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岡﨑乾二郎「『感覚のエデン』を求めて」(インタビュー)聞き手・山本貴光

☆mediopos2870  2022.9.26

岡﨑乾二郎は
二〇二一年一〇月三一日脳梗塞で倒れ
その後の入院・リハビリで
「脳梗塞の前と後とでは
もはや同じ「私」ではありえない」
という変容を経験しているという

絵も描けるようになり
大学の授業もできるようになり
原稿も書けるようになったのだが
「いままでのように自分がしている、
という感じがしない」のだという

脳梗塞で損傷を受けたのは脳であり
身体自体ではないのだが
身体はいわば「メディウム」で
身体が自発的に活動を生成させていく際
意識が追いかけて観察しながら
後付けで自分の指令を組み立てている
そのズレが強烈に感じられるのだというのだ

さらにはそうした感覚は
「いままでもそうだたんじゃないのか、
という感じもしてき」だとのだともいう

そして「文章を書こうと、絵を描こうと、
自分がつくったかどうかという感覚は
あんまり関係がなくなってしまった」

それに対して
今回のインタビューの聞き手である山本貴光は
「文章にしても、絵画にしても、
「誰々が書いた」とか「自分がつくった」と
衒いもなく言ってしまうのは、
トリックであるというか、不合理である」という

現代のような「作者信仰」の発想では
疑いさえもたず
「私が書いた」「私が作った」
といってしまって恥じないのだが
そういう信仰に溺れないでいる者にとって
ある意味そうした
みずからを「メディウム」としてとらえる感覚は
いうまでもないことなのではないだろうか

もちろんじぶんがそこに深く関わっているわけで
そこに制作者としての個性は深く影響するわけだが
すべての「表現」はじぶんに「訪れる」ものである
その感覚を否定することはできない

さらにいえば
「私」というのが
つねに同じ「私」であるということもできない

それは脳梗塞のような
「システムの外から働きかける」
「不意打ち」などがあるとき
強く意識されることではあるだろうが

常に変わらぬ「私」ではなく
常に新たな「私」であることを
意識することさえできれば
「新しいシステムとして組成、蘇生できるかどうか」
という「可塑性」に向かって
ひらかれていることができる

現代は「私が書いた」「私が作った」
という自我病のような状態が極めて多く見られる
もちろんそこに責任は生まれるとしても
その病から自由になり得る新たな身心を
育てていくことは非常に重要なことではないだろうか

■岡﨑乾二郎「『感覚のエデン』を求めて」
 (インタビュー)聞き手・山本貴光
 (6月10日、岡崎氏宅にて収録)
 (文學界(2022年10月号)文藝春秋 2022/9 所収)

「山本/今日は岡崎さんが昨年上梓された『感覚のエデン 岡﨑乾二郎批評先週vol.1』(亜紀書房)を中心に、岡崎さんがこれまで続けてこられた美術さくくひんの制作と批評についてお話できればと思っています。実は二〇二一年十一月五日に、公開のオンラインイベントで『感覚のエデン』について岡崎さんと対談をする予定だったのですが、岡崎さんがフランスでの個展から帰国した直後の一〇月三一日に脳梗塞で倒れられたため中止となりました。まずはじめに脳梗塞とその後の六カ月のリハビリによる身体の変化を経験されて、岡崎さんの感覚や認識がどのように変容したのかをうかがえないでしょうか。

(・・・)

岡崎/そのあと半年の入院を経て、予想をはるかに超えて劇的に恢復することができ、まだまだ不自由とはいっても退院してこうして生活しているわけですが、その間の経験を言葉にするのがむずかしい。むずかしいのは経験をした自分が同じ自分として連続しているという確信が持てないからだと思うのです。この期間の時間がまったく別の時間として感じられる。時間が飛んでしまっている。恢復したと感じることは、以前の自分の意識を復元し、つまり再び仮構して、それに身心を適合させるということかもしれませんが、するとこの期間(まだまだ続いているのですが)に起こった決定的な体験を覆い隠してしまうような感じがします。端的に怖い。山本さんの質問に答えるとすれば、変容というか、いちばんの違いは、脳梗塞の前と後とではもはや同じ「私」ではありえない、同じ「私」であると感じるのはそれ自体が錯誤なのではないか、間違っている、いや、いけないことなのではないか? そんな感覚的抵抗があります。」

「岡崎/そもそも脳梗塞で損傷を受けたのは脳であって身体自体ではない。身体は無傷で残っていて、身体自身他その運動機能を保存、つまりなんらかのイメージとして保持、記憶しているはず。それと脳が切断されてしまった。そのとき、いままで脳が「自分の」と思い込んでいた身体をいかに間違って歪曲して認識していたかをはっきり悟らされます。リハビリで教わったのはこのことでした。身体の諸部分は連携していて、その身体諸部分の連携した動きは、脳との回路が切断あるいは弱くなっても、身体にプログラムされて回路として残されている。いわば身体が覚えている。脳から考えると、脳からの指令がいかなくなって反応しなくなった、自由にならなくなった身体ですが、その不随意の身体自体の反応を受け入れ、学ぶというか。美術教育を実践してきた考えに基づいていえば、身体はいわばメディウムです。それが持っている特性、プログラムを知って、それを脳に改めて回路として実装しなければならない。そうは簡単ではなく実際は絶望的状況に日々直面させられましたが、美術をやってきた経験があったおかげで、このメディウムとなった自分の身体を楽観的に受けとめることができたのかもしれません。

絵が描けるようになった。また入院二ヶ月後にはオンラインで病室から大学の講義もできるようになった。原稿もスピードは遅いけれど書けるようになった。けれど何かいままでのように自分がしている、という感じがしないんですね。意識が離れている。自分で自分についていけてない。おそらく脳を含めて身体が自発的に活動を生成させていくのを、意識が追いかけて観察しながら、後付けでそのプロセスを自分がやったと、自分が指令したと理解している。つまり後付けで自分の指令を組み立てている。自分がやった、作ったという感覚は遅れてくる。そのズレが強烈に感じられるんですね。しかし入院しているうちに、いままでもそうだたんじゃないのか、という感じもしてきました。創作という行為にはこういう認識の遅れがあるものですから。だから、文章を書こうと、絵を描こうと、自分がつくったかどうかという感覚はあんまり関係がなくなってしまった。描くたびに自分の体が描き上げた絵に驚いている。」

「山本/お話をうかがって、もう一つ想起したことがあります。文章にしても、絵画にしても、「誰々が書いた」とか「自分がつくった」と衒いもなく言ってしまうのは、トリックであるというか、不合理である、ということです。現実には、自分の意識だけでなく、無意識や自分で必ずしも統御できない身体、さらには身体を通じて外部から入ってくる各種の知覚や変化が渾然一体となって、文章なり絵画なりが生成されているはずです。でも、環境が私を通してさせているとも言えるような、思考や行動が生成されるそうした過程をうまく記述する言葉や論理を私たちはまだ以ていないのかもしれない。そこで。「誰々がつくった」とか「私が書いた」とつい言ってしまう。近代の作者という見方や著作権をめぐる法体系はそのような思考法に基づいてできていることもあり、ともすると私たちはなかなかその枠組みの外にあるような思考をしにくい。」

「岡崎/結局、可塑性とは、世界を物理的に破壊するような暴力ではなく、脳が自分自身の脳を破壊するような暴力を受け容れて、それを積極性、能動性に転化できるかどうかにかかっているのだと思います。その暴力を受け入れ、自らの意志へ組み込むことができるかどうか、新しいシステムとして組成、蘇生できるかどうかが可塑性ということですよね。自分の思い込み、既得の概念を破壊し、修正することは反省や内省からもたらされるとされていますが、けれど反省や内省では自分は破壊されない。力はシステムの外から働きかけるから有効だったわけで。

山本/自分を何に委ねていたのかを見極めながら、自分をどうやって破壊するか。それは可塑性を教育する上で、ほんとに大きな課題だと思います。不意打ちされたとき、それまでの経験から脳に生じた既存の回路だけでは間に合わず、自分で自分をつくり変える過程が始まる。そういえば、プラトンとアリストテレスは師弟揃って「哲学とは驚きから始まる」と言い、ドゥルーズが「思考は不法侵入から始まる」と書いていたのも思い出されます。「なんだこれは」という驚きがあるからこそ、対象が見知らぬものに感じられて、それを知ろうとする探求が始まる、というわけです。さりとれ、これをそのまま伝えても白々しい言葉になってしまう。「さて、ひとつ驚こうか」と構えてすることではないからです。大学では哲学を担当していることもあり、この頃は、こうした驚きや不意打ちについて、どう伝えられるかと考えています。

岡崎/そもそも不意打ちは突然やってくるものなんだから(笑)、どうしたら不意打ちされるかを考えるのは。どうやったらストローク、つまり脳梗塞になれるのか考えるようなもので、かなり倒錯していますね。冗談にはできません。実際に、いま不意打ちが現れていないにしても、その可能性は確率的には、すでに高く存在していたのだから、今は顕現していない不意打ちが、その何%かの確率ですでに存在している現実を実感対処できていることが大切なのでしょう。僕もそうしているべきだったと強く反省しています。」

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