見出し画像

桑木野 幸司『ルネサンス 情報革命の時代』

☆mediopos2824  2022.8.11

オウィディウスは『変身物語』で
「豊かさが私を貧困にした」と語っているそうだが
情報が多いということは
豊かさではなく貧しさをもたらすことにもなる

ひとにとって大切な情報は
生きた全体性とつながった情報であり
情報の量ではないからだ

どんなにたくさんの情報を得られても
食べ物を食べられる量が限られているように
消化できる情報は限られている

重要なのは情報の質が伴った
必要充分な情報の量であり
それを適切に活かすことができなければ
意味をもたないどころか
過食や偏食による病さえ引き起こしてしまう

情報を得るメディアやツールが
劇的なまでに進んできても
それを使いこなせなければ意味をもたないし
むしろかつて得ていた情報を活かせるそれらが
失われてくることにもなる

情報爆発は
むしろ拡大した情報から
かつての生きた情報が失われることにもなり
全体性を生きるための情報さえも得られなくなり
ひとから全体性を奪ってしまうことにもなる

ひとは部分性だけでは生きられない
なんらかの全体性を必要とする

そのためにひとは
じぶんではわからないことを
教えてくれる権威を必要とし
それがときに宗教にも占いにも
そして科学(主義)にもなる

ある全体性をもった世界観のもとで
多くの情報を位置付けることができれば
有機的なかたちで情報編集も可能となるが

全体性を失ったようにみえる
現代のような時代のなかで
夥しい情報とアクセス可能となったとしても
情報は行方をなくして彷徨うばかりとなる
そしてその空しさに絶えられず
さまざまな見せかけの権威に縋り始める

「ルネサンス期の知的生産者たち」が
「「知のための知」をめぐって奮闘し」
「豊かさを貧困に転じさせないための、
あれこれの工夫」を行うべく試みたように

現代においては
現代のような「量」ではなく
新たな「質」を得るための
またべつの「情報革命」が
必要となっていると思われる

そのためにも与えられたメディアやツールに
使われてしまうようなあり方を脱し
真の意味でのリテラシーとしての
感じ・考える生きた力を育てる必要がある

■桑木野 幸司『ルネサンス 情報革命の時代』
 (ちくま新書 筑摩書房 2022/5)

「「ルネサンス」については、これまで様々な議論がなされてきた。本書では、「光」でもなく「闇」でもない、もうひとつの視点があるのではないか、との観点から、この西欧の文化運動の概念をできるかぎり幅広く解釈し、議論をすすめてきた。時代としてはおおよそ十五世紀から十七世紀初頭あたりにかけて、この期間に、「情報編集技法の劇的な変容」があったのではないか、つまり、この二世紀あまりのあいだに、情報が爆発的にあふれ出し、従来の知的枠組みが大きくゆすぶられたのではないか、という視点だ。」

「ルネサンス期の記憶術が目指したのは、情報をいわば「トポグラフィカル」に統御することであった。つまり、個々の情報が置かれた位置、場所が、全体構造のなかでしかるべき意味をもつことで、固と全体との関係が直観的に把握可能となるようなシステムこそが、理想とされたのだ。したがって情報検索の際には、それらの固有の場所が帯びる意味の磁場を把握することが、重要になってくる。データがなぜその場所に置かれているのかを考えずに移動させれば、全体秩序が崩壊してしまう。
 けれどもこのように知を固定配置しながら管理してゆく手法は、やがて情報の無限増大という現実に対処できなくなってゆく。(…)
 ここで何が起こるかといえば、それは、知の全体性を維持しようとする試みの放棄、という事態だ。もはや、創造の七日間も、記憶劇場も、人生の劇場も、万有万象の全知を受けいれるメタファーとしては機能しない。いやそもそも、一個人に全知が把握できるとは思われなくなってゆくのだ。むしろ発想を逆にして、世界像とは観察者が、観察できた範囲の経験から構築してゆくもの、という考え方が主流となる。
 その場合、この世のあらゆる情報にはヒエラルキーがなくなる。神も岩石も、すべて等価な情報単位の一つにすぎず、人間が世界の中心に位置するかどうかは関係がないのだ。ABC順のデータ配列は、まさにこの方向性を目指すものであった。(…)
 鋭い方はもうお気づきのように、この流れの最終発展形態が、インターネットの検索エンジンだ。日々我々が目にする、あの、少々色気のない画面である。」

「本書が詳細に追いかけてきたルネサンス的な知の編集システムは、十七世紀中庸以降、伝統からの隔絶を謳う新たな科学や哲学の潮流によって徐々に乗り越えられてゆく。情報が、知識が、実体をもった何かではなく、抽象的な操作単位ととらえられてゆく。膨大なデータの海のなかから必要に応じて抽出された情報以外のもの、その他の残り全てのものは、目にすることさえできなくなってしまう。これに対して、それ以前のいわゆる「トポグラフィカル」な知のシステムでは、隠された議論、未選択のテーマの発展性を、常に全体的視野のもとで俯瞰することができた。
 何もここでルネサンス的な知のあり方に今一度立ち返れなどというつもりはない。ただ、十六世紀いっぱいをかけて高度に発展してきた情報編集の各種メソッドのなかに、現代の我々が直面している情報爆発の「脅威」への対処のヒントが隠されているのではないか。
 そんな問題意識を持ちながら改めて西欧の十五−十七世紀初頭という時代を読み直し、眺め直す作業を続けるなら、きっとその都度、新鮮なルネサンス像をつかむことができるだろう。」

(「あとがき」より)

「「豊かさが私を貧困にした」inopem me copia fecit ——オウィディウス『変身物語』Ⅲ.466,

本書を執筆中に、愛用の携帯が壊れた。もう十年近く苦楽を共にしてきた、いぶし銀のガラケーである。あわててショップに行き、後継機種を買おうとしたなら、「3G停派」という謎の呪文をあびせられ、押し問答のすえ、気が付くとガラホというやつを握りしめて店の前に立っていた——。
 そんなオールド・タイプの人間が何をえらそうに情報論だ! と言われてしまいそうだ。まったくもってその通りだから、何も反論できない。かといって、別にスマホやSNS、クラウド等が生み出す現代の情報文化・技術と、意図的に距離を置こうとしているわけでもない。いやむしろ、それらの恩恵がなければ本書の執筆は不可能であったといってもいいぐらい、大変お世話になった。」

「あらためて感じるのは、いくら大量に資料データを入手したところで、実際に読んで分析しなければ宝の持ち腐れという、これまたしごくあたりまえの事実である。
 規模は違うけれど、西欧のルネサンス期もまた現代と同じように、圧倒的な情報の洪水にみまわれ、効率のよいデータ管理法の開発に、多くの人々が意識的に取り組んだ時代であった。
 豊穣と貧困は紙一重——、モノや情報の夥多が、ただちに豊かさに直結するわけではない。むしろ個人で制御できないほどのデータの奔流と堆積は、知的生産性を著しく低下させてしまう。ルネサンス期の知的生産者たちが「知のための知」をめぐって奮闘したのは、豊かさを貧困に転じさせないための、あれこれの工夫という側面もあった。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?