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松村圭一郎「旋回する人類学⓱病むこと、癒やすこと(2)」

☆mediopos2785  2022.7.3

なぜなのか

因果関係を
どのように説明するか

科学は科学の範囲で
因果関係を説明する
そして往々にして
それ以外の因果関係を認めない

なぜ病気になるのか

「科学としての医療は、人間の身体を自然の生態現象とみなす。
だから身体の異変である病気に対して、
それを引き起こす自然の原因が探し求められる」

そして「それ以外の因果関係の説明は
「迷信」や「誤解」として扱われる

そうした「迷信」や「誤解」とされるもののなかに
「呪術的思考」による治療もあるが

イギリスの人類学者メアリー・ダグラスは
「社会的身体と生理的身体との関係を論じ
「病むことと癒やすこと。
それはつねに自然と文化の交わりのなかにある」としたように
病気は文化的なものでもあるのだ
いわゆる「未開社会」とされる社会のなかには
それに応じた病気と治療がある

医療人類学の先駆者として
その分野を牽引してきたアーサー・クラインマンは
医療人類学と通文化研究は
「生物医学とはまったく異なるかたちで
病気とヘルス・ケアをあらたに概念化していくだろうと」し

「生物医学的な還元主義と技術への固着は、
ヘルス・ケアの問題をうまく理解も処理もできない」
「医療専門職による病気の概念化は、
象徴的ネットワークである「病い」の理解には無力である」

「医学、精神医学、公衆衛生の専門家は、
自分たちの重大な限界を認めて、
職業上要求している権利を大幅に縮小すべきである」
という大胆な発言をしている

実際「「生物医学的な還元主義と技術への固着」は
病理学的概念である「疾病」(didease)には有効でも
文化的概念である「病い(illness)」に対しては無理解なのだ

事は病気ばかりではない
病気にかぎらず因果関係は
物理的な因果関係だけで説明することはできない
そこには文化的背景や個人的な関係性の「場」
そこで生まれるさまざまな心理なども深く関係してくる

心理療法でもよく使われるたとえだが
親しい人が交通事故などで亡くなったときなど
「あの人はどうして死ななければならなかったのか」
という問いかけに対して
車にぶつかったからだというのは
答えたことにはならない
それにもかかわらず
科学的と称する見地からはそれ以外の答えは得られない

科学にもほんらいは
その背景に文化的要素はあるのだが
それが存在しないかのような
普遍的な認識として因果関係を説明しようとする
けれど科学が魔術から生まれたように
それもまたひとつの「呪術」であるとして
とらえてみることもできる

そうすることで
因果関係を多視点的多次元的なものとして
探求する可能性がひらかれるのではないだろうか

■松村圭一郎「旋回する人類学⓱病むこと、癒やすこと(2)」
 (群像 2022年 07 月号/講談社 2022/6 所収)
■クロード・レヴィ=ストロース(大橋保夫訳)
 『野生の思考』(みすず書房 1976/3)

(松村圭一郎「旋回する人類学⓱病むこと、癒やすこと(2)」より)

「なぜいま私が病を患うのか。不幸に見舞われるのか。病気や災害など、人間が災いの原因を自問し、思い悩むのは、医療や科学が発達した現代でも変わらない。この原因論/災因論は、人類学の主要なテーマのひとつになった。

 アフリカのアザンデ社会を調査したエヴァンズ=ブリチャードは、不幸の原因を妖術に求める態度に、ある種の「哲学」を見いだした。それは、不可知の自然現象を人間が介入しうる説明可能な出来事に変える。レヴィ=ストロースは『野生の思考』(一九六二年)のなかで、エヴァンズ−=ブリチャードの文章を掲げ、ユベールとモースの言葉を引きながら、呪術と科学を次のように対比させている。

 (※以下、引用)
  呪術的思考とは「因果性の主題による巨大な変奏曲」なのであって、それが科学と異なる点は、因果性についての無知ないしはその軽視ではなく、むしろ逆に、呪術的思考において因果性追求の欲求がより激しく強硬なことであって、科学の方からは、せいぜいそれを行きすぎとか性急とか呼びうるにすぎないのではなかろうか?

 病院の医者は病気の診断はしてくれても、なぜいま私はそうなったのか、説明してくれない。原因がわからないことが人を不安にさせる。どこでどう間違ったのか、何が悪かったのか。いまなお私たちはその答えを必要としている。」

「科学としての医療は、人間の身体を自然の生態現象とみなす。だから身体の異変である病気に対して、それを引き起こす自然の原因が探し求められる。それ以外の因果関係の説明は「迷信」や「誤解」となる。病むことと癒やすことをめぐって、この点がくり返し論点となってきた。

 そもそも人間の身体とは何か。イギリスの人類学者メアリー・ダグラス(一九二一−二〇〇七年)は、『象徴としての身体』(一九七〇年)のなかで、身体を象徴表現の視点でとらえ、社会的身体と生理的身体との関係を論じている。身体の生理的経験は、社会的範疇に限定されながら、社会に対する見方を支える。この二つの身体経験のあいだには意味の交流があり、それぞれが互いの範疇を補強している。

(・・・)

 ダグラスは、この二つの身体の結びつきが狩猟採集民から高度に産業化した国民にも等しくあてはまると論じた。病むことと癒やすこと。それはつねに自然と文化の交わりのなかにあるのだ。」

「一九七〇年代、病気とその治療というテーマは重要な人類学の研究領域となる。あらたに誕生した「医療人類学」の教科書もこの時期に刊行されている。代表的まな著作がジョージ・M・フォスターとバーバラ・G・アンダーソンの『医療人類学』(一九七八年)だ。フォスターらは、医療人類学を大きく生物医学的研究と社会文化研究の二つの流れのなかに位置づけ、それらを統合的に論じようと試みた。もともと自然人類学では、進化における生態学的な適応戦略として病気と身体機能の関係を研究してきた。一方、「未開社会」を対象にした古典的な民族誌の研究は、呪術などの文化的な視点から病気をとらえてきた。

 フォスターらは、生物学的適応と社会文化的適応の両側面にふれたうえで、どの社会に、医療システムがあり、それらを通文化的に比較研究する意義を強調している。そして医療システムの普遍的構造をあきらかにしようとする。たとえば、どんな医療システムの普遍的システムにも少なくとも患者と治療者がいて、病気の原因となる因果関係や治療技術についての知識体系(疾病論システム)とその知識を患者の治療や支援に役立てようとする社会制度(ヘルス・ケア・システム)がある。非西洋社会では伝統的な疾病原因論が残ってきたのに対し、西洋社会では疾病の原因を科学に求める傾向が支配的だ。それでも文化と無関係ではない。アメリカでは病気が細菌やウイルスによってもたらされると考えられている。病気を実験室や臨床での検査によって確証される生物学的にな病理状態とみなしているのだ。しかし文化的に病気をとらえると、病はまったく違ったものになる。

 フォスターらは、病理学的概念である疾病(didease)と文化的概念である病い(illness)を区別すべきだという。
(・・・)
 欧米でも現代医学だけが利用されているわけではない。アメリカでは、オステオパシー、カイロプラクティック、鍼治療、心霊主義など、さまざまな民間療法が用いられている。治療法を変えることの経済的、社会的、心理的な利益がその負担よりも上回れば、人は科学的根拠を問わずに、あらたな医療システムを受け入れる。フォスターらは、こうして複数の医療システムを比較しながら科学と文化を架橋して論じている。」

「二〇世紀後半、国際的な公衆衛生への関心の高まりのなかで、医学の専門教育に人類学の知見がとり入れられるようになった。フォスターらは、そこで医学と人類学の研究とを統合する道を探ろうとした。それに対し、医学と人類学の明確な差異を協調したのが、医療人類学の先駆者としてこの分野を牽引してきたアーサー・クラインマンだ。
(・・・)
 クラインマンは、医療とはそもそもひとつの文化システムであり、それをヘルス・ケア・システムとして全体論的に研究すべきだと論じた。この視点は、かならずしもフォスターらの議論と大きく異なるわけではない。クラインマンも、医療を通文化的に研究することが重要だと主張している。だが彼は、医療を社会的諸制度と人びとの相互作用のパターンを秩序づける象徴的な意味システムだと考えている。
(・・・)
 クラインマンは、医療人類学と通文化研究は、生物医学との対話の道を開きつつも、生物医学とはまったく異なるかたちで病気とヘルス・ケアをあらたに概念化していくだろうと述べている。
(・・・)

クラインマンの問題意識の根底には、現代の医療専門職が医療分野の支配権を要求し、国家がそれを認めている現状への強い疑念がある。生物医学的な還元主義と技術への固着は、ヘルス・ケアの問題をうまく理解も処理もできない。現状では、社会科学の貢献がなければ、「疾病」でさえ適切に分析できず、医療専門職による病気の概念化は、象徴的ネットワークである「病い」の理解には無力である。とるべき道は、はっきりしている。「医学、精神医学、公衆衛生の専門家は、自分たちの重大な限界を認めて、職業上要求している権利を大幅に縮小すべきである」。

 クラインマンの言葉には、どきりとさせられる。「医療専門職」が経済活動や生活様式にまで口を出すようになった時代にあって、医療人類学はどんな地平を切り拓こうとしてきたのか。次回もつづけよう。」

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