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川崎洋『日本の遊び歌』

☆mediopos-2457  2021.8.8

人間には五感だけではなく
十二感覚あるという視点からすれば
そのなかに言語感覚という感覚がある

特定の言語の種を
あらかじめ宿しているというのではなく
言語を習得できる潜在能力が
魂のなかに種として埋め込まれていて
それが母語という土壌のなかから
生まれ育っていくことになる

その母語は土着的な方言であって
(標準語的であってもそれは土着と同じ)
それが習得されるときには
その土壌そのものを身体化しながら
母語が形成されていく

そして子供のころにおぼえた「遊び歌」も
土壌として母語形成の大切な役割を担っている

この『日本の遊び歌』は先日古書店で見つけたもので
刊行されたのは1994年のこと
すでに27年が経っている

著者である詩人の川崎洋は1930年生まれだが
この『日本の遊び歌』を刊行したのが64歳の時
おそらく川﨑洋の生きていた時代でもすでに
ずいぶん多くの「遊び歌」が失われていただろうが

おそらく1994年以降の数十年間のほうが
むしろ口誦によって受け継がれていた「遊び歌」は
ずいぶんと失われてきているのではないかと思われる

そしてそれらに代わって
マスメディアやインターネットなどから
生まれてきた新しい種類の「遊び歌」が
数多く加わってきているのではないだろうか
そしてそこではかつての土着的な土壌からではなく
メディアによって作られた言葉を土壌とした母語が
新たに形成されてきているはずだ

土壌が変わると
母語そのものの質が変わっていくことになる
そして言語の生まれる土壌から生まれる言語は
その土壌の用意した性質を反映していく

土壌が痩せ細ってしまっては稔り
つまりそこから生まれる創造性も細り
そこで生まれる思考や感情や意志も
それに応じたものでしかなくなってしまう

その意味でも
ときにこうした「遊び歌」を
ふりかえってみるのも
みずからの言語感覚のありようを
検証していくきっかけにもなる
じぶんの言語感覚のなかに
どれほどの「遊び」があるだろうかと

■川崎洋『日本の遊び歌』(新潮社 1994/9)

「ばかのばかばたらき(馬鹿の馬鹿働き)」と、今でもふっと口をついて出てくることがあります。子供のころの早口言葉のひとつです。もっと前、赤ん坊のころ親などから「いないいないばあ」とやられキャッキャッと笑ったのではないでしょうか。やがて友達同士メロディックな、あるいは唱える調子の遊び歌で、まりつき、羽根つき、なわとび、絵描き歌その他たくさんの遊びを楽しみました。動作を伴わない言葉遊びも存分に楽しみました。「おまじない」はあのころ魔法を帯びていました。言葉には不思議な力が宿っているという言霊がまだかなり息づいていたように思います。あるいは相手の言葉尻をとらえたり、まぜっかえしたり、そのほかユーモラスなからかいや悪態の言葉が華やかに飛びかっていました。それだけ肌を接する人間関係と心の余裕があったということでしょう。また、今でも覚えている替え歌の傑作がたくさんありました。元歌より替え歌の方を歌った回数が多い。そんな例だってあるくらいです。草も木も花も、虫や鳥も言葉遊びの仲間でした。この本はそうしたわたしの記憶を始め、これまでに方言採集時に出会ったもの、さらには知人、友人、詩人の方々にお願いして教えていただいた各地に伝承されたそれらの情報と、文献資料から抽出した分から成り立っています。日本版マザー・グースと言えるかもしれません。今ではもう消えてしまったものもあります。また、類歌で渇愛したものもありますし、本書掲載分はほんの一部だろうと思います。日本各地で無名の人たちが築いてきた宝の山の輝きに呆然となります。」
「わたし自身のことで言えばこんなに書くのが楽しかった原稿は、ほとんど生まれて初めてと言っていいくらいです。読んだ方が同じく楽しいと感じてくださるとしたら、どんなに嬉しいでしょう。」

(「あやし歌」〜「あやし歌いろいろ」より)

「いないいない
 ばあ

 「いないいない」で、両手で顔を隠します。ついで、両手をはずし、赤ちゃんの前にぬっと顔を出します。すると赤ちゃんは小さな両腕を動かしキャッキャッと笑います。昔からよく知られたあやし方のひとつです。赤ちゃんが笑う−−−−大人にとってこんなに至福と満足を覚えることはありません。」

(「からだ遊び歌」〜「せっせっせ」より)


「せっせっせの よいよいよい
 げんこつやまの たぬきさん
 おっぱいのんで ねんねして
 だっこして おんぶして
 またあした(東京)

 ♪げんこつやまの♪で、両手をげんこつにして振り、♪たぬきさん♪はそのまま交差して振ります。♪おっぱいのんで♪からはジェスチャーで、♪またあした♪で両手を胸の前でくるくる回してじゃんけんをします。」

(「遊戯歌」〜「手まり」より)

「あんただた どこさ
 肥後さ 肥後どこさ
 熊本さ 熊本どこさ
 せんば(船場?)さ
 せんば山には 狸がおってさ
 それを漁師が鉄砲で撃ってさ
 煮てさ 焼いてさ 食ってさ
 それを この葉で ちょうと かぶせ(東京)」

(「おまじない」〜「呪文いろいろ」より)

「ちちんぷいぷい
 いたいいたいとんでけ(東京)

 子供のころ、転んでひざこぞうをすりむいたときなど、親がそのすりむいたところをさすりながら、このように唱えました。すると、痛みは不思議にやわらいだ−−−−−−−−そんな経験をお持ちの方がおいでだと思います。言葉が今よりずと魔術を帯びていた時代がありました。」

(「囃し歌」〜「からかい、悪口いろいろ」より)

「今泣いたカラスが
 もう笑った(東京)

 さっきまでピーピー鳴いていた子が、気がつくとニコニコしている−−−−−−−−そんなときに、こういって囃しました。」

(「言葉遊び歌」〜「絵描き歌」より)

「棒がいっぽんあったとさ
 葉っぱかな
 葉っぱじゃないよ
 かえるだよ
 かえるじゃないよ
 あひるだよ
 六月六日
 雨ザアザア
 三角定規にひびいって
 あんぱん二つ
 豆三つ
 コッペパン二つくださいな
 あっというまにかわいいコックさん」


(「替え歌」〜「外国の歌の替え歌」より)

「オータマジャクシはカエルの子
 ナマズの孫ではないわいな
 そーれが何よりしょーこには
 やがーて手が出る足が出る」

「ごんべさんの赤ちゃんが風邪ひいた
 ごんべさんの赤ちゃんが風邪ひいた
 ごんべさんの赤ちゃんが風邪ひいた
 そこーで あわててしっぷした」

 (元歌:パブリック賛歌(Balttle Hymn of the Republic))

(「生き物呼びかけ歌」〜「鳥虫呼びかけ」より)

「ほう ほう ほーたる来い
 そっちの みーずは にーがいぞ
 こっちの みーずは あーまいぞ
 ほう ほう ほーたる来い(東京)」

(「草花遊び歌」〜「草花よびかけ」より)

「ツンツンバナ
 人の目には見えな
 オラの目には見えよ(高知)

 北海道から九州の日当たりのよい、少し湿った野に群生するチガヤという植物があります。五月〜六月、葉に先立って、銀白色のツバナと呼ばれる花穂が現れます。それがまだ葉鞘の内にあるものは甘みがあり、子供が好んで食べたものです。右は、そのツバナうぃ捜すときに唱える言葉です。「ほかの人の目には見えるな、おれの目には見えろ」という、やや利己的なところがほほえましい文句です。」

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