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エドヴァルド・ムンク(原田 マハ 翻訳)『愛のぬけがら LIKE A GHOST I LEAVE YOU』

☆mediopos2663  2022.3.2

原田マハは15歳のとき
ムンクの〈マドンナ〉を見て衝撃を受けた

ムンクの絵画は
「けっして見てはいけないもの、同時に、
けっして目をそむけてはいけないものだ」と
少女の原田マハは敏感に感じとり
いまでもそれは変わらないという

「不気味だとか、恐ろしいとか」ではなく
「畏れのような感覚」
「おごそかで神々しい、
それでいて蠱惑的な何かを感じる」というのだ

そして4年ほど前にアムステルダムの
ファン・ゴッホ美術館で開催されていた
特別展「ゴッホとムンク」で
接点はないと思っていたふたりのあいだに
「驚くべき接点」を見いだす
そしてひょっとしたら
ゴッホの弟テオからムンクに
ゴッホの絵を見せていた可能性もさえあるという

さて本書ではムンクが
「目の画家、手の画家というよりも、
感性の画家であり、言葉の画家でもあった」
という視点からムンクの「創作ノート」などに
記された言葉が紹介されていて興味深い

「心をむきだしにしなくてもいいようなアートを信じない」
「あらゆるアートは、心血を注いで創造されるべきだ」

「呼吸し、感じ、苦悩し、愛する、
 生き生きとした人間を描くのだ」

「私には、あらゆる人間の仮面の内側が見えていた」

「どこからか聞こえる叫び声が、
 私の耳を貫いたように感じた。
 たしかに叫びを聞いた気がした。
 私はこれを絵に描いた」

「我々が死ぬのではない。
 世界が私たちから消滅するのだ」

それらの言葉とともに
ムンクの絵を見ていると
生の不安や恐怖がそれらを貫いて
深みから輝いてくるように感じられてくる

ムンクは「見えるものを描くのではない。
見たものを描くのだ」と記しているように
その描かれた「見たもの」の世界を前にして
私たちはムンクとともに
剥き出しの「生」をともに目の当たりにすることになる
「けっして目をそむけてはいけないもの」として

わたしたちのまわりには
「目をそむけてはいけないもの」がたくさんある
それを「見」続けることには耐えられないだろう
それでもこうした芸術作品を通してときに
それに目を向ける機会をもつことができる
「聖なるもの」にふれるときのように

■エドヴァルド・ムンク(原田 マハ 翻訳)
 『愛のぬけがら LIKE A GHOST I LEAVE YOU』
 (幻冬舎 2022/2)

(原田マハ「言葉の画家、その調べ」より)

「いま思えばアートの神様のいたずらだっだのだろうか、あるとき、図書館で、私は何の気なしにエドゥアルドムンクの画集を手にした。画集を広げて最初に目に飛び込んできたのが〈マドンナ〉だった。あのときの衝撃はいまもありありと甦る。運命的な瞬間だった。〈不安〉〈思春期〉〈叫び〉〈生命のダンス〉など、ページをめくるほどに引き込まれていった。どれもこれも、不安に満ち、謎めいた絵で、カレンダーに印刷されていてお茶の間を朗らかにしてくれる「泰西名画」とは違っていた。それらは、けっして見てはいけないもの、同時に、けっして目をそむけてはいけないものだと、少女の私、は敏感に感じとった。胸をどきどきさせながら、私は画集にのめり込んでいった。
 ページをめくるのが怖かった。けれどもめくらずにはいられなかった。完全に「怖いもの見たさ」であった。こんなまがまがしくてきれいな絵があるなんて−−−−。」

「ムンクの絵に向き合うとき、私はいまでも「見てはいけないものを見てしまった」気持ちになる。
 美術の専門職についたこともあったし、いまでは美術に取材した小説を書き続けているので、少女の頃にくらべると、ムンクの絵を見る機会は格段に増した。しかし、何度見ても、どんなシチュエーションで向き合っても、その気持ちは15歳の頃とほとんど変わらない。不気味だとか、恐ろしいとか、そういうのではない。畏れのような感覚、と言ったらいいのだろうか。おごそかで神々しい、それでいて蠱惑的な何かを感じるのだ。
 いったい、いかにしてエドゥアルド・ムンクはかくも強烈な磁力に満ちたタブローを描くに至ったのだろうか。その一端を垣間見る展覧会に行き当たった。
 いまから4年ほど前になるが、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館を訪れた。当時、私は、ゴッホが主人公となる小説「たゆたえども沈まず」の構想中で、その取材のために訪問したのだが、ちょうど「ゴッホとムンク」という特別展を開催中であった。相当面白そうだと勇んで見に行った。
 どこにも接点などないと私は勝手に思い込んでいたのだが、ゴッホとムンクには、実は驚くべき接点があったらしかった。
 ゴッホの弟、テオ・ファン・ゴッホは、パリの老舗画廊に勤務しながら、経済的にも精神的にも兄を支援していた。ゴッホがあの名高い「耳切り事件」を起こし、南仏のサン=レミ・ド・プロヴァンスの精神家病院に入院していた1889年、25歳のムンクは、ノルウェーの政府奨学生としてパリに滞在していた。彼は直接ゴッホと会ったわけではなかっただろうが、テオがゴッホの絵を見せていた可能性があるという。私はこの接点を知って、突然、ムンクの謎のひとつが解けた気がした。ムンクは、自分だけの表現を求めてパリからほど遠い辺境でもがき苦しんでいたゴッホに、自らを重ね合わせたに違いなかった。」

「パリへ出てわずか1ヶ月後、決定的な転機がムンクに訪れた。故郷の父の訃報が届いたのだ。葬儀に参列できなかったムンクは、いたたまれずにパリを出て、サン=クルーという静かな町でしばらく暮らすことになる。
 深い悲しみの淵に佇んでいたムンクが書き記した言葉が胸を打つ。
 −−−−私は、呼吸し、感じ、苦悩し、愛する、生き生きとした人間を描くのだ。
 「サン=クルー宣言」とのちに呼ばれることになるこの決意表明には、その後のムンクの創作への思いが見事に現れている。彼は、目の画家、手の画家というよりも、感性の画家であり、言葉の画家でもあったのだ。」

「ムンクは、ゴッホのどんな絵を見ていたのだろうか。「ゴッホとムンク」展では、ふたりの作品が交互に、あるいは向かい合わせに展示してあった。ふたりの作品は、互いに響き合い、それぞれにせつない音を奏でていた。−−−−どこかで聞いたことがある調べ。15歳の私の耳が、それを覚えていたのかもしれなかった。」

(「アートと自然」より)

「アートは、装飾から始まったと言うけれど、
 そんなの嘘っぱちだ。
 どこかの誰かが話を創った。
 どこかの誰かが石や壁の面に向かって、
 神はいると告白した。
 そこにこそアートは生まれたのだ。

 (創作ノート 年不詳)」

「話し言葉は、人間を騙し、混乱させ、
 裏切るために生み出された。
 一方、詩は、矛盾を映し出す鏡である。
 真実の断片をとらえ、
 それを映し出すために生み出された。

 (エミール・ゾラ『ナナ』の本に記されたノート 年不詳)

「完成された下手な絵1枚より、
 未完成ないい絵を1枚描いたほうがいい。
 世間では、できる限りの細部を描き込めば
 絵は完成するのだと信じられている。

 たとえ1本の線であっても、
 完成されたアートワークと呼ぶことができるのに。

 描かれた作品には、
 意味と感情が込められていなければならない。
 心ないもの、どうでもよいものをいくら描き加えても
 意味がないのだ。

 (スケッチブック 1927−34)」

「写生をするのではない。
 自然がいっぱいに盛られた大皿に
 自由に手を伸ばすのだ。

 見えるものを描くのではない。
 見たものを描くのだ。

 (創作ノート 1928)」

「自然とは、目に見えるものだけではない。
 魂の内にある映像、つまり目の裏にある映像、
 でもあるのだ。

 (創作ノート ヴァルネミュンデにて 1907−08)」

「室内画だの読書する人だの、
 編み物をする女だのの絵を描くのは
 もうおしまいにしよう。
 呼吸し、感じ、苦悩し、愛する、
 生き生きとした人間を描くのだ。
 私はそんな絵を何枚も描くだろう。
 その絵を見た人々は聖なるものを感じて、
 教会の中にいるときのように帽子を脱ぐだろう。

 (創作ノート 1929)」

「私は、心をむきだしにしなくてもいいようなアートを
 信じない。
 文学でも、音楽でも同じだが、
 あらゆるアートは、心血を注いで創造されるべきだ。
 アートとは、心の血のことだ。

 (創作ノート 1890−92)」

(「ヴィーゲラン、他の芸術家たち」より)

「ファン・ゴッホはその短い生涯を通して
 情熱の炎を絶やすことはなかった。
 最後の数年間、彼は自らのアートのために、
 持てる情熱のすべてを絵筆に注ぎ込んだ。
 彼よりも長く生き、彼よりも富を得た私は、
 彼のように熱情を失わず、
 燃えるように絵筆で、
 死ぬまで描き続けたいと願いつつも、
 かなわなかった。

 (スケッチブック 1927−34)」

(「人生観」より)

「私には、あらゆる人間の仮面の内側が見えていた。
 笑い顔、冷徹な顔、落ち着いた顔。
 目を凝らすと、どの顔にも苦痛が浮かび上がってきた。
 青白い死体たちが、落ち着きなく、神経質に、
 墓場へと続く曲がりくねった道を小走りに去っていった。

 (創作ノート 年不詳)」

「牧師はラジオでこう明言する。
 キリストは、神は私の中にいると言った。
 私は神の中にいる。
 父は、私の中にいる。私は父の中に。

 言いかえれば、こういうことじゃないか。
 私は神の中にいる。
 神はあらゆるものの中に存在する。
 つまり、私は世界の中にいる。
 世界は私に存在する。

 (スケッチブック 1927−34)」

「夕暮れ、道を歩いていた。
 一方には町が見渡せ、眼下にフィヨルドが
 横たわっている。
 私は疲れて、ぐったりしていた。
 立ち止まってフィヨルドを眺めていると、
 沈みゆく太陽、雲が赤く変わっていった。
 まるで血のように。
 どこからか聞こえる叫び声が、
 私の耳を貫いたように感じた。
 たしかに叫びを聞いた気がした。
 私はこれを絵に描いた。
 雲を本当の血のように描き、
 色彩が叫んでいた。
 この絵が「生命のフリーズ」の
 《叫び》となった。

 (印刷物 年不詳)」

(「死」より)

「我々が死ぬのではない。
 世界が私たちから消滅するのだ。

 (スケッチブック 1930−35)」

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