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村中直人「苦痛神話」(群像 2023年10月号)/村中直人『〈叱る依存〉がとまらない』

☆mediopos3232  2023.9.23

人間には生まれ持った
「処罰欲求」があるという

「規律違反を犯した人を罰する決断をすると、
脳内報酬系回路が活性化しドーパミンが放出される」

「叱る」のは
「苦痛を与えることで人は学び成長する」ことを
信じ込んでなされることが多いようだが
それは「叱らなければならない」というよりは
「叱る」ことがやめられなくなっているのである

村中直人はそれを「叱る依存」と呼んでいる

叱られて苦痛を感じると脳はストレスを受け
「深く考えることも内省することも出来ない状態」
となるため「叱られる」ことでは
本来の「学びや成長」は起きない

叱ったほうは
「やっとわかってくれた」「学んでくれた」と
感じるかもしれないが
相手は叱られたことで「服従」しただけだ

まれには叱られて嬉しい人もいるだろうが
性格的に叱られることを好む性質があるか
「説得」的な仕方に対して拒否的であるか
あるいは相手との深い信頼関係があるかだろう

学校の校則でも法律でもそうだが
過剰なまでの「ルール」があり
その「ルール」が増殖していくのも
(「増税」もそうかもしれない)
芸能人が罪を犯したりすると
厳しい対応を求めたりするのも
SNSで「炎上」が怒りやすいのも
「叱る依存」に似た現象なのだろう

「脳内報酬系回路が活性化し
ドーパミンが放出される」のだ
そのときじぶんの「正しさ」は疑われず
「自省」は働かない

混乱に乗じて暴力や
その果てに虐殺などが起こるのも
同様な回路がそこにはあるのではないか

「苦痛を与える」ことでは
人は学びも成長もしない
学び成長するためには
「深く考え」「内省する」ことが不可欠である

そのことは「教える」ということにも通じている
教えられて覚え込むというのは
「服従」することにも似ている
それは「学ぶ」こととは対極にある

「学ぶ」ことは基本的に「自己教育」であり
みずからがみずからに教えることにほかならない
「教えた」と思い込むことはできるが
学ぶのは「自己教育」以外のものではない

「教える」ことが有効なのは
教える者も同時に「自己教育」を行い
みずから「学ぶ」ことができたときだけだろう
「叱る」ことを疑わない者は
学ぼうとしているのではない
じぶんを「正義の執行者」とみなしているのだから

■村中直人「苦痛神話」(群像 2023年10月号)
■村中直人『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店 2022/2)

(村中直人「苦痛神話」より)

「「最近の若者は叱られ慣れていないから我が儘だ」
「叱られていないから弱い人になる」
 近年の若者に対して、こういった議論を目にすることが増えているように思う。結論はだいたい同じで、叱らないことは甘やかし、躾(ときに教育)の放棄と主張する。各種SNSにおいてもこういった論調は人気で、教員を名乗るアカウントがいかに生徒を厳しく叱りつけたか、懲らしめたかを自慢していたりする。こういった論調に賛同する人たちは、どうやら無条件に「苦痛を与えることで人は学び成長する」と信じているようだ。私はそのことを「苦痛神話」と呼んでいる。

 少なくともそこに科学的根拠や論理的整合性はない。だが、苦痛神話を人が信じ込んでしまう理由は存在する。人が苦痛を感じ脳にストレスがかかると「闘争・逃走反応」と飛ばれる状態になる。これは天敵に襲われた動物の反応に似ていて、行動が早くなることが最大の特徴である。つまり苦痛を与えられた人は即座に戦うか、逃げるかの行動をとるのだ。そして多くの場合、人は服従という「逃走」を選択する。戦っても無意味なことが多いし、物理的に逃げるわけにはいかない状況がほとんだ。それゆえ自発的に「言われた通りにする」。苦痛を与えた側からすると、自分の言った通りに相手が動いたのだから「やっとわかってくれた」「学んでくれた」と感じるだろう。これが、「苦痛を与えることで人は学び成長する」という勘違いが発生するメカニズムである。

 しかしながら、そこに本来的な「学びや成長」は起きていない。ストレス状態の脳は、前頭前野と呼ばれる「知性・理性」にとって重要な部位の活動が著しく押し下げられていることがわかっている。つまり、深く考えることも内省することも出来ない状態である。そのため、「なぜ叱られたのか」「どうするべきだったのか」を考えられず、問題は何度も繰り返されることになる。さらに問題をややこすくしているのは、人間には生来的に「処罰欲求」なる欲求が備わっていることだ(規律違反を犯した人を罰する決断をすると、脳内報酬系回路が活性化しドーパミンが放出されることが研究で分かっている)。そのため、何度も何度もくり返される問題についてずっと叱り続け、ときに罰を与える負のループが完成してしまう。

 ここまで整理したとき反論・反応は判で押したようにだいたい同じだ。多くの場合「「叱る」と「怒る」を混同している」「それは感情的に怒る時の話で、叱ることは必要だ」と返ってくる。

 苦痛神話はかくも根深い。

 この反論の根本は「相手のためを思ってしている」という自分の意図を最も重要なファクターだと考えるところにある。しかし叱られる側、つまり苦痛を与えられる側に目を向けてほしい。苦痛を与えられるという点において。そこに叱ると怒るの違いなど存在していない。少なくとも、脳の反応に大きな違いはないだろう。逆に言えば苦痛を与えないなら、わざわざ「叱る」必要はない。「言い聞かす」「説明する」など、苦痛を与えないことを前提とした関わりは無数に存在する。それでもやっぱり「叱りたい」なら、その人は自分の内側にある処罰欲求と向き合う必要があるだろう。」

「つまり、奥底にある処罰欲求と向き合わない限り、行為だけを禁止したとしても効果はないのだ。それゆえだろうか、現代においては処罰欲求は形を変えて、この社会の様々な場面に影響を与えているように思う。芸能人が薬物問題などの不祥事を起こせば、たちまちに「炎上」が掟より厳しい対応を求める声があちこちから湧き上がる。身内にあたる人物が「絶対に許さない」といえば、よく言ったと喝采が起きる。(・・・)こういった現象の裏側に共通する心理として人々の「処罰欲求」があり、正義の執行者として他者に苦痛を与えることがやめられなくなってしまっているとしたら、それはとても恐ろしいことだ。もちろん、問題を起こした人がそれなりの社会的責任を追うべきであることを否定するつもりはない。」

「処罰欲求は人間にとって生来的なものであるが、その弊害はいままではあまり注目されいぇこなかった。人に快を与える報酬の面も持つけれど、取り扱いに注意が必要という意味で「処罰欲求」は「性欲」に似ている。どちらもその欲求をどのように充足させるのか、理性によるコントロールが必要だからだ。まずは多くの人にこの事実を知ってもらうところから、苦痛神話からの脱却を目指す必要があるだろう。」

○村中直人(むらなか・なおと)
1977年生まれ。臨床心理士・公認心理師。一般社団法人子ども・青少年育成支援協会代表理事。Neurodiversity at Work株式会社代表取締役。人の神経学的な多様性に着目し、脳・神経由来の異文化相互理解の促進、および学びかた、働きかたの多様性が尊重される社会の実現を目指して活動。2008年から多様なニーズのある子どもたちが学び方を学ぶための学習支援事業「あすはな先生」の立ち上げと運営に携わり、現在は「発達障害サポーター'sスクール」での支援者育成にも力を入れている。著書に『ニューロダイバーシティの教科書――多様性尊重社会へのキーワード』(金子書房)がある。

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