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古田徹也『言葉なんていらない?――私と世界のあいだ』/『言葉の魂の哲学』/『いつもの言葉を哲学する』

☆mediopos3607(2024.10.4)

古田徹也の著書・訳書(ウィトゲンシュタイン)については
幾度かとりあげたことがあるが
今月10月29日に刊行される予定の
『言葉なんていらない?――私と世界のあいだ』(創元社)の
「序章」及び目次がすでに創元社noteで公開されている

その公開部分及び
すでに紹介したことのある以下の二書から
そのテーマに関係すると思われるところをとりあげる

『言葉の魂の哲学』〔mediopos-1251(2018.4.19)〕
『いつもの言葉を哲学する』〔mediopos2595(2021.12.24)〕

さて『言葉なんていらない?』は
2023年4月にスタートした創元社の新しい人文書シリーズ
「あいだで考える」の新刊(刊行予定)だが
「10代以上すべての人のための」と付されているように
言葉をテーマとした哲学的な内容が
親しみやすい表現で書かれている

私たちの日々使っている「言葉」は
たとえそれが不正確だったり
うまく意図が伝わらなかったり
独り歩きして誤解やトラブルをもたらしたりもするが
「それでも、言葉は私たちの生活に欠かせない」

言葉とは
「私と私以外の人々とをつないでくれる「媒介物メディア」」なのか
「両者を隔へだてる「障壁バリア」」なのかを問い直すことで

「慣れ親しんだ言葉に、あらためて目を向け」
「言葉に対する新しい見方」を身につける大切な機会として
言葉の役割を多様な面から見直すことが提案されている

『言葉の魂の哲学』では

カール・クラウスおよび
言語認識においての継承者であるウィトゲンシュタインが
「生活の流れのなかで用いられ、
生活のかたちを反映している個々の言葉に注意を払い、吟味し、
それらを立体的に理解できるよう努めること」を
両者ともに重要視していることが示唆されている

ウィトゲンシュタインにとって哲学とは
ひとつの見方に縛られないで
「現在の見方を相対化する別の見方に気づ」き
「様々に異なる用法を自由に記述することで
「言葉が不断に織り込まれている自分の生活や他人の生活について
「本当に誠実に考えること」なのだ

「学問上の専門用語と化した概念をめぐるパズルを解き、
もっともらしい理屈をこね」るのが哲学ではない

『いつもの言葉を哲学する』では

「創意のある言葉やユニークな言葉を繰り出すこと」ではなく
「自分がこれまでの生活のなかで出会い、馴染み、使用してきた」
じぶんにとって「しっくりくる言葉」で
「これまでの自分自身の来歴と、自分が営んできた生活のかたちを、
部分的にでも振り返る実践」となる言葉を使うことが示唆されている

「〈こういう場合に人はこう言うものだ〉、
〈こう言うのが世間では正解だ〉という暗黙の基準に
しばしば支配されている」ような
「「お約束」に満ちた流暢な話しぶりや滑らかな会話」には、
「言葉に責任をもつべき自分がそこに存在しない」からである

「自分の言葉で話す」ということは
権威からくる受け売りでも
常識とされていることを垂れ流すことでも
難しい言葉でじぶんを偉く見せようとすることでも
またそのことで自分を認めさせようとすることでもなく
まさに自分を有り体にあらわすことのできる言葉で
「本当に誠実に考え」ながら話すということにほかならない

■古田徹也『言葉なんていらない?――私と世界のあいだ』(創元社 2024/10)
 *創元社note部(2024/9/27)での「序章」の掲載内容から
■古田達也『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ 2018.4)
■古田 徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書 2021/12)

**(古田徹也『言葉なんていらない?』〜「序章 言葉はメディアか、はたまたバリアか」より)

・「ウイスキー」はウイスキーではないし、「ケーキ」はケーキではない

*「言葉には匂がない。味もしない。「このウイスキーは、微かにバニラとキャラメルの香りをまとい、まろやかな口当たりだ」という言葉を聞いても、そのウイスキー自体を味わったことにはならない。言葉はウイスキーそのものではないのだから。」

・言葉は本物の影? 不完全な模造品?

*「「リンゴ」という言葉は、あの甘酸っぱくて赤い果物のことを指す。「痛み」という言葉は、身体に感じるあの感覚のことを指す。しかし、もちろん「リンゴ」は本物のリンゴそのものではないし、「痛み」は本物の痛みそのものではない。だから、言葉とはそれが指し示す対象の影•ないしは模•造•品•のようなものだ。しかも、不•完•全•な•模造品だ。——古来、多くの人がそういう思いを抱いだいてきた。

「リンゴ」という言葉は、リンゴ独特のあの風味も、その微妙な色合いも、そして、個々のリンゴの繊細な差異も、すべて曖昧にし、乱暴にまとめてしまう。同様に、「痛み」という言葉は、個々の痛みの内実も違いもすべて平板に塗ぬりつぶしてしまう。世界に存在する個々の物事を「リンゴ」や「痛み」といった言葉に置き換えて抽象化してしまうと、そこでは多くの重要な具体性が捨て去られ、見失われることになる。世界を余すところなく表現するには、言葉はあまりに解像度が低く、粗雑すぎる。——そのように思えるのだ。」

「言葉は、世界のなかにその一部として存在するわけではない——私と世界のあいだに、世界の影(模造品)として存在する奇妙な何かにすぎない——というわけだ。繊細で鮮烈な本物と、それを表す言葉とを比較すればするほど、言葉がそれ自体としては抽象的で、間接的で、空疎な影のように思えてくるのである。

 もしも、言葉がそのような、本•物•を•不•正•確•に•し•か•表•現•で•き•な•い•影ないし模造品であるのならば、それを用いたコミュニケーションはどうしても粗雑で不完全なものになってしまわないだろうか。」
 

・言葉はしばしば誤解や無理解に曝さらされ、悪影響を及およぼす

*「「このケーキ、あんまり甘くないね」という言葉も、良い意味で言ったはずが、相手には、甘みが足りないと批判しているように聞こえるかもしれない。こうした理解の食い違いは、短い文字や記号でやりとりをするLINEなどのSNSでも——あるいは、この種のコミュニケーションにおいては特に——よく生じていると言える。

 また、現在のSNS空間は、個人の言葉が瞬時に拡散するために、言葉を発した当人が想定していなかった大きな影響を社会に与あたえてしまうケースが跡を絶たない。」

「たとえ抗議の内容が事実に基づいているとしても、また、非難自体は理不尽じんなものでないとしても、勢いが度を超こしてひろがり、言葉を発した当人がその拡大を制御できないという事態がしばしば生じているのである。」
 

・言葉を長く連ねればよいというわけではない

*「だとすれば、こうしたコミュニケーション上の事故や制御不能な状態が発生しないように、言葉を用いるときには常に事こと細こまかに説明を尽くすべきだろうか。」

「一般的に言って、くどくどと長く言葉を連ねることが、自分の思いや事実などを正確に伝えられることにつながるとは限らない。ケーキの味や香りや口当たりを完全なかたちで言い表すことは、どれほど凝こった言葉を積み重ねたとしても不可能だし、海と空が融とけ合う色合いの美しさは、どれほど言葉を付け加えたとしても再現できるものではない。説明しすぎることは、聞き手を飽あきさせ、言葉を野や暮ぼで余計なものにしてしまう。

 また、丁てい寧ねいすぎる長い言葉は、親密な関係やくだけた場にふさわしくない仰々しいものになりがちだし、時間がかかるため効率が悪く、そして面倒だ。それから、個々の言葉に対する捉え方の違いや、語彙力の違いなどによって、言葉を積み重ねれば積み重ねるほど互たがいの言っていることが分からなくなってしまう、ということもある。つまり、簡潔な言葉では不足なら、詳細な言葉に置き換えればよい、というわけではないのだ。」
 

・それでも、言葉は欠かせないもの

*「しかし、それでも、言葉は私たちの生活に欠かせないものだ。

 たとえばお腹が痛いとき、あるいは、誰かに何かをしてもらってうれしいとき、「痛い」や「うれしい」といった言葉を発することなしに、そのことを他人に分かってもらうのは簡単ではない。また、家の近所に新しいケーキ屋ができたという事実を、「家の近所に新しいケーキ屋ができたよ」といった言葉を用いずに他人に知らせることは困難だ。

 しかも言葉は、いったん覚えてしまえば、どんな所にも、いわば手•ぶ•ら•で•簡単に持ち運べる。」

「さらに、言葉は現実を超こえた物事を表現することもできる。本当は痛くないのに「お腹が痛い」と言って学校をサボることもできるし、「家の近所に隕いん石せきが落ちたよ」と噓うそを言って友達をからかうこともできる。もっとも、それらの言葉を自分が制御できるなら——つまり、自分の思う通りの効果を発揮して、相手を都合よく操あやつることができるなら——の話だが。」

・慣れ親しんだ言葉に、あらためて目を向けてみよう

*「私たちは生活のあらゆる場面で言葉を用いており、言葉なしには生きることはほとんど不可能とも言える。しかし、まさにその言葉によって、しばしば生活にトラブルがもたらされる。言葉によるコミュニケーションは、どうにも不正確で不完全なものであるように思える。すなわち、言葉を•通•し•て•他者と理解し合おうとすると、そこには誤解や無理解の余地、あるいは、想定しなかった影響を生み出す余地が、どうしても生まれてしまうように思われるのだ。

 はたして言葉とは、私と私以外の人々とをつないでくれる「媒介物メディア」なのだろうか。それとも、両者を隔へだてる「障壁バリア」なのだろうか。私たちの可能性を広げてくれる希望なのだろうか、それとも、私たちを縛しばったり振ふり回したりする制御不能な厄やっ介かい者ものなのだろうか。そのどちらでもあるのだろうか。あるいは、どちらでもないのだろうか。」

「言葉はふだん、私たちの生活のなかに当たり前のようにあり、あらためて「言葉とは何か?」というふうに注意を向けることは少ない。慣れ親しんだ言葉を見直す作業からは、言葉に対する新しい見方が得られるだろう。そして、それはひいては、言葉とともにある私たちの日々の生活について、私たち自身について、新しい側面を知る機会となるだろうし、何より、言•葉•が•私•た•ち•の•力•と•な•る•可•能•性•に目を向ける機会となるだろう。」

**(古田達也『言葉の魂の哲学』
   〜「第3章 かたち成すものとしての言葉〜カール・クラウスの言語論が示すもの」より)

*「ウィトゲンシュタインはクラウスから継承し、二人にはっきりと共通しているのは、言語批判の根本的な重要性に対する認識であり、言うなれば、〈言葉の実習〉への希望である。すなわち、生活の流れのなかで用いられ、生活のかたちを反映している個々の言葉に注意を払い、吟味し、それらを立体的に理解できるよう努めることを、二人は何よりも重要だと見なす。ウィトゲンシュタインは次のようにも述べている。

   哲学とは言語使用の記述ではないが、それでも、言語において生活は言い表される仕方すべてに絶えず注意を払うことによって、人は哲学を学ぶことができる。

 言葉も見方がひとつに縛られているとき、その現在の見方を相対化する別の見方に気づくこと。それをきっかけに、言葉が用いられる現場を自由に見て回り、様々に異なる用法を自由に記述すること。そして、そのことを通じて、言葉が不断に織り込まれている自分の生活や他人の生活について「本当に誠実に考えること」————ウィトゲンシュタインにとっては、これこそが哲学なのだ。学問上の専門用語と化した概念をめぐるパズルを解き、もっともらしい理屈をこねられるようになったとしても、哲学を学んだことにはならない、ということである。」

*「社会で生きていくうえでは、多面的な視点などもたない方が波風が立たないし、気楽に暮らしていけるのではないか、と言われるかもしれない。確かにその通りで、〈言葉の実習〉などしなくとも生きてはいける。クラウスが批判したような、誰かの言葉の反復にすぎないものを自分の言葉として生きていく、ということも確かに可能だ。しかし、この実践を手放さないことの根本的な重要性を、彼らは見て取っていた。たとえばクラウスは、皆がこの実践を続けることによって戦争が遠ざかると、本気で信じていた。そして、この見立てはおそらく的外れではない。」

「自分でもよく分かっていない言葉を振り回して、自分や他人を煙に巻いてはならない。出来合いの言葉、中身のない常套句で迷いを手っとり早くやりすごして、思考を停止してはならない。言葉が生き生きと立ち上がってくるそのときに着目し続けた二人の自然言語の使い手、「世紀末ウィーン」の申し子にして異端児たちが、それぞれの言語批判の活動を通じて絞り出したのは、詰まるところ、そうした単純な倫理である。」

**(古田達也『いつもの言葉を哲学する』〜「第四章 変わる意味、崩れる言葉」より)

*「しっくりくる言葉を選び取ろうとしているとき、私たちは基本的に、自分にとって既知の言葉の間でしか迷えない。つまり、しっくりくる言葉の候補は、自分がこれまでの生活のなかで出会い、馴染み、使用してきたものたちなのである。それゆえ、そうした言葉の探索は自ずと、これまでの自分自身の来歴と、自分が営んできた生活のかたちを、部分的にでも振り返る実践を含んでいる。

 よく、「自分の言葉で話しなさい」ということが言われ、創意のある言葉やユニークな言葉を繰り出すことが無闇に推奨されることもあるが、「自分の言葉で話す」というのは必ずしもそういうことではない。むしろ、ありがちな言葉であっても、数ある馴染みの言葉の中から自分がそれを〈しっくりくる言葉〉として選び出すのであれば、そのことのうちに、これまでの来歴に基づく自分自身の固有なありようや、自分独自の思考というものが映し出される。逆に、「お約束」に満ちた流暢な話しぶりや滑らかな会話は、〈こういう場合に人はこう言うものだ〉、〈こう言うのが世間では正解だ〉という暗黙の基準にしばしば支配されている。それが常に悪いわけではないが、しかしそのときには、言葉に責任をもつべき自分がそこに存在しないことも確かなのである。」

*「私たちの生活は言葉とともにあり、そのつどの表現と対話の場としてある。言葉を雑に扱わず、自分の言葉に責任をもつこと。言葉の使用を規格化やお約束、常套句などに完全に委ねてはならないこと。これらのことが重要なのは、言葉が平板化し、表現と対話の場が形骸化し、私たちの生活が空虚なものになること————ひいては、私たちが自分自身を見失うこと————を防ぐためだ。」

□『言葉なんていらない?——私と世界のあいだ』
目次

キーワードマップ
序章 言葉はメディアか、はたまたバリアか
1章 言葉のやりとりはなぜ不確かなのか
 1節 私たちは日々「発話」している
 2節 なぜうまく伝わらないのか
2章 記憶の外部化と言葉の一人歩き
 1節 話される言葉と書かれる言葉の違い
 2節 プラトンの懸念は過去のものとなったか
3章 コミュニケーションの二つの方向性
 1節 遠く、多様な人々とのコミュニケーション
 2節 近く、限られた人々とのコミュニケーション
4章 言葉の役割を捉え直す
 1節 ここまでの結論と、ここからの課題
 2節 発話とは、物事のある面に関心を向けること
 3節 言葉を探し、選ぶことで、自分の思いが見つかる
5章 「言葉のあいだ」を行き来する
 1節 ひとつの言語を深く学ぶ
 2節 複数の言語に触れる
 3節 言葉は移り変わるもの
終章 言葉とは何であり、どこにあるのか
 1節 この本でたどってきた道筋
 2節 そこにある言葉を楽しむために
私と世界のあいだをもっと考えるための作品案内

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