀フランス思想。厚生労働省指定難病の先天性疾患・脊髄性筋萎縮症により24 時間の介護保障。電動車いす歴20 年超。メディア掲載多数。好きな言葉は「生き残るのは…この世の「真実」だけだ…真実から出た『誠の行動』は…決して滅びはしない」

□伊藤亜紗「一番身近な物体」
 第四回 帝国主義者のまなざし(2024.01.06)

□シン・ユニさんへのインタビュー


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