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中沢新一・河合俊雄『ジオサイコロジー/聖地の層構造とこころの古層』

☆mediopos2957  2022.12.22

ユング心理学の河合俊雄が
中沢新一の『アースダイバー 神社編』を
読み解きながら「こころの古層」について
両者が論じ合うスリリングな「ジオサイコロジー」の試み

本書は両者が日本ユング派分析家協会の
研修セミナーでおこなった講演と
その後のディスカッションをまとめたもの

タイトルとなっている「ジオサイコロジー」は
「ジオロジー(地理学)」と「ミトロジー(神話学)」を合わせ
『アースダイバー』を学問として位置づけようとするものだ

副題に「聖地の層構造とこころの古層」とあるように
中沢新一は日本各地の「聖地」を調査し
その成果を『アースダイバー神社編』としてまとめたが
そこで論じられている「聖地の層構造」は
河合俊雄が心理療法を通じて見いだしてきた
象徴だけではとらえられない
「こころの層」と符号するものだという

人類の「こころ」は旧石器時代から
農業革命をベースにする新石器時代へと移り変わるなかで
象徴的な多様性や豊穣さを獲得してきたという

その後ゾロアスターにはじまる一神教において
それら象徴増殖多様性が禁止されることになり
一神教の男権的な宗教の歴史が始まり
一九世紀ヨーロッパがそうした文明の発展のピークを迎える

それは一方で資本主義の社会が
「小麦を増殖させ、富の不均衡をつくり出し、
それを原動力にして社会を動かしていく」ように
この二つは結合しているが

それが二〇世紀の二度の大戦を契機に
解体されるようになり
それと同時に宗教が急速に影響力を失うようになってきている

そんな時代にユングは宗教の意味を考えようとし
「象徴の豊穣さの問題」「二元論の問題」
「母の問題」「母と女性の問題」などを視野におくようになった

現代においてさらに宗教の解体崩壊が進行しているなかで
私たちは「人間の宗教性の根源というものに
向かっていかなければならない」という

つまり「人間の心理といわれているものの根源にある」
「神の現象構造の中のいちばんベースになっているもの、
象徴もないし言語の構造も入ってこない」ものを
目指す必要があるのではないのかというのだ

西洋の精神分析は「象徴を駆使して、
それをどんどん言語化していく傾向が強い」のだが
日本人としては
「象徴では理解できないような「こころの古層」がある」
のではないかという感覚があるのはたしかだ
西洋では「こころ」のずっと奥にしまい込まれて
見えなくなってしまった「古層」が保たれているところがある

仏教的にいえばその「古層」は
「如来蔵」とも関係するような
「象徴」や「言語」以前の「こころ」でもある

それは弥生的世界以前の縄文的世界の
「こころ」だということもできる

「縄文的世界の場合は、
自然と対等の関係であって、その間を循環している。
それに対して弥生的世界では、農耕によって余剰とか蓄積ができてくる。
そしてその結果、富が集中したり、
階層が生まれたり、王様が出てきたりする。
縄文的世界の精霊とか大精霊と違って、
農業革命以降には、本当に豊穣な神々がたくさん出て」くるのである

これで思い出されるのはカインとアベルの話である
カインは弥生的であるのに対しアベルは縄文的だといえる

カインは農耕によって作物を育てアベルは羊を放牧する
二人はそれぞれの収穫物をヤハウェに捧げるが
ヤハウェはアベルの供物を受け入れたが
カインの供物は受け入れなかった

ヤハウェは「象徴」や「言語」以前の「こころ」を
求めたということができるかもしれない

さてそうした「人間の宗教性の根源」にあるだろう
「こころの古層」へと目を向けることで
「「宗教を〝超えて〟」いく必要があるということだが
重要なのは過去への回帰とはならないようにすることだろう

西欧は「こころの古層」を失っていくプロセスを辿ったのだろうが
日本ではそれがいまだ保たれているとしても
西欧におけるそうしたプロセスを経てはいないままだ

日本人は西洋的なプロセスを経る必要があるのか
あるいは「松のことは松に習え」のような
直接的なありようを可能にする
自覚的な意味での「習い」が可能なのか

ともあれ「こころの古層」へと向かう
ジオサイコロジーの試みがはじまろうとしている

■中沢新一・河合俊雄『ジオサイコロジー/聖地の層構造とこころの古層』
 (創元社 2022/12)
■中沢新一『アースダイバー 神社編』(講談社 2021/4)
■河合俊雄『心理療法家がみた日本のこころ/いま、「こころの古層」を探る』
  (ミネルヴァ書房 2020/8/31)

(中沢新一・河合俊雄『ジオサイコロジー』〜河合俊雄「まえがき」より)

「日本でイメージを用いた臨床を行っていると、まず象徴体系が曖昧で、シャープな象徴理解が難しいためにイメージの解釈が困難で、さらには象徴性以前のような直接性の次元が強いことに気づかされる。亡くなる人が「枕元に立つ」ということがあったり、夢のようで夢でないようなリアルで生々しい感覚が生じたりするのは決してまれではない。このような視点で中世における夢の扱われ方についての物語や記録を見てみると、そこでは夢が非常に直接的に受けとめられていて、現実との境目がほとんどなかったことに気づかされる。すると現代に生きているわれわれのこころにも、そのような象徴性を超える次元が「こころの古層」として残っているのではと考えられ、それと現代のこころのあり方との関係をさまざまな領域で検討したのが拙著『心理療法家がみた日本のこころ——いま「こころの古層」を探る』(ミネルヴァ書房、二〇二〇)であった。
 このような臨床での感覚を見事に裏付けてくれ、その歴史的・人類学的な背景を明らかにしてくれたのが中沢新一さんの『アースダイバー 神社編』(講談社、二〇二一)である。」

(中沢新一・河合俊雄『ジオサイコロジー』〜中沢新一「第一部 精神の起源とこころの発生」より)

「いま、地球上に現存していてしかも実際に観察できる宗教の中で、最も古代的な形態を残している宗教というのは何かと言うと、それはオーストラリア・アボリジニの宗教です。」

「そこに現れてくる神の考え方というのに、僕は最初、大変関心を引き寄せられました。ある意味で、とても抽象的なんです。抽象性が非常に高くて、具体的で表現する場合も、虹であるとか、水中深く眠っている蛇であるとか、そういう神話で表現します。象徴という意味で言うと、大変貧弱ともいえます。」

「象徴を扱う宗教というのは、旧石器時代にも発達しましたけれども、大発展を遂げるのは、じつは新石器時代、つまり農業が始まってからなのです。農業が始まってから、象徴というのは、ものすごく豊富になります。神さまの像というのが、わんさか出てくるようになって、神さまを中心とした儀式、とりわけサクリファイス(神さまに動物やお供物、時には人間まで捧げる)という儀式が、ものすごく発達してくるわけです。」

「ところが、これを一気に否定する宗教が出現するようになります。つまり、象徴的な多様性や豊穣さを正しい神の認識ではないとして否定する運動が起こってくる。
 この運動をつくった中心人物は、ゾロアスターだったといわれています。(…)彼の始めた宗教運動は、この新石器文明が持っている豊穣性、多様性、つまり象徴的多様性というものを否定しようとする宗教でした。」

「ゾロアスターは、この初期の新石器文明の象徴増殖多様性というものを禁止しようとしたのです。」

「近代社会というのは、農業革命をベースにする新石器前期にみられる豊穣多産な、象徴が非常に豊かな文明から、そこに楔を打つように現れた一神教の男系性、男権的な宗教の結合として、その歴史が始まってくるようになるわけです。
 一九世紀ヨーロッパが、そういう文明の発展のピークだったと思われます。ですから、そこでは、父権が、つまり男権が非常に強い。そして、一神教的な考え方、倫理性が宗教の中へ強く入ってきますから、道徳性の強調が非常に強いわけです。
 一方で、この社会は資本主義の社会です。小麦を増殖させ、富の不均衡をつくり出し、それを原動力にして社会を動かしていく、ということです。この二つが結合しているわけです。この結合体が、じつはヨーロッパというのもつくり出して、一九世紀にはその発展がピークをつくる。それが、二〇世紀に起こった二度の大戦を契機に、解体に向かってくるというのが現代ということです。それと同時に、宗教というものが、影響力を急激に失ってくるという現象もここに起こります。」

「そんな時代に、ユングたちは、宗教の意味を考えようとしました。ユングが問題にしていたのは、「象徴の豊穣さの問題」「二元論の問題」、それから「母の問題」「母と女性の問題」です。」

「私たちは、今、その時代のもっと先へ行ってしまっています。解体崩壊がさらに進行しているこういう時代に、私たちは何を探求しなければならないかと言うと、人間の宗教性の根源というものに向かっていかなければならない。そこは、何かと言いますと、先ほども言いましたが、三層を成している人間のこの神の現象構造の中のいちばんベースになっているもの、象徴もないし言語の構造も入ってこない、そういうものが、じつは人間の心理といわれているものの根源にある、この超古代的な旧石器時代の宗教には実際それがあった。
(…)
 そこで、われわれはその先に何を目指していくのかというところに、思想は向かわなければいけないのではないか、と私は考えて研究を進めてきたわけです。」

「河合さんと僕は、『仏教が好き!』(朝日新聞出版、二〇〇八)という本をつくりましたが、その中でも、本の表には出さなかったけれども、「坊さんがいなければ仏教は最高だね」と、二人で笑いながら言い合いました。それは、何か修行を重ねたり、苦行を重ねたり、〝重ねる〟ことによって人間がより高い存在になって真理に近づいていくという宗教のあり方はおかしいのではないか、というのが河合さんと僕の共通の考え方です。
(…)
 要するに、河合さんは、そういう宗教形態、宗教の形を考えていた。つまり「宗教を〝超えて〟いかなければいけない。否定するのではなくて、超えていくのはどうしたらいいのか。そのためには、象徴がつくり上げる宗教の、その先へ抜け出していかないといけない。この、先に抜け出していくやり方というのは、本当に人類に残されているのかどうか」ということです。」

「象徴の世界というものがあって、その上に一神教的倫理の世界が形成されてきます。ところが、私たちのこころの(…)深層には言語構造も入り込んでこないし、トラウマも発生しないし、イメージの固着も起こらないし、執着も起こらない。そういう状態があるということです。(…)
 これは如来像の考え方です。つまり、もともと悟った本質が人間のこころの中にはあって、この「悟ったこころ」というのは、先ほど来の「旧石器的」と言うこともできる。そこには言語構造は入ってこないし、トラウマも生まれてこない。ですから、無意識の深層抑圧というものも起こってこない。そういうものが、私たちのこころの本性をつくっているという考え方です。」

(中沢新一・河合俊雄『ジオサイコロジー』〜河合俊雄「第二部 聖地の層構造とこころの古層」より)

「西洋の分析家を相手にしていると、象徴を駆使して、それをどんどん言語化していく傾向が強いです。例えば、精神分析で言うと、「圧縮」と「移動」、メタファー(隠喩)とメトニミー(換喩)などですね。ユングも象徴性をすごく大事にしました。ですが、西洋の分析家による事例検討会とか、セミナーとかでそういう象徴理解を駆使した発表やコメントを聞いていますと、日本人としては、それに辟易する感覚がよく生じます。どうも、象徴だけではないのではないかなというふうに考えるわけです。
(…)
 では、象徴でない次元とは何だろう?
(…)
 こころには、象徴では理解できないような「こころの古層」がある、ということなんです。日本人は、そうした「こころの古層」を保っているという意味では、けっこう変わっているなあと思いますし、珍しいのではないかと思います。」

「縄文的世界の循環・贈与と弥生的世界の余剰・蓄積というのは、大きく違う。縄文的世界の場合は、自然と対等の関係であって、その間を循環している。それに対して弥生的世界では、農耕によって余剰とか蓄積ができてくる。そしてその結果、富が集中したり、階層が生まれたり、王様が出てきたりする。縄文的世界の精霊とか大精霊と違って、農業革命以降には、本当に豊穣な神々がたくさん出てきます。
 西洋の心理学とか心理療法は、この、余剰の蓄積・拡大を目指しているのではないかと思います。フロイトは“Wo es war,soll ich warden”(「エスのあるところ自我たらしめよ」)と言いました。つまり、意識と自我を拡大していくところに目標がある。
 ユングの場合でも、「個性化の過程」とか「自己実現」は、コンプレックスとか無意識を統合すること、つまり、意識の領域が拡大していくこととして理解さされている場合があります。
 いちばん典型的なのは、無意識を象徴するものとしての異性像との結婚、それを人格統合のモデルとしているところです。もっと極端になると、マスローなどの自己実現の心理学というのは、意識を拡大していく、豊かになっていくことを目標としています。こういう心理学というのは、農業革命以降の増殖的社会のモデルが適用された心理学ではないかと思うわけです。
 それに対して、『対称性人類学』(カイエ・ソバージュ〈5〉、講談社選書メチエ)にも出てきますが、同じ異類婚でも、アメリカン・インディアンなどの神話が示しているような異類婚は、自然と人間の世界の間の〝循環〟を表しています。」

「それとはまた全然違って、日本の昔話では結婚の話が少なく、異類は自然に戻ってしまう。それは、河合隼雄がすごく考えたところです。
 異類は、向こうの世界に帰っていく。例えば、「鶴女房」がそうですし、「うぐいすの里」もそうです。これは、西洋の心理学からすると、結合の失敗、無意識の統合の失敗になります。あるいは、領域の拡大や増殖の失敗だと考えられるわけです。向こうの世界に異類が帰ってしまうことを、河合隼雄は、「無」が生じた。そのときの「あはれ」の感情が大事だyと考えたわけです。
 これも、循環型社会のこころです。(…)
 向こうの世界と交流するということ、そこで聖地が立ち上がることが大事なのです。ですからそこでは、聖地と〝つながる〟と言うか〝交わる〟という性的表象が強くなります。」

「象徴以前のこころというのは、特に日本人の場合には、直接性などとしてこころの古層に残っている。それに象徴性が歴史的や発達的に加わっていくと、直接性から距離が出来ていき、象徴性やリフレクションが入っていくプロセスをとっていく。」

(中沢新一・河合俊雄『ジオサイコロジー』〜中沢新一・河合俊雄「第三部 討論」より)

「胎児性と未生性

・冬に「タマ」が増える。室に籠もって、異の詩エーションの儀礼も
・蛙の背中を割って生まれ直した人間
・イニシエーションで「ジャグジ」をあらわす不思議なオブジェ。母の胎内で成長する胎児
・胎児勾玉
・原初の生き物は魚、蛇、蛙
・魚類・爬虫類・両生類と、人間の新生児を似ていると考えるのは、縄文人の思考
・勾玉のモデルは胎児
・勾玉を身につけていることで、縄文人は自分が生まれる以前にいた、ヴァーチャルな未生の空間とのつながりを保ちながら、現実世界を生き抜く
・こころの古層の人のイメージは胎児?
・ヒルコ」

「鏡とリフレクション

・古層の蛇から鏡へ
・光を反射する鏡は、世界を明るくする呪具
・リフレクションのはじまり……距離ができてくる、自分で自分を見つめる
・「俺はお前だ。お前の荒玉・和魂・奇魂だ」
・古層の直接性の世界と異なってくる
・天の岩戸に籠もったアマテラスは、鏡で反射される
・岩、籠もるという縄文的世界からの変容

(中沢新一・河合俊雄『ジオサイコロジー』〜中沢新一「あとがき」より)

「『アースダイバー』の仕事を既存の学問の体系の中に位置づけるのは難しいが、私自身はそれを「ジオミトロジー(Goe-mythology)」という新しい学問ジャンルの仕事と考えている。「ジオロジー(地理学)」と「ミトロジー(神話学)」を合わせた学問という意味である。
 ほとんどの神話は具体的な土地と結びついて語られる。しかも神話の舞台に選ばれる土地は、たいがいが普通の地形をしていない。印象深い形をした山や岩や川などが、神話の主人公の活躍舞台となる。だから、ミトロジーははじめからジオロジーと結びついているのである。
 しかし地形のいったいどういうところが神話の思考を惹きつけるのか。地形はもともと物質的な現実である。そこに神話の想像力が結びつくのであるから、そこでは「現実的なもの」と「想像的なもの」「象徴的なもの」が結合していることになる。「ジオミトロジー」はこうして、心理学(精神分析学)の場合と酷似した、層構造を備えた学問となる。」

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