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『カルロ・ロヴェッリの科学とは何か』/シュタイナー『神秘学概論』

☆mediopos2666  2022.3.5

現代では科学が宗教に
とってかわろうとしている傾向がある

科学が宗教化しているといういことだが
そのとき科学はほんらいの科学ではない

『時間は存在しない』
『世界は「関係」でできている』が
話題となったカルロ・ロヴェッリは
理論物理学者でありサイエンスライターだが
本書『科学とは何か』では
ほんらいの科学とは何かについて論じている

ロヴェッリは人類の歴史のなかで
最初に偉大な「科学革命」を起こしたのは
古代ギリシアのアナクシマンドロスだという

アナクシマンドロスは
大地=地球が虚空に浮かんでいることを初めて見抜き
世界を始まりも終わりも無限だと想定した

つまりほんらい科学は
「世界像を構築する役割を担」い
「わたしたちがかぎりなく無知であり、
抱えきれないほどの誤った先入観にとらわれているから」
「「知らない」という現実」を前提としながら
「知っていると思っていたこと」を問い直すものだ

そうした世界像の問い直しを行う科学的思考は
アナクシマンドロスからはじまっているという

「科学の知は世界を探索し描き直」し
世界についての新しいイメージをもたらし、
世界の在りようについて教えてくれる」もので
そうした科学的な営為のためには
「思考の新しい形態の継続的な探究」が不可欠なのだ

その意味では現代において信仰されがちな科学は
むしろ世界像を特定のかたちに閉じ込めようとさえしている

ロヴェッリの『科学とは何か』を読みながら
ルドルフ・シュタイナーが『神秘学概論』の最初で論じていた
「神秘学」の性格についてのところを思いだしたのだが
ある意味で『科学とは何か』は
『神秘学概論』の「神秘学」に関する序章とでも
いえるような内容になっている

「神秘学」の「神秘」という言葉は
科学に反しているかのようにイメージされるが
科学が「感覚的に把握されうる」を対象とするのに対して
「神秘学」は科学の研究方式や研究態度を
非感覚的なものに適用した「学」である

神秘学において重要なのは
そうした科学的な認識態度における魂の在り方であって
そうした魂を「自己発展」させることを課題とする

通常の科学においても
科学的営為を行う魂の態度は
その探求に伴って「自己発展」させる必要がある
そしてその魂のありようは
だれにでも開かれたものであるように
神秘学的な魂のありようもまた
だれにでも開かれているのだとシュタイナーは言う

神秘学への批判的な態度としては
超感覚的な世界など存在しないというものや
存在するかもしれないが認識はできないというもの
思い上がりであるとするような信仰的宗教的な態度があるが

神秘学の前提としているのは
感覚的世界を超えた世界が存在していること
そしてその世界を認識する可能性はだれにでもある
ということである

現在の通常の「科学」は
神秘学が対象とする超感覚的世界を対象とはしていないが
人間はだれでも科学的探求に開かれていることが前提であり
探求の対象を「感覚的世界」に
限定しているわけでもないはずである

科学者であることは
「あらゆる強固な信念にたいする抵抗の可能性、
世界の新しい見方を探求し、
より有効な見方を創造する能力」を
有しているということであるとすれば
「世界の新しい見方」のなかに
感覚的世界を超えた世界も含まれている

神秘学的には
宗教は感覚的世界を超えた高次の世界が
認識できなくなったがゆえに生まれたものである

その意味では科学者の多くが
信仰を科学とは分けてとらえるのに対し
神秘学はその両者がむすばれたところで
はじめて成立するということもできる

■カルロ・ロヴェッリ(栗原俊秀訳)
 『カルロ・ロヴェッリの科学とは何か』
 (河出書房新社 2022/2)
■ルドルフ・シュタイナー(高橋巖訳)
 『神秘学概論』
  (ちくま学芸文庫 筑摩書房 1998/1)

(『カルロ・ロヴェッリの科学とは何か』より)

「科学研究の目的は、正確な量的予測を実現することではなく、世界がいかに機能しているかを理解することにある。言い方を換えるなら、科学は世界像を構築する役割を担っている。わたしたちは科学を通じて、世界について考えるための概念構造を発展させる。それは、世界についてわたしたちが知っていること、いままさに学びつつあることと矛盾しない、有効な思考の枠組みでなければならない。

 科学が存在する理由は、わたしたちがかぎりなく無知であり、抱えきれないほどの誤った先入観にとらわれているからである。「知らない」という現実、丘の向こうにはなにがあるのかという好奇心、知っていると思っていたことの問い直し・・・・・・これが、科学の探究の源泉である。一方で、科学は明白な事実に抗ったり、論理的な批判の言説を拒んだりはしない。人はかつて大地は平らであると信じ、自分たちは世界の中心にいると信じていた。バクテリアは無機物質から自然に生まれてくるのだと信じていた。ニュートンの法則は正確無比だと信じていた。新たな知が獲得されるたび、世界は描き直され、わたしたちの目に映る世界の相貌は移ろっていった。昨日とは異なる、昨日よりも優れた仕方で、今日のわたしたちは世界を認識している。

 科学は、より遠くを見つめることである。自分の家の小さな庭を出たばかりのときには、わたしたちの考えは往々にして偏っているものだと理解することである。科学とは、わたしたちの先入観を明るみに出すことである。世界をより的確に捉えるために、新しい概念的手段を構築し発展させることである。

 わたしたちの知性は世界を「概念」として捉えようとする。科学の探究とは、「概念化」された世界像をたえず修正し、改良する過程である。そうやって、わたしたちの世界像の基礎となっている前提や思いこみを問いなおし、より有効な修正案を提案していく。

 科学の知は世界を探索し描き直す。世界についての新しいイメージをもたらし、世界の在りようについて教えてくれる。どうやって世界について考えるのか、なんのために世界について考えるのか、科学はわたしたちに教えてくれる。世界を見て、調べ、考えるための最良の方法を、科学はたえず追求しつづける。したがって科学とは、なによりもまず、思考の新しい形態の継続的な探究である。

 「技術」にかかわる営みであるよりはるかに前から、科学は「見方」にかかわる営みだった。アナクシマンドロスに数学の知識はなかったが、アナクシマンドロスがいなければヒッパルコスの数学はなかった。ジョルダーノ・ブルーノは宇宙の莫大な広がりをイメージすることで、ガリレオやハッブルへの道を切り開いた。アインシュタインは、光線に馬乗りになって世界を見たらどんな光景が広がるのかと自問し、一般読者向けに書いた文章のなかで、巨大な軟体動物のごとき「たわむ時空間」が見えたと報告した。科学は新しい世界を夢みる。そうした夢のいくつかは、わたしたちの先入観に比してより現実に近いことを、科学の研究が教えてくれる。」

「科学の冒険は蓄積された知全体に基礎を置いているが、その核心は継続的な変化にある。なんらかの確かさや、世界についての所与のイメージにしがみつかないでいられる能力こそ、科学的な知の要諦である。それはむしろ、観察、議論、異論、批判など、手もとにあるすべての材料を参照しながら、みずから進んで、何度でも変化を受け入れようとする。科学的思考はしたがって、生得的と形容されるあらゆる観念、あらゆる恭順、あらゆる不可侵の真理に対し、抵抗し、反逆し、批判の声をあげようとする性質を有している。」

「アナクシマンドロスは世界の「読み直し」の道を指し示し、新たな冒険の端緒を開いた。わたしたちはこの冒険に恐怖を覚え、それでいて魅了される。なぜなら、この冒険はわたしたちに、みずからの無知を認め、過ちを引き受けるように課してくるから。知の不確かさを受け入れることは、知へいたる本道であるばかりでなく、より誠実で、より美しい選択でもある。わたしたちの知は、地球のように、虚空で宙づりになっている。足場がないこと、かりそめであることは、生から意味を奪うのではなく、生によりいっそうの価値を与えてくれる。

 この冒険がどこへ行き着くのか、わたしたちに知るすべはない。だが、慣習にもとづく知の批判的な再検討、あらゆる強固な信念にたいする抵抗の可能性、世界の新しい見方を探求し、より有効な見方を創造する能力といった観点から眺めるなら、科学的な思想とは、文明史のゆっくりとした発展を記した書物の、壮大な一章にほかならない。この章を書き起こしたのはアナクシマンドロスであり、わたしたちはいまもなお、その物語のなかを生きている。これから先どこへ行くのか、見たい、知りたいという思いに焦がれながら。」

(『神秘学概論』〜「神秘学の性格」より)

「感覚とその感覚に仕える悟性とが明示しうるものだけを「学」と見なす人にとって、本書の意味での「神秘学」は当然、科学たりえないであろうが、よく考えてみれば、その立場は根拠あるものではなく、個人的な感情に発する独断に従っているにすぎないことが分かる。科学がどのようにして生じ、それが人生にとってどのような意味をもつのか、考えてみよう。科学の成立は、本質的には、科学の研究対象に即してではなく、科学の研究方法に即して、認識されねばならない。科学を研究するときの魂がどのような在り方を示しているのか、に眼を向けなければならない。感覚的に把握されうるものだけを考察する態度に慣れてしまうと、この感覚の開示こそが本質的なのだと考えてしまう。そして、人間の魂が、その際、まさに感覚の開示だけに向けられているという事実を意識できなくなる。

 しかし、そういう魂の自己規制から脱け出して、研究対象を特定の領域に限定しなくなれば、この特別の場合以外のところにも、科学研究の可能性を見出すことができるようになる。本書が非感覚的な宇宙内容の認識のために、「学」という言葉を用いる理由は、まさにここにある。人間の思考は、この宇宙内容に対しても、自然科学が対象とする宇宙内容に対するときと同じ態度で、研究活動を行うことができる。神秘学は、自然科学の研究方式や研究態度を、感覚的事実の関連や経過から切り離して、しかもその思考の特質を確保し続け、自然科学が感覚的なものについて語ろうとするときと同じ仕方で、非感覚的なものについて語ろうとする。自然科学の研究方法と思考方法とが、感覚的なものの中にたちどまっている一方で、神秘学は自然界の研究で身につけた方法を、非感覚的な領域に適用しようとする。非感覚的な宇宙内容について、自然研究者が感覚的な世界について語る通りの仕方で、語ろうとする。神秘学は、自然科学的な態度の内部に働く魂の在り方を、つまり科学研究にふさわしい魂の在り方を保っている。だからこそ、「学」と呼びうるのである。

 人間生活における自然科学の意味は、決して自然の知識を獲得することだけでは汲み尽くせない。知識だけなら、結局は、人間の魂以外の分野に留まっているが、科学研究のおいては、人間の魂そのものが、認識の経過の中に生きているからである。魂は自然科学研究において、みずからを体験する。魂がこの認識活動において、生命に充ちた仕方で獲得するのは、自然そのものについての知識なのではなく、自然認識に際して経験する自己発展の可能性なのである。神秘学は、単なる自然を越えた領域で、この自己発展を一層可能にするために働く。神秘学者は、自然科学の価値を見誤らない。むしろ自然科学者以上にその価値を認め、自然科学の中に働く思考方式の厳しさなしには、決して科学的な基礎づけをなしえないことをよく理解している。この厳しさうぃ、自然科学的な思考の本質に深く関わることによって、獲得できたとき、その厳しさを、魂の力を通して、他の領域にも生かすことができるようになる。」

「神秘学は、すべての人の魂に根をはることのできる、二つの思考内容から芽生えるのでなければならない。本書の意味での神秘学者にとって、この二つの思考内容は、そのための正しい手段を用いれば、誰でも体験することのできる事実なのであるが、多くの人にとっては、極めて問題をはらんだ主張を意味している。(・・・)

 二つの思考内容とは、第一に、可視的な世界の背後には不可視的な世界があり、はじめは感覚とその感覚に結びついた思考にとって隠された世界であるということ、第二に、人間の中にまどろんでいる能力を開発すれば、この隠された世界に参入することが万人にとって可能であるということである。

 そのような隠された世界など存在しない、と言う人がいる。感覚によって知覚される世界だけが唯一の世界なのだ。世界の謎は世界そのものから解明することができる。現在の人間には一切の存在の問いに答えることが、目下のところできなくても、いつかはきっと、感覚の経験とその上に立つ科学とが、すべてに答えを与えてくれるであろう、というのである。

 可視的な世界の背後には、隠された世界など存在しない、という主張は成り立たない、と別の人は言う。しかし人間の認識力では、この世界に参入することができず、そこには越えることのできない限界が存在する。「信仰」は、このような世界を逃げ場として求めようとするかもしれないが、確実な事実に基礎を置く真の科学は、このような世界と関わることができない、というのである。

 第三の人は、「知識」の及ばぬ、「信仰」でなければならない領域の中へ、認識の作業を通して、参入しようとするのは、一種の思い上がりであると考える。宗教生活に属する世界に、本来無力な人間が参入しようとすることを、この立場の人は不正なことと感じている。」

「真の科学者なら、感性界の諸事象に基づく自分の科学と超感覚的世界を研究する仕方との間に、どんな矛盾も見出せないであろう。科学者は特定の道具と方法を用いる、その道具は、「自然」が彼に提供するものを加工することによって作り出される。超感覚的な認識の仕方もまた道具を用いるが、その場合の道具とは、人間そのもののことである。そしてこの道具もまた、高次の研究のために、先ず用意されなければならない。はじめに人間の手が加わることなく、「自然」から人間に与えられた能力を、より高次の能力に変化させなければならない。そうすることによって、人間は自分自身を超感覚的世界の研究のための道具にすることができるのである。」

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