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岡田英弘『漢字とは何か』

☆mediopos-2453  2021.8.4

岡田英弘といえば
「世界史は13世紀モンゴルから始まった」という
それまでだれも考えつかなかった歴史観・世界観を
提唱した『世界史の誕生』の著者だが

本書では著作集のなかで分かれて論じられていた
「漢字」に関する論である
シナ(一九一二年までの中国)における漢字の歴史
日本語の影響を受けた現代中国語と中国人
日本における仮名の誕生
などについてのものがまとめられている
(岡田英弘は2017年に亡くなっている)

『世界史の誕生』が画期的であるように
「漢字」を論じる本書も
独自の視点で目を開かせてくれる

シナでは漢字のみが統一的に使われてきたが
そのはじめは紀元前二二一年に天下を統一した
秦の始皇帝によるものである

「漢人」が「蛮」「夷」「戎」「狄」を
統一したということになっているが
「漢人」は人種ではなく文化上の概念である
そしてそこで使われるようになった漢字は
共通の話し言葉ではない

そこにはさまざまな民族の使っていた
数多くの言葉がばらばらに存在していたが
始皇帝は「漢字の書体」と
その漢字に対する読み音を一つに決め文字を統一した

「シナ」というのは
商業都市のネットワークとして生まれた
皇帝を中心とする一大商業組織であり
その組織の及ぶ範囲が「シナ」だった
そして各地の税関による収入を管理するために
宦官が派遣されて監督したのだが
そのとき共通の言葉が存在する必要があった

当然のようにそこでは
さまざまな言葉が話され
表記の統一されていない漢字が使われていたので
それを統括していくためにも
漢字の統一が必要だったのである
始皇帝の焚書坑儒というのも
儒者への思想的な弾圧というよりも
統一を妨げる漢字を一掃しようとしたものだった

そうしてシナの文字・漢字は
話し言葉から乖離したまま
二千年以上に渡ってその状態が続くことになる

中国語には詳しくないのだが
岡田英弘によれば
漢人にとって漢字を学ぶのは
外国語を使って暗号を解読するようなものだという

ちなみに漢字にルビがふられるようになったのは
一九一八年に中華民国教育部が「注音字母」という
カタカナをまねた表音文字を公布したのが始まりで
そのときはじめて
「口で話し耳で聴いてわかる言葉としての中国語」への
第一歩が踏み出されることになった

日本語という言語もただの大和言葉ではない
漢字なども取り入れたハイブリッドな言語で
漢字から仮名をつくりだして
話し言葉に近い表現も可能になっている

漢字のみの世界は表意のみの世界で
それを使って一元化するには有効だが
実際に話される言葉をそこに取り入れるのは困難である

表意文字としての漢字を取り入れることで
日本語は抽象的な概念を使って思考することも
できるようになったわけだが
その漢字をベースにした言語であったために
散文の文体をつくりだすために
明治維新後さまざまな試みがくり返されることになる

こうして「漢字とは何か」について
さまざまに論じられている
新たな視点を得てみると
それまで考えないでいたような理解も広がり
それまで漠然と疑問に思っていたことが
腑に落ちてくることになる

一読に値する岡田英弘の遺著である

■岡田英弘(宮脇淳子 編・序)
 『漢字とは何か/日本とモンゴルから見る』
 (藤原書店 2021/7)

(宮脇淳子「岡田英弘の漢字論」より)

「歴史上、「中国」という名前の国家は、一九一二年の中華民国まで存在しない。紀元前二二一年に天下を統一した始皇帝の「秦」が、「漢訳大蔵経」に記された音訳の漢字「支那」、そして英語の「China」の語源である。であるから、正確を期すなら、一九一二年以前は「中国」ではなく「シナ(チャイナ)」と呼びたいが、戦後の日本ではChinaを「中国」と翻訳してきたから、目くじらを立てても仕方がない。」
「秦の始皇帝による文字の統一は、「口語で話される言語」の統一ではなく、「漢字の書体」とその漢字に対する読み音を一つに決めたことだった。その結果、読み音は、漢字の意味を表す言葉ではなく、その字の名前というだけのものになった。このあと二千年以上、シナ文明では、文字と言葉は乖離したままだったのである。
 漢字にルビがふられるようになったのは、一九一八年、中華民国教育部が、注音字母という、カタカナをまねた表音文字を公布したのが始まりである。これが、口で話し耳で聴いてわかる言葉としての中国語の第一歩だった。
 それまで長い間、シナには共通の話し言葉はなかった。読み音が地方によってばらばらである漢字を使いこなすためには、一つずつの漢字が持つ意味がわからなければならないが、それを説明する文字はない。だから。漢字を習得するためには、古典の文章をまるごと暗記し、文脈を思い出しながら使うしかない。儒教の経典である「四書五経」が、国定教科書になったために、科挙を受験するようなひとにぎりの知識人は、これを丸暗記し、その語彙を使って文章を綴った。そのために漢字を使う人びとが儒教徒に見えたのであって、儒教が宗教として信仰されたわけではない。」

「シナ(中国)では、王朝だけが交代して中身に変化がなかったというのは、司馬遷著『史記』が描いた世界観の枠組みにとらわれているだけで、じつはシナは時代ごとに、国家の領域も、話し言葉も、漢人と呼ばれる人たちの中身も入れ替わってきた。
 ではシナ文明の本質とは何か、というと、漢字と都市と皇帝の三つである。」
「表意文字である漢字は、違う言語を話していた人びとの、交易のための共通語として発展したのである。
 漢文の古典には、文法上の名詞や動詞の区別はなく、接頭語や接尾辞もなく、時称もなく、どんな順番で並べてもいい。発音は二の次で、目で見て理解する通信手段である。これは、マーケット・ランゲージの特徴である。
 はじめは各集団によって、漢字の字体や読み方は異なっていた。前述のように、これを統一したのが、紀元前二二一年に中原に覇を唱えた秦の始皇帝である。
 始皇帝は、度量衡と車の軌道を一つにしたのと同様、漢字の字体も一つだけに決めた。戦国時代に他の六国で使われていた字体の書物を焼き捨てさせたのが焚書である。始皇帝が採用した字体こそ、今日でも印鑑に使われている篆字である。さらに、漢字一字の読み方は一つだけの決められ。それも一音節が原則となった。
 こうして漢字の読み音は、秦の支配下に入った各集団にとって意味をもたない音になったが、日常の話し言葉とどんなにかけ離れていても、このあと漢字を学べば「漢人」と見なされることになった。つまり、漢人とは文化上の概念であって、人種としては、「蛮」「夷」「戎」「狄」の子孫である。」
「シナ文明の本質の第二番目は、都市に住む人間が、漢人であるということである。(・・・)シナにおいては、いかなる種族の出身者でも、都市の住みついて、市民の戸籍に名を登録し、市民の義務である夫役と兵役に服せば、その人は漢人と見なされた。
 古代シナの王は、もともと市場の組合長から発展したものである。洛陽盆地をめぐって興亡をくりかえした「蛮」「夷」「戎」「狄」出身の諸国は、首都から貿易路をのばし、要所要所に新しい都市を建設して移民団を送り込んだ。これが「封建」であって、「封」は方面、地方の意味である。はるか遠方に広がった交易のネットワークが効率よく機能して業績をあげるために、首都の王たちは「巡狩」といって現地を訪ね、植民都市の方は「朝貢」を行って朝礼に出席し、贈り物をした。」
「シナ文明の本質の三番目は、皇帝である。黄河中流の渓谷から四方へ広がる商業都市のネットワークとして誕生した「シナ(中国)」は、その後もずっと、皇帝を頂点とする一大商業組織であり、その経営下の商業都市群の営業する範囲が「シナ」だった。
 シナの皇帝の本来の商業的性格を示すものとして、後世にいたるまで、シナ各地の税関の収入は原則として皇帝の私的収入であり、宦官が派遣されてこれを監督したことがあげられる。」

「文字が漢字しかないということがシナ人(中国人)にとって何を意味したか、ふりがなのまったくない漢字を勉強するということがどういうことかは、日本人の想像を絶する。このような見方をした日本の東洋史学者は岡田以外にはいない。」
「マーシャル・マクルーハンは、「グーテンベルクが十五世紀に活字印刷の技術を開発するまでは、言葉が文字よりも優越していた古代・中世だったのが、このあと、文字が言葉よりも優越する現代になった」と言うが、岡田によると、「シナでは、言葉と文字は最初から乖離していた。言葉は言葉、文字は文字で、最初から別々のものであった。」
 スウェーデンの言語学者カールグレンは、このことを理解しており、「漢文は、読む前に全体の意味がわかっていなければ、一つひとつの漢字の意味もわからない」と指摘している。解読の手がかりは、膨大な量の古典の暗誦である。
 十九世紀末になってもなお、中国人にとって漢字の学習は伝統的なものであった。」
「つまり、漢文は、日本人やヨーロッパ人が考えているような「言葉」ではなく、「中国語」の古典でもない。漢人にとって漢字を学ぶのは、外国語を使って暗号を解読するようなものなのである。
 漢文は、漢人の論理の発達を阻害した。どういうことかというと、表意文字の特性として、情緒のニュアンスを表現する語彙が貧弱なために、漢人の感情生活を単調にした、ということである。
 漢人にとって、自分が話すとおりに書くことは極端に困難であって、まず絶望的と言ってもよい。もし仮にこれができたとしても、その結果は、きわめて難解な、おそらく当人以外には読めないようなものになる。だから、日常の自然言語から遊離した語彙と文法を学んでこれをマスターしなければならない。
 文字のほうが圧倒的に効果的な伝達手段であるため、言語が文字に圧迫され、浸蝕され、その結果、感情や思考の表現力が劣り、結局は精神的発達が遅れることになる。だから、古くから仮名文字を発達させ、おかげで国語による表現力にそれほど大きな個人差のない日本人と違って、漢人のあいだには一見、知能の極端な個人差が存在するらしく見える。これはじつは漢字の世界へのアクセスなのである。
 それでは。漢字の使用方法を完全にマスターしたエリートである「読書人」にとって問題はないかというと、これがまたそうではない。彼らがなにごとかを文字によって表現しようとすれば、儒教の経典や古人の詩文の文体に沿った表現しかできないからである。
 教育程度が高ければ高いほど、文字によるコミュニケーションの領域が拡大して、音声による生きたコミュニケーションの能力が低下する。漢字を基礎としたまったく人工的な文字言語が極端に発達したため、それに反比例して音声による自然言語は貧弱になってしまった。
 しかし、見方を変えると、漢字のこの性質は、異なる言語を話す雑多な集団またがるコミュニケーションの手段としては最適であって、全人類の四分の一にのぼる巨大な人口を、一つの文化、一つの国民として統合することは、漢字の存在なくしては不可能であった。」

「岡田の漢字論・シナ文化論については、日本の知識人ほとんどが同意し、最近では海外の中国社会でも盛んに翻訳されているが、第三章の〝日本語は漢語を下敷きにして人工的につくられた〟という岡田の論は、日本の保守的な文化人には嫌う人が多い。漢字の影響を受ける前から、話し言葉としての日本語は厳然とあった、と思いたいからである。
 しかし、岡田が引用している高島俊男氏の説明のように、漢字が日本に入ってきた当時の日本語は、「雨」「雪」「風」とか「暑い」「寒い」などの具体的なものを指す言葉はあっても、「天気」「気象」など、それらを概括する抽象的な言葉はなかった。
 言葉がなければ、その言葉が指し示す概念はその言語社会には存在しない。人間の感情も、言葉によって既定されているのである。
 話し言葉を文字に写すことで書き言葉がつくられるのではない。書き言葉を学ぶことで話し言葉がととのえられてゆくのである。一般に、人間は文字を通して学ばなければ、言葉を豊かにはできない。」

「日本語の散文の開発が遅れた根本の原因は、漢文から出発したからである。漢字には名詞と動詞の区別もなく、語尾変化もないから、字と字のあいだの論理的な関係を示す方法がない。一定の語彙さえないのだから、漢文には文法もないのである。このような特異な言語を基礎として、その訓読という方法で日本語の語彙と文法を開発したから、日本語はいつまでも不安定で、論理的な散文の発達が遅れた。
 結局、十九世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語、ことに英語を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになったのである。」

【目次】 より

序章 岡田英弘の漢字論(宮脇淳子)

第1章 シナにおける漢字の歴史
 漢字の正体──マクルーハンの提起を受けて
 漢字の宿命
 漢字が生んだ漢人の精神世界
 漢字が苦手な中国人
 文字の国の悲哀──漢字は中国語ではない
 漢字文明についてのエッセイ集

第2章 日本の影響を受けた現代中国語と中国人
 漢文から中国語へ
 魯迅の悲劇
 周令飛著『北京よ、さらば』を読む
 日本を愛した中国人──陶晶孫の生涯と郭沫若

第3章 文字と言葉と精神世界の関係
 書き言葉と話し言葉の関係
 日本語は人工的につくられた
 漢字文明圏における言語事情

終章 モンゴルの視点から見た漢字(樋口康一)

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