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ガイ・ドイッチャー『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』

☆mediopos2681  2022.3.20

「言語が違えば、世界も違って見える」のは
私たちの社会の言語習慣の体系が
そこで使われている言語の影響を
広範囲にわたって受けているからで

たとえば色の認知ひとつとっても
その体験は色そのものだけからくるのではなく
色を名づけた言葉に強く影響されている

ある文化的慣習のなかで
自然に感じられている常識的な認知も
別の文化的慣習のなかでは
必ずしも自然であると感じられるわけではない

言葉は世界に対する認知を切り取り
表象と概念を組みあわせて成立しているが
それはそれぞれの文化的慣習によって
異なった切り取られ方をしている

そして言葉によって可能となる思考もまた
そうした言葉の切り取り方にさまざまに影響されている

言葉の違いによる世界認識の違いを見ていくことは
いまじぶんが使っている言葉によってつくられている
認識のありようを意識化するためにも重要だが

「言語が違えば、世界も違って見える」というような
異なった言語による世界認識の相違よりも重要なのは
「言葉を共通にする共同体」のなかでの
「言葉」への認識の大きな違いではないだろうか

たかが言葉
されど言葉である

いまじぶんが使っている言葉のスキルを
自明のものとして意識化しないまま
じぶんの現在の認識を上げていくことがなければ
言葉でなにができるのか
またなにができないかということについて
言葉をつうじて学ぶことはできない

言葉の限界は思考の限界でもあるところがあるから
言語の限界をじぶんの使用可能な言語のなかで
そのスキルレベルを引き上げる必要があるということである

じぶんの使っている言葉と
それが可能にしている思考を意識化する必要があり
そうすることで
言葉が言葉を超えるところに
導いてくれる可能性もひらかれるからである

そこでいう言葉は論理言語だけではなく
さまざまなものが成熟の可能性として開かれている
そんな言葉として理解する必要がある

たとえば科学者や学者の言葉は得てして
感情や感覚が未熟なままであることも多いようだ
じぶんは科学的かつ論理的に思考できていると思いこんだまま
その範囲をはなれた事象に対しても(まったく無謀にも)
その思考を持ち込もうとしてしまったりする

「言語が違えば、世界も違って見える」ように
言葉のもつさまざまな次元を成熟させることで
おそらく世界はまったく違って見えるはずだが
深められていない次元では
その言葉は幼稚なままに留まっているのだ

現在さまざまなところで問題になっている
リテラシーの問題もそこに深く関わっている
言葉の成熟にともなって
そこで得られる理解も開かれてくるからである

メディアなどから流される情報に対する理解も
そこでなにが与えられているのではなく
与えられていることで何が隠されているのか
何を隠そうとしているのかを理解することが基本である
学校で何が教えられているかではなく
何が教えられていないかということが問題であるように

■ガイ・ドイッチャー(椋田直子訳)
 『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』
(ハヤカワ文庫NF 早川書房 2022/2)

「言語はふたつの顔を持つ。公の役割を担うときの言語は、言葉を共通にする共同体がコミュニケーションを成立させるために合意した慣習の体系である。しかし言語のはもうひとつの私的な顔がある。それが、話し手それぞれが心に取りこんできた知識の体系である。言語が効果的なコミュニケーションの手段であるためには、話し手の心に依存する知識の私的体系が、言語習慣の公的体系と密接に対応していなければならない。そして、この対応があるからこそ、言語の公的習慣は、全宇宙でもっとも魅惑的。かつもっともとらえがたい対象物、すなわち私たちの心、で起きていることを鏡のごとく映し出すことができる。

 本書の目的は、私たちの思考の基本的諸相が社会の文化的慣習に影響されていること、それも、今日主流とされている考え方よりはるかに広範囲にわたって影響されていることを、言語が提示してくれる証拠を通じて示すことだった。第Ⅰ部では、言語が世界をさまざまな概念に切り分けるやり方が、自然によってのみ決定されたのではないこと、および、「自然」だと思っていることの多くは、私たちが育ってきた社会の慣習に依存していたことが明らかになった。だからといってそれぞれの言語が気の向くままに、恣意的に切り分けられるものではないことはいうまでもない。しかし、コミュニケーションを成立させるために学習することが可能で、筋道もたつという制約内ではあっても、ごく単純な概念であってさえ切り分けるやり方はさまざまあり、その多様さは常識が予想する範囲をはるかに超えている。慣れ親しんだものを「自然」と感じるのが常識というものだからである。

 第Ⅱ部では、私たちの社会の言語習慣が、言語を超えた、思考の諸相に影響を及ぼすことを見た。言語が思考に及ぼす実証可能な影響は、過去の高説にいうそれと大きく異なっていた。とくに、母語が私たちの知識地平を限界づけ、他言語の概念や区別を理解する影響力に制約を課すという説については、なんの根拠も発見されていない。母語の影響はむしろ、ある特定の表現を頻繁に用いることで培われる習慣にこそある。ある種の概念は互いに分明なものとして扱うこと、ある種の連想関連はくり返し心に刻むこと−−−−これらの発話習慣から形成される心的習慣は、たんなる言語自体の知識を超えて、より大きな影響を及ぼしうる。本書では言語の三つの領域について、その実例を紹介した。空間座標系と、それが記憶パターンと定位に及ぼす影響、文法的ジェンダーと、それが連想関係に及ぼす影響。および、色の概念と、それがある種の色識別に対する感受性を増大させうること。

 今日の言語学、認知科学の分野では、言語が思考に及ぼす影響を、それが真正の推論にかかわる場合にのみ有意と認める、という考え方が主流になっている。たとえば、ある言語が、別の原語の話し手なら簡単に解けるような論理問題を解く妨げになることが証明されれば、影響は有意と認められる。論理的推論にこのような制約的影響を及ぼす実例はいまだ提示されていないから、必然的にそれ以外の影響には意味がなく、人間は基本的に同じやり方で思考する−−−−というのが主流の説である。

 しかし私たちの人生における論理的推論の重要性を強調しすぎるのは、あまりにも安易である。哲学的分析を日々の糧として育ち、思考すなわち論理で、それ以外の心的プロセスなど注目に値しないと考える人々には、そんな過大評価も当然に思えるのかもしれない。しかしこの見方とは裏腹に、私たちの現実の生活経験においては、論理的思考は控え目な存在でしかない。日常生活においては本能や直感、感情、衝動、実用的巣霧などに導かれて心を決める場合が多く、それに較べたら抽象的演繹的推論にもとづいて決断を下すことなど圧倒的に少ない。一日のうちで論理的何代にとりくんでいる時間と、脱いだ靴下をどこに置いただろうと考える時間のどちらが長いだろう。あるいは、立体駐車場のどこに車を置いたか思いだそうとしている時間と比べたら? 色彩と連想と暗示に訴えるCMと比べて、三段論法で説得するCMは何本あるだろう。そして最後に、集合論上の対立がもとで戦われた戦争がいくつあっただろうか。

 母語の影響が及ぶと実験的に示されているのは記憶、知覚、連想関係などの思考領域、および自分の位置を知るという実用的スキルの領域である。そして、私たちが現実に生きていくうえで、これらの領域は抽象的推論の能力に劣らず重要である。あるいは劣らないどころか、はるかに重要かもしれない。」

「戦闘で並外れた武勲が立てられたと聞くとこいは、通常、戦況が思うように進んでいない徴候だと思ってまちがいない。戦争が計画どおりに展開し、自軍が勝っているならば、個人の並外れた英雄的行為はまず必要ないからだ。武勲は必要なのは概して負けている側である。

 本書で紹介したような実験のいくつかはきわめて独創的かつ斬新なので、人間の脳という要塞を攻略しようとする科学の戦いが大勝利を挙げた徴候できないかと勘違いをしたくなる。しかし実際には、これらの実験に見られた独創的な推論は、大いなる強さではなく大いなる弱さの徴候である。これほどの独創性が必要とされるのは、脳の働く仕組みがよくわかっていないからこそなのだ。私たちがこれほどまでに無知でなかったら、工夫をこらした課題への反応時間を測定して情報を絞りとるといった迂遠な手法に頼る必要もなかっただろう。もしもう少しよくわかっていたら、脳でなにが起きているかを直接に観察して、自然と文化がどのようにして言語の諸概念を形成していくか、文法のどの部分が先天的なのか、言語が思考のどの相にどんな影響を及ぼすのか、といったことを正確に判断することができたことだろう。

 いかにもお先真っ暗のように無知だ、無知だと強調することはないじゃないか、と抗議の声が上がったとしても無理はない。とくに、最後に紹介した実験は息を呑むような最先端技術を土台にしているのだから、なおのことだ。脳の活動をオンラインで走査し、特定の課題を実行しているときに、どの特定部位が活動しているかを明らかにしたではないか。それを無知だなどと、どうして言えるのか。しかし、こんなふうに考えてみてほしい。ある大企業の活動の仕組みが知りたいのに、本社ビルの外に立って離れたところから窓を観察することしか許されないとする。となると、推論の土台となる唯一の証拠は、どの部屋に何時に電気がついたか、ということだ。もちろん長時間かけてじっくり観察すれば、さまざまな情報が引き出せるだおる。たとえば、週一回の重役会は二五回の左からふたつ目の部屋で開かれるとか、なにか緊急事態が起きたときには一三回の活動が激しくなるから、おそらくあの階に危機管理センターがあるのだろうとかいうことがわかるかもしれない。しかし、なにが話されているかをいつまでたっても聞くことを許されず、すべての推論が窓の観察のうえに成り立っているのだとしたら、そこで得られた情報はいかにも不充分ではないか。

(・・・)

 しかし、汝後世の読者よ、われらがわれらに先立ちし者の無知を許したがごとく、われらが無知を許したまえ。遺伝の謎は私たちの眼前で明るみに出たが、私たちがその大いなる光を見ることができたのは、先立つ人々が倦むことなく闇を探しつづけたからにほかならない。だから後に来る者たちよ、苦もなく達した高みから私たちを見下ろすことがあるとしたら、私たちの努力という踏み台があったからこそ、そこへ上がれたのだということを忘れないでほしい。闇を手探りしつづけるのは報われない仕事であり、理解の光が射すまで休んでいようという誘惑に抗するのは難しいからだ。しかし。もし私たちがこの誘惑に負けたなら、あなたがたの世は永遠にこないだろう。」

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