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濱田秀伯 『第三の精神医学/人間学が癒やす身体・魂・霊』

☆mediopos-2410  2021.6.22

「第三の精神医学」という
「第三の」というのは
身体だけを扱う精神医学でも
心理だけを扱う精神医学でもなく
「霊」をも扱う精神医学

人間を身体だけの存在でも
心と身体だけの存在としてとらえるのでもなく
身体と心と霊(体・魂・霊)という
三重の存在としてとらえるということだ

時代はむしろ逆行的に進んできている
つまりかつては人間は
霊魂体としてとらえられていたのが
やがて人間から霊が
(教会が管理するものとして)取り去られ
そして近代科学と手を携えた唯物論的世界観のもと
人間は身体だけの存在となってしまっている
(いまでもその傾向は強いようだ)

人間が身体という物質だけでできた存在ならば
その治療は薬物や身体動作などに関わるものになるが
心に関わるものはそれだけでは治療が難しいことから
心理・精神分析が生まれてきたわけだが
そこでもまだ人間の霊的な側面を扱うことが難しい
著者も示唆しているように
「宗教、神、霊などを持ち出そうものなら」
「周囲から奇異な目で見られるのではないか」と
危惧せざるをえないところがある

その危惧を超えて著者は

脳を観察する神経組織病理学に基づく
身体・自然科学的な精神医学
(体精神層への療法)

個人心理学としての
心理・精神分析的な精神医学
(魂精神層への療法)

その二つの精神医学の限界から
第三の精神医学として
人間を「身体」「魂」「霊」の
三層から成る存在としてとらえる
スピリチュアル・ケアとしての精神医学
(霊精神層への療法)を示唆している

精神医学はもともと
キリスト教圏から生まれたものなので
著者が示すのはキリスト教的な
「患者さんと精神科医はともに」
霊によって導かれていくというものだが
本書の示す「第三の精神医学」の方向性は
キリスト教的な背景を超えたものとして
展開していくことが必要なのではないかと思われる
とはいえ精神医学の背景のないところで
展開していくのは困難なことかもしれない

宗教的な背景から離れて
人間を霊魂体の三分節としてとらえる人間観から
医学をとらえるのは
いうまでもなくシュタイナーの「精神科学」で
その可能性を展開していくのが理想ではあるのだが
シュタイナーの「精神科学」において
「精神医学」を展開しようとしたとき
困難なのは「魂」を扱う
心理・精神分析的なところでもあるように思われる

つまりフロイトというよりもユング的な方向性で
みずからの魂において個性化をめざすための
自覚的展開を図るプロセスがあまり重視されず
それが「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」のように
霊的修行の課題としてしか示唆されないのである

もちろんシュタイナーの「精神科学」においては
通常の医学の視点よりもさらに深い視点を持ち
身体に働きかけるのは神的魂的なものであり
魂に働きかけるのは物質的・身体的なものでもあるという
逆対応的な視点さえももっているのだが
個がいかにみずからと向き合い
魂を統合させていくかということには
あまり重きを置いていないところがあるように見える

それはシュタイナーが展開しようとした
「人智学/精神科学/神秘学」が「学」としての性格を
中心にもっているが故のものなのかもしれない
ゆえに魂の学の部分や芸術的な側面において
深みに欠けてしまうところがでてきてしまうのだろう

それはともかく
第一歩は人間を霊魂体の三分節としてとらえる
精神医学(いうまでもなく医学全般も)が
少しでもはやく市民権を得るようになることが先決だ

■濱田秀伯
 『第三の精神医学/人間学が癒やす身体・魂・霊』
 (講談社選書メチエ 2021.6)

「精神医学の目的は、動物実験や画像で脳のメカニズムを明らかにするだけでなく、人間本来の価値を見いだすところにある。精神科医の果たすべき役割とは、患者さんの悩みを聴き、環境や人間関係を調整し、向精神薬の処方を工夫するだけでなく、患者さんに生きる意味そのものを取り戻すことに違いない。
 このように考え、答えを探し求めるうちにヤスパース、シェーラー、フランクル、パスカルらに出会うことができた。さらに池田敏雄神父、中川博道神父、晴佐佐久昌英神父らのもとでキリスト教神学を学びながら、たどり着いた成果を一〇年ほど前じゃら、いくつかの学術論文、講演、シンポジムなどで発表してきた。それらを一般読者向けに書き下ろしたのが本書である。」

「本書は精神医学の一般的な教科書でも解説書でもありません。近代・現代の精神医学で二世紀余り繰り返されてきたテーゼとアンチテーゼを人間学を用いて超克し、精神医学の本来あるべき姿を描き出そうとする新たな試みです。すなわち精神病と精神医学の構造を脱世俗化(私の造語でドイツ語のDesäkularisation)することで、一方ではヤスパースが開拓した第三の精神医学を発展させ、他方では心を病む患者さんに癒やしと希望をもたらすことを目的としています。」

「三つの精神層にはそれぞれ個別の治療法が求められます。体精神層の症状は、脳の反射であり生物学的な物質反応なので、薬物や身体療法が有効です。魂精神層の症状は心理反応なので、個人ないし集団の心理・精神療法を必要とします。霊精神層の症状は精神病の本質であり基本障害です。従って、治療にはスピリチュアル・ケアが適用されることになります。」

(体精神層)
「薬物療法/身体療法 (a)休息、栄養、睡眠 (b)発熱療法 (c)ショック療法 (d)作業療法、活動療法」

(魂精神層)
「心理・精神療法は、患者さんと治療者の間に生じる心理的交流を通じて、魂精神層に変化をもたらす治療法です。言葉によるものとよらないもの、個人に行うものと集団で行うものがあり、二五〇種類にも及びます。病気や病態レベルに応じた適用がありますが、治療者の人柄や患者さんとの相性に左右される側面も少なくありません。技法の違いを問わず六〇〜七五%に有効とされています。」
「支持療法/表現療法/訓練療法/洞察療法」

(霊精神層)
「霊精神層に働きかける治療をスピリチュアル・ケアと呼びます。体精神層に働く薬物は物質ですから、熱を下げたり、咳をとめたりすることはできても、人生の意味を与えることはできません。魂精神層に働く心理・精神療法は、自分の不足を補い、世間を渡る技術は教えてくれても、高みを求める方向を指し示してはくれないでしょう。スピリチュアル・ケアの本質は、患者さんの視点を高め、この世に存在する意義、辛くても生きる勇気を与え、未来に開かれた自由を取り戻すところにあります。」
「古典的なスピリチュアル・ケア(モラル療法・ロゴセラピー・現存在分析法・森田療法)/神律療法 (a)
祈り (b)使徒的治療者 (c)治療的回心」
「(神律療法)は私がキリスト教理念を基盤にして、モラル療法とロゴセラピーを統合発展させた人間学的スピリチュアルケアです。神律(ドイツ語:Theonomie)とは、ティリッヒが提唱した宗教概念で、自ら行動する自立でも、外から動かされる他律でもなく、人間が神と無制約に関わりをもつことで自由な創造活動を営むことを指します。神律療法は、主治医が患者さんの三つの精神層に働きかける精神科医療です。(・・・)分業ではなく、一人の精神科医がそのすべてを同時に行うものです。(・・・)そこで必要不可欠な要素は、祈り、使徒的治療者、治療的回心の三つです。)

「人間は宗教的存在として動物を乗り越えることができました。一方、その代償として精神病を引き受けることになりました。誰も病気になることは望みませんが、精神病は霊精神層をもつ人間にとって宿命的な病気なのです。身体の病気は、心筋梗塞でも腎不全でも肺がんでも、発病と治療を通して、時には死に直面することで、患者さんの身心にネガティヴな側面ばかりではなく、家族の深まり、新しい人生の過ごし方などのポジティヴな側面をもたらす可能性があります。しかし、精神病は私たちを、それとはまったく異なる次元に誘います。発病すると、パスカルが述べるように、かつて栄光の座にあったものだけが頽落を知る「廃王の悲惨」の形で、日常では感知しえない人生の神秘にふれ、人間存在の真髄に到達することがあるからです。精神病は人間が本来、宗教的存在であることを、病気を通して教えてくれるのです。
 精神医学が教える二重の世俗化を根本的に解決するためには、啓蒙思想や実証化などの自然宗教ではなく、啓示宗教の霊に働きかける以外に方法はありません。」

「患者さんは、底知れぬ虚無感、先の見えない不安から自分を守るために、ほかにとれる方策が見当たらず、やむなく身にまとった世俗の防具を容易に手放すことができません。人生の方向を水平軸から垂直軸へ、視点を上げて自己中心から神中心へ転換すること、すなわち治療的回心に至るには、通常長い時間がかかります。勇気を必要とする困難な道ではありますが、決して不可能ではありません。
 一方、精神科医も世俗化した精神医学から容易に脱却することができずにいます。精神医学は身体医学とどこかが違う、心の病気は人間の本質とどこかで結びついている、と秘かに感じている精神科医は少なくありません。しかし宗教、神、霊などを持ち出そうものなら、「中世の医学に逆戻りした」と周囲から奇異な目で見られるのではないかと恐れています。対象を体精神層だけに絞り、身体医学の医師たちと同じ目線に立って、自然科学用語のみで議論に参加し、エヴデンスのある研究論文を多数発表することが、医学界では仲間はずれにされず、公的研究や社会的地位を手にいれるために有利に働くからです。」
「精神科医が霊精神層に踏み込んで使徒的治療者になるにも勇気を必要とします。エマオに向かう二人の旅人の一人は患者さん、もう一人は精神科医です。患者さんと治療者は、どちらも何も持たないことで対等な関係にあります。旅の目的は、この世に身を置きながらこの世に染まらず、ともに世俗の財を手放してその場に霊を招き入れ、自分たちを超越する存在を志向する脱世俗化にほななりません。」
「ヤスパースやフランクルを発展継承する脱世俗化した第三の精神医学において、患者さんと精神科医はともに、遙か遠くから呼びかける声に耳を澄ませ、霊がいつもそばにあるという確信を共有します。そして神律他力によって、自分たちがあるべき姿へと変えられていくこと、次元を超えて、より高みへと導かれていくことを恐れない勇気と希望とユーモアを抱いて、祈りを深めるのです。」

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