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ビオリカ・マリアン『言語の力 「思考・価値観・感情」 なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?』/塚本邦雄撰『清唱千首 ―白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった絶唱千首』

☆mediopos3333  2024.1.2

言語心理学者のビオリカ・マリアンは
人間の脳は母語だけではなく
複数の言語を操るようにつくられていて

複数の言語を使うマルチリンガルの人たちは
その能力によって創造性の扉が開かれ
認知症の発症を遅らせたり
言語を俯瞰できるようになることで
メタ認知プロセスや合理的思考の契機となったり
脳の実行機能を向上させたりする可能性を得る
といった研究結果も報告されているというが

いうまでもなくそうした能力は
マルチリンガルでなければ得られないものではない
単に複数の言語を日常的に使っているというだけでは
「言語の力」を深めることにはならないからだ

ビオリカ・マリアンの研究は
マルチリンガルという契機によって得られる能力の
可能性を示しているのであって
「マルチリンガルはモノリンガルより○○が優れている」
ということではない

母語以外の新しい言語を学習することは重要ではあるが
本書の監修・解説者の今井むつみが示唆しているように
それは「個人や国の功利的な目的のためだけであってはいけない。
文化と切り離して文法と語彙を教え、
単にその言語で文が作れるようになればよい
ということを目標にしてもいけない。
正しい文法に則って情報を伝えるだけの文生成なら
ChatGPTで十分である。」

つまり言語を学習する際に重要なのは
水平的で実用的なものに留まるような
ただの自動翻訳機に代わる能力開発ではなく
いわば垂直的ともいえる文化的な奥行きをはらんだ
言語の働きを体得するともいえるような方向で
意識的に学ぶことではないだろうか

母語の学習においても
日常的なコミュニケーションのための
ほとんど無意識的な言語学習では得られないような
言語の歴史的文化的な深みに至ることが重要である

また母語の標準語だけの学習ではなく
複数の方言を聞き分け使い分けたり
それぞれにおける言語表現について意識化し得るなら
それもある種のマルチリンガルであるともいえそうだ

さてその意味において
新年にあたり日本語の和歌の精髄に迫り得る
塚本邦雄の『清唱千首』をとりあげてみた
(最初にある新春の五つの和歌を以下で引用紹介)

これは数々ある塚本邦雄の編んだ詞華集
例えば『百句燦燦』『王朝百首』『詞華美術館』『秀吟百趣』
といったもののなかでも出色のもので
「白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる
千年の歌から選りすぐった絶唱千首」とあるように
「一七世紀後半から現代に及ぶ短歌の精粋」となっている

塚本邦雄は「千歌の序」において
「私の構想の核心は、あくまでも千首の織りなし醸し出す、
この和歌と呼ぶ宇宙の美醜にあつた。」という

「春夏秋冬・恋・雑の部立に順つて、
奔り、泡立ち、うねりつつ巻末に至るこの韻律の水脈(みを)、
文字で描く千年の絵巻の中の劇、その彼方から、その底から、、
永遠亡びることのない、否亡びさせてはならぬ、日本の詩歌の魂、
すなはち、かくあるべきわれらの志と詩の象(かたち)が、
明瞭に浮かび上つて来るだらう」ような
永劫に新しい命を持ち続ける詞華集として編まれている

こうした言語の深みに迫る表現を学ぶことこそ
「言語の力」を習得する重要な側面ではないだろうか

言語を学ぶとは
言語を深めるということであって
ただ道具として使うということではない

こうした「詞華集」に親しむということは
マルチリンガル的な言語状況に身を置くことで得られる
実用的な側面では決して得ることのできない
言語の可能性をひらく契機となり得るものである

「新しい言語を持つと世界が変わる」といっても
そのどんな「言語」の「窓」をひらくかによって
その「窓」から見える景色はまったく異なる
要はどんな「景色」を見たいかだろう
マルチリンガルであることだけで得られるものは
功利的なものを超えることはむずかしい

■ビオリカ・マリアン(今井むつみ 監修, 解説/桜田直美訳)
 『言語の力
 「思考・価値観・感情」
  なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?』(KADOKAWA 2023/12)
■塚本邦雄撰『清唱千首
 ―白雉・朱鳥より安土・桃山にいたる千年の歌から選りすぐった絶唱千首』
 (冨山房百科文庫 冨山房 1983/4)

(ビオリカ・マリアン『言語の力』〜「はじめに」より)

「心理言語学とは、心の働きと言語の関係を研究する学問だ。(・・・)
 この本が目指しているのは、私自身と、他の研究者による言語と脳に関する研究を統合し、それをマルチリンガルというプリズムを通して見ることだ。」

「脳の働きであれ、色であれ、人間のタイプであれ、すべてのものに人間の解釈を超えた厳密な分類が存在するという考え方そのものが、もしかしたら言葉によって生み出された幻想なのかもしれない。この世界に存在するそれらのカテゴリーが「本物」かどうかは関係ない。大切なのは、私たち人間が創造した言語的なカテゴリーであり、概念的なカテゴリーだ。それらは、知覚、科学、偏見といった分野に影響を与える。」

「母語以外の言語を習得することの効果については、世界各国の研究からさまざまなことがわかっている。いくつか例をあげよう。

・高齢者の場合、マルチリンガルであることは、アルツハイマー病やその他の認知症の発症を4年から6年遅らせ、「認知予備能」(脳が認知症の状態になっても、症状が出にくい状態のこと)を強化する。

・子どもの場合、第二言語を学ぶと、ある対象と、それを呼ぶ名前の関係は恣意的であるということを早い段階で理解できる。たとえば同じ牛の乳であっても、英語では「ミルク」と呼び、スペイン語では「レチェ」、ロシア語では「ロモコ」と呼ぶ。あるいは、好きな呼び方を自分でつくってもかまわない。現実と、その現実を表現するシンボルは同じではない。それを理解すれば、言葉をより俯瞰的にとらえるスキルが手に入り、ひいてはより高度なメタ認知プロセスや、合理的思考を鍛える基礎を固めることができる

・生涯を通じて見ると、2つ以上の言語を習得することは、脳の実行機能の向上につながり、大切なものに集中し、そうでないものを無視するのがより簡単になる。

・複数の言語に通じている人は、物事に間に他の人には見えないようなつながりを見ることができる。そしてその結果、創造性とダイバージェント思考(幅広く考えることで創造的な発想につながるような思考)を用いるタスクのスコアが向上する。

・母語以外の言語を使うと、より論理的で、より社会全体のためになるような意思決定を行う可能性が高くなる。」

(ビオリカ・マリアン『言語の力』〜今井むつみ「解説」より)

「心理学者が知りたいのは、「言語がどのように運用されているか」である。「人が言語を使うとき、脳はどのように働くのか」「人はどのように言語を学習するか」「言語を学習した結果、人の脳の構造や情報処理の仕方はどう変わり、思考はどう変容するか」「言語は文化とどのような関係にあるか」などの問いである。(・・・)

 著者は、もともとは、失語症や言語の学習障害など、言語の運用や学習に困難を持つ人たちの相談や治療から、言語を使う人間についての研究を始めたようだが、特に興味関心を持っているのは複数の言語を使う人たち————マルチリンガル————の心の働きで、本書ではそのアングルから「言語を使う人間」の本質的特徴を明らかにしようとしている(と私は読んだ)。」

「「マルチリンガルはモノリンガルより○○が優れている」という結論は、モノリンガルが○○を身につけることができないということも意味しない。」

「バイリンガル・マルチリンガルにもいろいろな種類があるということを忘れてはいけない。本書の著者が対象にしている「マルチリンガル」は、複数の言語を日常的に使っている人たちを指している。
(・・・)
 私自身、たぶんバイリンガルと言ってよいのだろう。英語で話したり書いたりすることは昔からしているし、論文を書くのは英語のほうが得意なくらいだ。しかし、現在は日本で暮らし、大学での仕事でもプライベートでもほぼいつも日本語を使っている。そんな私は、著者が描くバイリンガル像にはほとんど当てはまらない。注意の切り替えもモノリンガルの日本人より優れているとは思えない。自分の研究分野以外のこと、たとえば政治のことや医療のこと、経済のことなどを英語で考えたとき、日本語で考えるよりよい判断ができるとは思えない。そもそも、専門分野以外は英語の語彙もそんなに豊かでないから、精密かつ厳密に考えられないのだ。」

「バイリンガリズム、マルチリンガリズムのありかたは非常に多様で、本書で描かれているバイリンガルをバイリンガルのステレオタイプと思わないほうがよい。すぐにでも自分の子どもにマルチリンガル教育を始めなければならないとやみくもに焦る必要もないということは、ひとこと指摘しておきたい

 外国語の教育は今の日本に重要な課題で、社会全体で、外国語学習にもっと力を入れる必要があることは疑いの余地がない。ただし、それは、受験に必要とか、仕事で有利とか、経済の活性化といった、個人や国の功利的な目的のためだけであってはいけない。文化と切り離して文法と語彙を教え、単にその言語で文が作れるようになればよいということを目標にしてもいけない。正しい文法に則って情報を伝えるだけの文生成ならChatGPTで十分である。」

(塚本邦雄撰『清唱千首』〜「千歌の序」より)
*漢字表記は現在仮名遣いに変えてあります

「当然のことながら人撰が詞華集の本義ではない。私の構想の核心は、あくまでも千首の織りなし醸し出す、この和歌と呼ぶ宇宙の美醜にあつた。春夏秋冬・恋・雑の部立に順つて、奔り、泡立ち、うねりつつ巻末に至るこの韻律の水脈(みを)、文字で描く千年の絵巻の中の劇、その彼方から、その底から、永遠亡びることのない、否亡びさせてはならぬ、日本の詩歌の魂、すなはち、かくあるべきわれらの志と詩の象(かたち)が、明瞭に浮かび上つて来るだらう。心ある人にとつて、詞華は永劫に新しい命を持ち続ける。」

(塚本邦雄撰『清唱千首』〜「晴吟の跋」より)
*漢字表記は現在仮名遣いに変えてあります

「詞華集を編むことは、言語藝術の次元における、考へ得る限りでの、「秩序」と「美」と、「奢侈」と「快楽」を示現し、これをわがものとする神をも恐れぬわざであつた。私がそのかみ最初に試みたのは、『百句燦燦』(講談社)と『王朝百首』(文化出版局)であり、一方は現代俳句の、一方は古歌の粋を一巻に衆(あつ)め、みづからの好尚に徹して鑑賞をほしいままにした。昭和四十九年のことである。爾来、古典に関しては『雪月花』(読売新聞社)、『良夜瀰漫』(河出書房新社)、あるいは『君が愛せし』(みすず書房)を数へ、古典と現代を含むものでは『詞華美術館』(文藝春秋)、『秀吟百趣』・『珠玉百歌仙』(毎日新聞社)等と貪婪に巻を重ね、これらに準ずる百撰物を加へるなら、広義の詞華鑑賞本は既に十数首に上つてゐる。そして私は、これらの一冊一冊に、激しい愛着と同時に、拭いがたい慊焉の情がつきまとひ、常に、更に心にかなふ鬱然たる一巻をと、懸けて待つものがあつた。」

「既刊の邦雄撰者諸詞華集への既載・未載等は一切問はず、また関らづ、あくまでも、秀歌・絶唱を網羅することを前提として、約一年間を撰歌に費やした。標題は、かねてから意中にあつた。「清唱千首」を、ためらふことなく提案し、佐藤氏の快諾を得たものだ。撰歌すべき時代の、上限は七世紀後半、白雉・朱鳥時代から、二十一代集の期間をつぶさに経巡り、連歌時代、俳諧の時代である一六〇〇年初頭を以て下限とした。一七世紀後半から現代に及ぶ短歌の精粋は、また他の機会に撰することとして、本著千首の濃密化のみを考慮した。」

(塚本邦雄撰『清唱千首』〜「春」より)
*漢字表記は現在仮名遣いに変えてあります

「     秋篠月清集 百首愚草 西洞隠士百首 春二十首
 1 冬の夢のおどろきはつる曙に春のうつつのまづ見ゆるかな  藤原良経」

「十二世紀の天才歌人、新古今仮名序作者、後京極摂政二十代の作。百首歌の第一首で、冬・春・うつつの照応鮮やかに、迎春のときめきを歌つた。おどろくとは目を覚ます意。だがこの「春」は必ずしも瀰漫の時を暗示してはゐないところに、作者の特徴ある。良経は「西洞隠士」、「南海漁夫」。「式部史生秋篠月清」等の雅号を持つてゐた。」

「     光厳院御集 冬 朝雪
 2 うつりにほふ雪の梢の朝日影いまこそ花の春はおぼゆれ  光厳院」

「後伏見天皇第一皇子。後醍醐天皇笠置行幸の時、北条高時に擁立され北朝初代天皇となるが在位は二年。三十六歳、名勅撰集の譽高い風雅集を親撰。監修は花園院。「朝雪」、陽に照り映える雪景色に一瞬花盛りの頃の眺めを幻覚する。三句切れから「花」にかかるあたり、一首が淡紅を刷いたやうに匂ひ立つ。品位と陰翳を併せ持つ歌風は出色。」

「     草根集 二 永享二年正月二日の朝
 3 さやかなる日影も消たず春冴えてこまかに薄き庭の淡雪  正徹」

「淡雪の積りやうを「こまかに薄き」とねんごろに表現したのが見どころ。水墨の密書を見るやうな冷えわびた景色だ。正徹は十五世紀前半の傑出した歌人だが、その時代に成つた二十一代集最後の新続古今集には、嫌はれて一首も採られてゐない。だが家集、草根集には、かの歌聖定家を憧憬してやまぬ詩魂と歌才が、ただならぬ光を放つてゐる。」

「     新古今集2  春上 春のはじめの歌
 4 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく  後鳥羽院」

「新古今集獨撰の英帝。文武両道に秀で、殊に和歌は二十歳の百首詠から抜群の天才振り。「天の香具山」は元久三(1206)年二十六歳の作。柿本人麿「久方の天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも」の本歌取り。はるばるとした第二句と、潔い三句切れによつて、一首は王侯の風格を備へ、立春歌としても、二十一代集中屈指の作であらう。」
  
「     後大通院殿御詠
 5 雪もまだたえだえまよふ草の上霰みだれてかすむ春風  肖柏」

「雪・霰・霞・風が、若萌えの草生の上で、目に見えぬ渦を巻く。言葉のみが創り出す早春の心象風景。「たえだえまよふ」に、連歌師ならではの工夫を見る。牡丹を熱愛して庭に衆め、またの名、牡丹花肖柏。和泉に生まれ摂津池田に棲み、宗祇に古今伝授を受けた。家集、春夢草二千餘首中には、師を超えて新しく、照り翳りきはやかな作が残る。」

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