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山﨑修平『テーゲベックのきれいな香り』/山﨑修平×島田雅彦「『テーゲベックのきれいな香り』をめぐって」 「書かないことで書く詩/私/私小説」

☆mediopos3001  2023.2.4

今回は小説と詩の境目の話
あるいは境目のない話
そして「わたしがわたしを書く」
ということのわからなさの話・・・

普段はあまり小説を読みたいほうではない
物語に入りこもうとしながら
どこか入りこめないことが多かったり
読んでいる途中で
じぶんが物語のなかにいることに疲れて(あるいは呆れて)
そこに居たくはなくなってしまったりもするからだ

とはいえ文体やそれを紡ぐ言葉を深く味わえるときや
常に新たな思考や感覚をともに読みすすめられるときは
小説というジャンルのもつある種の作為性のことなど忘れて
そこで新たに生み出されている言葉とともにありたいと思う
(反対に貧しい言葉や過剰な感情の垂れ流しは避けたい)

山﨑修平は『テーゲベックのきれいな香り』で
小説のような詩のような不思議な小説を書いている

「西暦2028年・東京。その地で「わたし」は語り出す――
学生時代のこと、神戸の祖父母のこと、愛犬パッシュのこと、
溺死したR、あるいはLのこと、虎子のこと、ハウザー三世のこと、
愛すべき「ことば」たち……。」
というように紹介されてもしているが

おもしろいのは
「わたしがわたしを書く」
その「わたし」が
よくわからなくなってくるところだ

「わたしの物語」なのに
「ある一人の人間である虎子の述懐であり、
虎子のイマジネーションにおける人物である
ハウザー三世の物語というかたちをとった、
まぎれもなくわたし一人の物語」なのだ
(おそらく読んでみなければ何のことがわからないだろうが)

島田雅彦・赤坂真理・黒瀬珂瀾・高橋源一郎
といった作家・歌人が
「すっかり忘れていた「新しい」」だとか
「『地獄の季節』3・0」だとか
「超小説」だとか
「これこそが、小説の体験だ!」だとか
「恐るべきデビュー小説」だとか
そうした言葉で「推薦文」なるものを書いていたりするが

やはりこれはある意味
なんだかわからない小説だということだろう
けれどわからにもかかわらず
わからないがゆえに
読みながらその世界が近しく懐かしくもなる

そして小説を読むということが
また小説を書くということが
いったいどういうことなのかを
ある意味でわたしという他者において
つねに意識させられる小説でもある

しかも文体で読ませるというのでもおそらくなく
詩がそのまま小説になっているということでもない
どちらでもないところを不思議に浮遊させられる
そんな「きれいな香り」とともにある「わたしの物語」である

ちなみに「テーゲベック」というのは
ユーハイムのお菓子

プルーストの『失われた時を求めて』の
紅茶に浸したマドレーヌの香りのように
「テーゲベックの蓋を開けて、
焦がしたキャラメルのかかっている一つを口に運ぶと、
祖母の家、祖母の腰掛けていた籐の椅子、
深い栗色をしている阪急電車、
そして、そしてパッシュの姿が浮かぶ」
というように
そこから記憶が生きて現れてくる・・・

■山﨑修平×島田雅彦「『テーゲベックのきれいな香り』をめぐって」
 「書かないことで書く詩/私/私小説」
 (「週刊読書人 2023年1月27日」所収)
■山﨑修平『テーゲベックのきれいな香り』
 (河出書房新社 2022/12)

(山﨑修平『テーゲベックのきれいな香り』より)

「ひとり、またひとりと、友人、知人の幾人もの人たちと、二度と会えないことがわかってゆく。多くの人が傷つき、癒やすことも堪えることも叶わずに、ただ憔悴するのみのなかで、わたしは吉増剛造の詩を読んでいた。わたしはもう、詩は読めないし、書けないだろう。それは吉増剛造の詩を読んで、はっきりとわかったことだった。わたしは詩に必要な、瞬間をつかめないだろう。事実が、悲劇が、わたしの詩に、詩の瞬間を担保することができない。
 もう詩にはならない。
 テーゲベックの蓋を開けて、焦がしたキャラメルのかかっている一つを口に運ぶと、祖母の家、祖母の腰掛けていた籐の椅子、深い栗色をしている阪急電車、そして、そしてパッシュの姿が浮かぶ。
 いつだって、ここにいてくれるのなら。
 食べたら必ず会えるのだから、消えたりはしない。いつだって、会えるのだから。
 わたしは、三年ほど前に書いていた詩を手に取る。もはやわたしの書いたものではない。誰かの書いた詩を読むようにして。」

「わたしは他者によって形成される。わたしの悲しみも、わたしの喜びも、他者によって形成された概念を追体験しているに過ぎない。であるなら、わたしがわたしを語るとき、わたしの知覚している範囲で書くことに何の意味があるのだ。(……)わたしはあくまでも反射装置、書いているのは他者であるのだから。」

「わたしは、わたしは、過去を語りだす。
 わたしは、今のわたしをより戻す。
 詩とは何か。詩でしか表せないことはあるのか。わたしはその答えを知るために、詩から離れて観るしかないと感じた。歌人の岡井隆が、詩を書き、詩を読むことによって、あるいは注釈することによって、短歌を論じていたように、詩とは何かを明らかにするということは、詩を内と外とを弁別する境界線を明らかにすることになる。詩ではない、ものが何であるかがわかれば、詩である、ということも明らかになるだろう。
 小説という表現形態は、物語も、詩も、批評も、呪いも、呻きですら包括するものだ。小説は、究極的には書くものではなく、読むものである。であるなら、読む行為そpのものが小説であり、詩とは読むという行為のなかで、瞬間を捉える表現なのではないか。」

「これから書くことは、わたしの物語であり、ある一人の人間である虎子の述懐であり、虎子のイマジネーションにおける人物であるハウザー三世の物語というかたちをとった、まぎれもなくわたし一人の物語である。
 ただ、それだけである。」

「わたしがわたしを書く?
 「わたし」という、もっとも虚構性の高いわたしを?

 書くために書く
 書かないことで書ける

 わたしは詩を書く
 詩を書く、わたしは」

「詩が溶けてわたしと混ざり合い、わたしもやがて溶けてゆく。
 この小説は小説となるだろう。」

「山﨑修平×島田雅彦「『テーゲベックのきれいな香り』をめぐって」より)

「山﨑/ことばにできないことを詩にしようとするけれど、結局それはことばでしかない。だから書かないものを書き、書かないことで書くしかない。それは「わたし」を解体することに通じます。とはいえ、「わたし」の解体を書く者はわたしであり、矛盾するようですが、「わたし」とされている記憶を書いていくことによってしか、「わたし」を解体することはできない。

島田/(…)デビュー小説で思い切ったことをしましたね。定石通りに小説を書くことに飽きてきた巨匠が手を染めるならいざしらず、新人がいきなりこれをするとは、多少の嫉妬もありますよ(笑)。
 古井由吉さんの小説と通じるものがある気もします。あの方は散歩の達人で、小説を一日二時間書く以外、ほぼ散歩と読書という人生。日常の話にも脈絡がなくてね。付き合ううちに気づいたのは、古井さんは日常的に自己の解体をしていたんだと。小説のところどころに出てくる自己は最小単位まで分解され、周囲の様々なものと結びつくことでその都度変異するんです。変異した瞬間、気分やつぶやきのかたちで、「わたし」が現れては瞬時に消える。その様態を、古井さんは繰り返し書いておられました。」

「山﨑/作中には詩も短歌も随筆もないまぜに存在しています。短歌における作中主体の「わたし」とはそもそもフィクションで、そこに作者が認識している作者自身などありません。短歌でいうところの写生にしても、実際に三本のコカコーラの瓶があったとしても、一本だけあると詠んでも構わない。それはフィクショナルな自己認識であり、「わたし」を書きながら「わたし」を書かない。「わたし」への懐疑が常にあるんです。そもそも「わたし」は、他者からのことばや他者の記憶といった、授けられたものによって形作られているのだから、自分が勝手に所有できるものではない。結局「わたし」を書くとは、他者をどう書くかへの挑戦ということになります。「わたしはこう思う」と言ってもそれは、根本的には他者のものだということです。どちらへ向かっても、「わたし」という他者をどう書くかに行きつくだろうと考えていました。」

◎山﨑 修平(やまざき・しゅうへい)
1984年東京都生まれ。詩人・文芸評論家。2017年、第一詩集『ロックンロールは死んだらしいよ』で中原中也賞候補・小熊秀雄賞候補、20年、第二詩集『ダンスする食う寝る』で第31回歴程新鋭賞を受賞。

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