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永井玲衣『水中の哲学者たち』〜「存在のゆるし」

☆mediopos3195  2023.8.17

永井玲衣の哲学エッセイを読むと
そのことばにすうっと引き寄せられる

そのことばは読みやすくやさしいけれど
それまで自明のものであった世界を
ふしぎでわからないものにしてしまうような
魔法のことばでできている

『水中の哲学者たち』は
そんなエッセイが集められた魔法の本

2年ほどまえにでていたけれど
まだとりあげていないことに気づいたので
その魔法を少しおすそわけしておくことにしたい

永井玲衣は
「いつからか、世界をよく見れるひとに
なりたいと思うようになった」という

しかし「世界をよく見」ようとすると
「くっきりしたり、ぼやけたり、かたちを変えたり」
「揺さぶられ、混乱し、思考がもつれて、
あっちへこっちへ行き来」たりもする

永井玲衣は問う
「世界に根ざしながら、
世界を見ることはいかにして可能だろうか」と

世界を見るということは
世界から離れることではない

見られた世界は変化しつづけ
世界を見るわたしも変化し続けるなか
合わせ鏡のなかで
じぶんと世界が照らし合っているように
世界に居ながらにして世界を見るのである

そうして哲学することばのなかから
「存在のゆるし」という
きわめてラディカルなテーマをとりあげてみる

「ただ存在する」ということ

これも永井玲衣の魔法だ
そしてそれは禅の「無位の真人」を
問うようなことば

それを試みようとすると
「ただ存在する」ことの困難さのなかで
行方をなくしてしまいかねないことがわかる

ひとは
なにかをしようとしてしまう
なにかになろうとしてしまう
じぶんを位置づけ語ろうとして
名や経歴や役割やの付箋を貼る

けれどそれらは
じぶんをべつのなにかに
置き換えてしまうことになる
そしてじぶんがじぶんであることの
自由をなくしてしまうことに気づく

「ただ存在する」
ただいるということ

なにかをするのではなく
なにかになるのでもなく
「ただ存在する」ひととしてある

その魔法は
世界やじぶんを
「問い」の迷路のなかへ
というよりも
問いの源へと
みずからを解き放つ存在へと導くことばとなる

■永井玲衣『水中の哲学者たち』
 (晶文社 2021/9)

(「まえがき」より)

「いつからか、世界をよく見れるひとになりたいと思うようになった。
 それは幅広さというよりも、奥行きの探求への欲求であった。机上に転がるペンを見る、使い古された言葉を見る、向かいに座るあなたを見る、社会の構造を見る。刺しゅう糸をはじめて触ったときのことを思い出す。一本の糸かと思ったものが、何本にもほぐれて息をのむ。世界は刺しゅう糸のように、たくさんの糸でよりあわさっている。一本一本の糸に目をこらすと、それぞれがほんの少しずつ違う色をして、また何本にもほぐれていく、
 そうして「見る」をつづけていくと、世界はまた、見えなくなる。当初の相貌からはとおく離れて、よくわからないものになる。ぼやけたり、全く違ったものになったりして、手からすりぬけていく。
 哲学することは、世界をよく見ることだ。くっきりしたり、ぼやけたり、かたちを変えたりして、少しずつ世界と関係を深めていく。揺さぶられ、混乱し、思考がもつれて、あっちへこっちへ行き来する。これは、朝に目を覚ましたときの感覚に少しだけ似ている。」

「世界に根ざしながら、世界を見ることはいかにして可能だろうか、とよく考える。「見る」ことは、世界を額縁に容れてうんと高い場所に飾ってしまうことでもあり、自分を世界から切り離し傍観することでもある。だがわたしたちは、世界に投げ入れられ、関係し、はたらきかけ、世界を新しくつくりつづけてもいる。」

「そんな問いをもとに、世界に根ざしながら世界を見つめて考えることを、わたしは手のひらサイズの哲学と呼ぶ。それは、空高く飛翔し、高みから世界を細断し、整然とまとめあげるような大哲学ではない。なんだかどうもわかりにくく、今にも消えそうな何かであり、あいまいで、とらえどころがなく、過去と現在を行き来し、うねうねとした意識の流れが、そのままもつれた考えに反映されるような、そして寝ぼけた頭で世界に戻ってくるときのような、そんな哲学だ。」

(「2 手のひらサイズの哲学」〜「存在のゆるし」より)

「存在することは、やるせない。存在は白々しい。わたしたちは「ただ存在すること」が苦手だ。
 (・・・)
 10年以上前に見た番組で、オードリーの若林正恭が「楽屋でペットボトルを読み込んでいる」という話をしていた。ただ座っているのはつらい、だけどドリンクのラベルを見ていれば「ラベルを見れるヤツになれる」と。
 「なれる」という言い方が記憶に残る。ただ存在していることは、いたたまれない。だから、わたしたちは何か役割を得たいと思う。それは、アイデアを出すひとだったり、議論を記録するひとだったり、荷物を運ぶひとだったりする。もしくは、傘をさしているひとだったり、ラベルを熱心に読んでいるひとだったり、スマホをいじっているひとだったりする。
 反対に、役割を持っていないひとをわたしたちは軽視する。まなざしの圧力でそのひとを押しつぶそうとする。まなざしは、存在を小さくすることができる。役割を持て、役に立て、と叱りつけることができる。
 だがその声は、呪いである。そして呪いの杖はつねに壊れている。呪文をよなえて繰り出される魔法は、あたり一面に撒き散って、わたしにも突き刺さるだろう。呪いはあっという間に血管をかけめぐり、わたしを殺すだろう。いつまでも、いつまでも、呪いを撒き散らしながら。

 少し前から「ただ存在する」運動を始めた。駅に着くまでの電車の中で、ただ存在するひとになる。町の中で、植え込みに座って、何もしないひとになる。
 「話しかけられるのを待っているひと」になってはいけない。「待ち合わせをしているひと」にも「ぼーっとしているひと」「疲れたから休んでいるひと」にもなってはならない。そうではなく、わたしはただ、存在するひとになりたい。
 ひとと目が合う。ひとは少しだけぎょっとした顔をする。スマホもいじらず、ぼーっとしているわけでもなく、ただ植え込みに座っているひとというのは、奇妙だ。「なる」に飛びつかずに、存在そのものにしがみついていることは難しい。存在の不安に押しつぶされそうになりながら、わたしは「存在」をやってみる。
 大雨の中、傘をさしているひとにならなくてもいいことを、自分にゆるそう。目の前のペットボトルを読み込まなくてもいいように。エレベーターの中で、ゆっくりと点滅する階数を見上げなくてもいいように。役割を得ることだけが価値にならないように。
 これはわたしのささやかな社会運動であり、抵抗運動である。」

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