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伊藤 亜紗『体はゆく/できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』

☆mediopos2942  2022.12.7

「体」は不思議だ
どんなに意識的になにかをしようとしても
「体」は意識の境界線を
はるかにこえて「奔放」に働く

本書では五人の科学者/エンジニアの
先端研究による先端的な研究を通して
技能習得のメカニズムからリハビリへの応用まで
「できなかったことができる」ようになる
「体の冒険」についてさまざまな示唆がなされているが

それらはテクノロジーの視点からというのではなく
「体の側から論じ」「体の身になって考え」られている

本書の最初には
「けん玉できた!VR」が紹介されている
このトレーニングは
バーチャル空間でけん玉をあやつるもので
このシステムを体験した一一二八人のうち
九六・四%にあたる一〇八六人が五分程度の練習で
リアルな空間でもけん玉ができるようになるという

「けん玉を体験する」だけではなく
じっさいに「できるようになる」のである

そのことが示しているのは
「リアル」と「ヴァーチャル」のあいだには
たしかな境界はなく
「体」は「ヴァーチャル」から「リアル」へと
境界を「ユル」く侵犯し漏れ出てくるということだ

だれでも経験していることだけれど
たとえば自転車に乗る練習をするときなども
乗れるようになることは
意識的にというよりは
「体」がそのコツを覚えるということである

そのように
「できなかったことができるようになる」とは
「意識が体に先を越される、という経験」であり
「意識はあとから遅れてついていってい」る

「できる」とは「自分の輪郭が書き換わることであり、
それまで気づかなかった「自分と自分でないもののあいだの
グレーゾーン」に着地すること」なのである

著者の伊藤亜紗はこれまで
障害や病気とともに生きる方にとっての
「むしろ「できないこと」が生み出す可能性や、
その体と付きあうために当事者の方が編み出す工夫」に
興味をもってきたが

本書で紹介されているような
「できないこと」を「できるようにする」理工系の研究もまた
「「できない」を通して私が見出そうとしてきた
「思い通りにならないからこその可能性」と
実は同じものだった」ということに気づく

あらためて考えてみると
「体」における
「リアル」と「ヴァーチャル」の境界がグレーであるように
「意識」においてもまた
対象意識と対象を超えた意識そして夢の意識
さらには意識化あるいは超意識など

「意識」においても
意識化「できなかったことができるようになる」ような
そんなグレーゾーンがあることがわかる
「超感覚的世界の認識を得る」というのも
そうしたグレーゾーンの先にあるものだ

■伊藤 亜紗
 『体はゆく/できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』
 (文藝春秋 2022/11)

(「プロローグ:「できるようになる」の不思議」より)

「体は、私たちが考えるほど「リアル」なものでしょうか。」

「バーチャル空間で体験したことも、それがいかに現実には「ありえない」ことであったとしても、何ら遜色ない「経験値」として蓄積され、リアル空間で行為する私たちのふるまいを変えてしまう。しかも「リアルではない」と頭で分かっていたとしても、体はそれを、いわば「本気」にしてしまうのです。
 ここにあるのは、私たちがどんなに意識して「リアル」と「バーチャル」のあいだに線を引こうとも、その境界線をやすやすと侵犯してもれ出てくるような体のあり方です。体は、私たちが思うよりずっと奔放です。「え、そんなことしちゃうの!?」と驚くようなことがいっぱい起こる。体は「リアルなもの」と言えるほど、確固たるものではありません。体はたいてい、私たちが意識的に理解しているよりも、ずっと先に行っています。
 その「奔放さ」は、ときにあぶなっかしく見えることもあります。だって、リアルとバーチャルの区別ができないということは、「だまされている」ということに他ならないのですから。頭では違うと分かっているのに、体はついその気にになってしまう。ある意味で、体はとても「ユルい」ものです。
 でもこのユルさが、私たちの体への介入可能性を作り出します。体がもしも確固たるものであったなら、「けん玉でできた!VR]のようにテクノロジーを用いて、体の状態を変えることは不可能だったでしょう。〝体はゆく〟——体のユルさが、逆に体の可能性を拡張しているとも言えます。

 体のユルさが作る体への介入可能性。病や障害の当事者にとって、この介入可能性は、そのまま介助可能性を意味します。体にユルさがあるからこそ、テクノロジーや他者の力を借りて、「思ってもみなかったところ」に出てしまえる。それは当事者にとっては希望そのものです。」

「本書のテーマは、テクノロジーと人間の体の関係について考えることです。その際、理工系の現在進行形の研究成果を参照しながら、「テクノロジーの力を借りて何かができるようになる」という経験に着目します。」

「本書は「テクノロジーと人間の体の関係」という古典的な問題を扱いながら、かつ、「できるようになる」というごくありふれた場面に注目しながら、これまでとは少し違った視点に立って考えてみたいと考えています。
 少し違った視点とは何か。それは、ひとことで云えば「体の側から論じる」、ということです。「社会的な影響」や「人間的価値への挑戦」といった対極的な視点から論じられやすいこの問題を。ひとつひとつの体の経験というミクロな視点から論じてみたいのです。変な言い方になりますが、それは「体の身になって考える」ということです。
 そもそも、「できなかったことができるようになる」という変化は、体にとっては非常に不思議な出来事です。先にみたけん玉や幻肢痛の例は、どちらもVRというテクノロジーのサポートによって「できなかったことができるようになる」例でした。しかし、そこにテクノロジーの介入がなくとも、「できなかったことができるようになる」という経験は、本質的に魔法のような不思議さを秘めています。
 結論からいえば、私たちは、自分の体を完全にはコントロールできないからこそ、新しいことができるようになるのです。」

「「できなかったことができるようになる」とは、端的に言って、意識が体に先を越される、という経験です。つまり、「できるようになる」の中に、すでに「負け」があるのです。不意にできてしまってから、「ああ、なんだ、そういうことか」と分かる。本書で具体的な事例を通して見ていくように、困難なことができるようになるとき、意識はあとから遅れてついていっています。」

「正直に告白すると、共同研究に参加した当初、私は「できる」を探求することにあまり関心がもてないでいました。長いこと、障害や病気とともに生きる方の身体感覚の調査をする中で、むしろ「できないこと」が生み出す可能性や、その体と付きあうために当事者の方が編み出す工夫のほうに、面白さを感じていたからです。
「できる」「できない」という言葉は、「できる=すぐれている」「できない=劣っている」という価値的な判断と結びつきがちです。確かに、挑戦する機会や探索の可能性を作り出すという意味では、これらの言葉は有効かもしれません。
 しかし、それは同時に、生産性だけで人を評価する能力主義的な風潮を強化したり、マジョリティの基準をマイノリティに押し付けたりする危険をはらんでいます。「できる」「できない」には、単なる差異であるものに価値判断をもちこみ、多様な人をひとつのスケールの上に並べる強制力があります。
 だからこそ、私はこれまで、障害や病気とともに生きている方から、「できないことの価値」を教えてもらうことによって、こうした二分法を相対化しようとしてきました。彼らの言葉は、私たちの想像をはるかに超えるような体の可能性と、合理的には説明がつかないようなその人ならではの固有性に満ちていました。
 ところが、共同研究を通して理工系のメンバーの研究を知るうちに、私は「「できる」も結構面白いな」と思うようになりました。そこに広がっていたのは、「できない」を通して私が見出そうとしてきた「思い通りにならないからこその可能性」と実は同じものだったからです。先述したとおり、「できるようになる」ことの中にも負けがあったのです。
 (…)私がこのような視点に立つことができたのは、これらの研究者たちが、いわゆる昭和・スポ根的な「できるようになる」とは違うものを、工学を通して目指していたからでしょう。「できる」を「体を思いどおりにコントロールすること」などと単純化できるほど、体はシンプルなものではありません。本書に登場する研究者たちは、工学という「対象をコントロールすること」を旨とする学問領域を背景にしながらも、体がもつ底知れぬ可能性と複雑さに対する敬意に満ちていました。」

(「第5章 セルフとアザーのグレーゾーン」より)

「「できる」とは、自分の輪郭が書き換わることであり、それまで気づかなかった「自分と自分でないもののあいだのグレーゾーン」に着地することです。テクノロジーは、人間が探索できるよりもはるかに速いスピードでこのグレーゾーンを探索し、その可能性を人間に提示しています。」

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