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カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている』・中村元『龍樹』

☆mediopos-2560  2021.11.19

量子論と東洋思想といえば
思い出すのは吉福伸逸・田中三彦訳の
フリッチョフ・カプラ『タオ自然学』(1979/工作舎)で

タオイズムの陰と陽に
粒子と波動性の相補性を重ね合せ
踊るシヴァ神に素粒子のコズミックダンスを見るという
いわばニューサイエンスの走りでもあったが

『世界は「関係」でできている』は
ニューサイエンス的なスタンスではなく
物理学者の視点で語られた
詩的にさえ感じられる量子論的世界観である
このカルロ・ロヴェッリはこのmedioposでもご紹介した
(mediopos-1754 2019.9.4)
『時間は存在しない』の著者でもある

本書は同じ東洋思想でもタオではなく
「関係」ということから
量子力学の特徴である「状況依存性(コンテクスチュアリティ)」が
ナーガルジュナ(龍樹)の「空」の思想に重ねられている
「あらゆるものを関係という観点から考える」ということだ

「空」(śūnyatā シューニャター)とは
「事物は、自律的な存在でな」く
「ほかのもののおかげで、ほかのものの働きとして、
ほかのものとの関係で、ほかのものの視点から、存在する」こと
すべては固定的な「実体」がなく
関係性において成り立っているということである
「諸法無我」つまり「我は存在しない」というのも
実体的な意味での「我」が存在しないということだ

けれどそれは懐疑主義というのではなく
ニヒリズムというのでもない
あらゆる現象・存在は「相互依存」によって成立」し
その根源に「絶対的な存在」をつくらないということである
むしろそのことによって
「自由」や「遊び」の可能性を豊かに広げ得る観点ともなる

さてここからは本書から少し離れるが
ナーガルジュナ(龍樹)の「空」の思想あたりから
いわば大乗仏教が展開してくる

その後説かれる大乗仏教の基本ともなる
『大乗起信論』では「如来蔵」思想が説かれ
そこにはある種の「実体」が認められ
それはほんらいの仏教ではないとされたりもする

霊的世界観においても
地上世界は仮象の世界であり
霊的世界が実相であるととらえられたりもするが
おそらく根源には「関係」さえ存在しない「一」があり
そこから関係のはじめである「二」あるいは「三」が生まれ
そこからいわば階層的に世界が展開してきた
ととらえることもできる

つまり地上世界も霊的世界も
「状況依存性」ということに変わりはないが
それぞれの階層には仮象としての「実体」が存在し
階層間における関係性も含め
それらの仮象の関係性によって
世界は現象しているととらえることができる

すべては「関係」において成立し
絶対的な確かさ・実体は存在しないものの
仮象存在が多次元的に遊戯しているということだ

一切は空であるが
そこでいかに自由であり得るかというのが
仮象としてであっても「我」の遊戯だとはいえないか

さて「ナーガルジュナ(龍樹)」については
あらためてとりあげることにしたい

■カルロ・ロヴェッリ(冨永星訳))
 『世界は「関係」でできている/美しくも過激な量子論』
 (NHK出版 2021/10)
■中村 元『龍樹』 (講談社学術文庫 講談社 2002/6)

「量子力学の中心となるこの特徴は、専門用語では「状況依存性(コンテクスチュアリティ)」と呼ばれている。
 あらゆる相互作用から解き放たれて孤立した対象物自体には、特段の状態はない。せいぜいその対象物が一つのやり方で、あるいは別のやり方で発現するかもしれないという、一種の確率的傾向があるにすぎない。ところがその確率さえも、未来の現象の予測や過去の現象の反映でしかなく、常に別の対象物に対しての相対的なものなのだ。
 こうしてわたしたちは、きわめて過激な結論に至る。この世界は属性を持つ実体で構成されているという見方を飛び越えて、あらゆるものを関係という観点から考えるしかない。
 思うにこれが、量子とともにあるこの世界についての、わたしたちの発見なのだ。」

「わたしとその文献との出会いは、決して偶然ではなかった。量子とその関係論的な性質について話していると、よく「ナーガルジュナ(龍樹)は読んでみた?」と訊ねられたのだ。」

「ナーガルジュナは二〜三世紀の人である。」
「ナーガルジュナの著作の中心となっているのは、ほかのものとは無関係にそれ自体で存在するものはない、という単純な主張だ。この主張はすぐに量子力学と響き合う。」
「何ものもそれ自体では存在しないとすると、あらゆるものは別の何かに依存する形で、別の何かとの関係においてのみ存在することになる。ナーガルジュナは、独立した存在があり得ないということを、「空」(śūnyatā シューニャター)という専門用語で表している。事物は、自律的な存在でないという意味で「空」なのだ。事物はほかのもののおかげで、ほかのものの働きとして、ほかのものとの関係で、ほかのものの視点から、存在する。(…)ナーガルジュナは、雲も、空も、感覚も、考えも、わたし自身の頭までもが、同じように別のものとの出合いから生じているという。それらはすべて、空っぽな存在だ、と。
 ではこのわたし、空の星を見ているわたし自身は存在するのか。いいや、わたしも存在しない。では誰が星を見ているのか。誰も見ていない、とナーガルジュナはいう。星を見るということは、わたしが慣例に従って「自分」と呼んでいる相互作用の集まりの一構成要素なのだ。「言語が分節化しているものは存在しない。心の及ぶ範囲は存在しない。」わたしたちがいるということの芯になる本質、理解すべき謎に包まれた究極の本質は、存在しない。「わたし」は、互いに連絡し合う膨大な現象が構成する総体でしかなく、それらは互いに依存し合っている。かくして、西洋における何百年にもわたる主体や意識の本質を巡る思弁は朝霧のように消えてしまう。」

「この世界は錯覚であるよいうこと、つまり輪廻は仏教の普遍的なテーマで、それが錯覚だと悟ることで涅槃、すなわち解放と私服に到達する。ナーガルジュナによれば、輪廻と涅槃は同じであり、いずれもその存在は空である。つまり、存在していなかった。
 ということは、空だけが実在するのだろうか? 結局のところ、それは究極の実在なのか。いいや、そうではない。ナーガルジュナはとりわけめまいのしそうな章で、そう断言する。いかなる視点も別の視点と依存し合うときにのみ存在するのであって、究極の実在は金輪際存在しない、と。これはナーガルジュナの視点自体にいえることで、空でさえも本質をもらない。それは慣習的な形式であって、いかなる形而上学も生き延びることはできない。空は空なるものなのだ。」

「ナーガルジュナの思想の魅力、それは現代物理学の問題にとどまるものではない。その視点には、どこか目のくらむようなところがある。しかもそれは、古典であれ最近のものであれ、西洋のさまざまな哲学の最良の部分とみごとに共振する。ヒュームの徹底的な懐疑主義と響き合い、ウィトゲンシュタインによる難問の覆いを剥ぐ作業と共鳴する。それでいて、あまたの哲学が落ち込む罠----いずれにしても結局は説得力に欠けることが判明してしまう出発点を仮定するという罠----に嵌まっていないように見える。ナーガルジュナは、現実の複雑さや理解の可能性について語りつつ、わたしたちが概念のうえでの究極の基礎を求めるという罠に落ちるのを防いでくれるのだ。
 ナーガルジュナの視点は、決して形而上的な奇想の産物ではなく、むしろ中庸である。そこには、あらゆるものの究極の基礎を問うことはまったく無意味だ、という悟りがある。
 だからといって、探索の可能性が閉ざされるわけではない。むしろ逆で、自由に探索できるようになる。ナーガルジュナは、この世界には実体がないとするニヒリストではなく、自分たちは現実について何も知り得ない、とする懐疑主義者でもない。現象の世界こそが、探索し、じょじょに理解を深めていける世界なのだ。わたしたちは、その一般的な特徴を見つけることになるかもしれない。だがそれは、あくまでも相互依存と偶発的な出来事の世界であって、そこから「絶対的な存在」を引き出そうとするべきではない。
 何かを理解しようとするときに確かさを求めるのは、人間が犯す最大の過ちの一つだ、とわたしは思う。知の探求を育むのは確かさではなく、根源的な確かさの不在なのだ。自分たちが無知であることを鋭く意識するからこそ、疑いに心を開いて学び続け、よりよく学ぶことができる。それこそが、一貫して科学的な思索----好奇心と反抗と変化から生まれた思索----の力だった。哲学にも方法論的にも、知の冒険の碇を下ろすことができるもっとも基本的な、あるいは最終的な定点は存在しない。」

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