塚本邦雄『王朝百首』
☆mediopos-2394 2021.6.6
橋本治が解説で力説しているように
「『王朝百首』は日本国民必読の書である」
日本国民でなくてもいいけれど
日本語を魂の底から働かせようとするならば
そこで働いている言霊を
美しく鑑賞し得ることを避けて
日本語を使い語ることは難くなる
少なくとも『王朝百首』を読み進めはじめると
そのことは切実に実感させられてくる
いかに自分の使う日本語が
拙い響きしか持ちえていないのかと
言葉をただ
説明やコミュニケーションのための道具として
記号的に使おうとするとき
言葉からは言霊の生きた力は損なわれてしまう
塚本邦雄は定家撰と伝えられる
「百人一首」に異を唱え
みずからの目で八代集等のなかから
「それぞれの歌人の最高作と思はれるものを選び直し
「百首に再選して『王朝百首』と名づけ」
「現代人に贈る古歌の花筐」としようとする
塚本邦雄の撰歌の是非は別として
少なくともそこには
有名だとかいう権威とは異なった
すぐれた作品かどうかを基準に選が行われている
「作者名も訳注もすべて虚妄であらう。
真にすぐれた作品はそれらを拒み、
無視して聳え立つものである」というのだ
「私たちは今日まで、いかに作者名に惑はされて
その作品を受け取つて来たことか。これは単に
この王朝和歌に限ることではないのだ。」ともいう
さらにいえばこの徹底呈した態度は
私たちの生きるすべてのことについて言えることだ
私たちの多くは権威や利益や
名前や教えられたことに惑はされて
みずからの態度をとってはいないだろうか
「仏に逢うては仏を殺せ」のように
塚本邦雄は定家をはじめ
みずからが畏敬をもっている歌人達への異論を唱え
それをみずからの撰歌等を通じて
身を以て示してきた歌人である
みずからの内に生きている
言葉や思想やさまざまなものから目を逸らさず
それへの無自覚や盲従ではなく
それらをさらに生かすべく営為を重ねること
そこをすべての出発点にする必要があるのではないか
■塚本邦雄『王朝百首』(講談社文芸文庫 2009.7)
(本文は旧字旧仮名遣いで書かれているが旧漢字は新字体にしてます)
「かつて咲き匂った日本の言葉の花を、今日私たちは果たしてどれほど端しく深く享け綴いでゐるだらうか。国文学専攻の人、あるいは詩歌創作をライフ・ワークとする人人を除いては、恐らく教科書の中で出会ふごく限られた古歌や小倉百人一首かるたを記憶しているのが精精で、忘れるともなく忘れ去り折にふれて懐かしむのみではあるまいか。万葉、古今、新古今、あとは芭蕉に蕪村、晶子、啄木の歌や句のいくつかをくちずさむ人も次第に少なくなつてゆかうとしてゐる。」
「先人撰歌の最も有名なものに『小倉百人一首』がある。定家撰と伝へられるが現在の歌がるたそのものを軽率に直接彼と結びつけられるものではない。ただ別に伝はる『百人秀歌』は明らかに定家撰であり、両者の酷似から推して一般人の鑑賞の際目鯨立てて神経質に論ずるほどのことでもない。九十%彼の意志による選択と見ておかう。あまりにも日本人の間に行き渡り過ぎた感のあるこの百首について、私はかねてから透くなからぬ不満を覚えてゐた。異論を承知で言ふなら、百人一首に秀歌はない。あるとしても稀に混入してゐる程度だ。秀歌凡作の判定基準は現代人の美学を通してなほ詩的価値を持つ作品を言ふ。当時の和歌は勿論古典文学に精通してゐなければ会得不能の故実すなはち帰属や武家の風俗、儀式、週刊をことごとく識り、なほその上に作者の伝記を前提としなければ真に味わひ尽くすことのむずかしい歌もある。しかしその約束を超えてぢかに私たちの心を打ち魂に沁み入る歌、まことに言語機能の精華と呼ぶにふさはしい名作はたしかにあずはずだ。百人一首にはそれが乏しい。理由はいくつも考へられる。第一に天才歌人定家の実作と歌論、撰歌の間にある理念の背反、第二に彼自身の若年から老年にかけての作歌、評論基盤の推移、第三に小倉山荘の襖を飾る二枚一対の色紙としての人選、配列の面白さが、作品の価値そのものよりも優先すること、それらが微妙複雑に原因しているのだ。」
「いづれにより多く魅了されるかは観賞者の資質、志向によって異なるだらう。私はあへて独断を避けず、私自身の目で八代集、六家集、歌仙集、諸家集、あるいは歌合集を隈なく経巡って、それぞれの歌人の最高作と思はれるものを選び直し、これを百首に再選して『王朝百首』と名づけてみた。私の久しい願ひの一つであり、現代人に贈る古歌の花筐である。
これに飽きたりぬぬ人は自身でぢかに古典を渉猟し、別の私撰詞華集を編むのも面白い趣向であらう。花筐は一つで尽きるものではない。定家とも私とも観点を変へ、また時代を近世、近代、現代に移して三百、五百、一千の巨きな花籠を編み出すならば、日本の詩歌の全貌はより明らかにならう。現代人には不当に無縁の状態で放置されてゐた伝統文学の血脈は、この時春の潮のやうにいきいきと私たちの魂に甦ってくる。一首のうつくしい歌とはかうして次元を隔てた人と人との交感のなかだちとなり、未来にむかつて生き続けようとするのだ。古典は学生が教科書の中で無理矢理に対面を強ひられたちまちに別れる不可解な呪文でも、専門家が独占して研究の対象に腑分けを試みるためにあるものでもない。日本語を愛し憎み、これから終生離れ得ぬ私たちの、今日のため、否明日のために存在するものであり、心ある人の手で呼び覚まされる時を待ちわびつつ霞の奥で眠つてゐる。」
「私はこの王朝百首を、異論を承知の上で、あくまで現代人の眼で選び、鑑賞した。権威の座を数世紀にわたつて独占した趣の百人一首にことごとく反発を示した。私の撰びこそ、古歌の真の美しさを伝へるものと信じての試みに他ならぬ。単に晩年の定家の信条に対する弾劾の志ばかりではない。資質、才能、業績にふさはしからぬ作品を以て代表作と誤認されてしまった各歌人の復権、雪辱の意も多分に含めたつもりである。
さらに言へばこの百首は訳も解説も蛇足であり、任意の時、任意の作品を、自由に吟誦して楽しむのが最上の鑑賞である。難解な用語は、もし必要ならば古語辞典一冊を座右に置けばおのづから解けよう。さうして、歌自体のうつくしさに陶然とすることのできる読者には、もはや作者名さへ無用である。
百首の選択に臨んでの配慮に今一言を加へるなら、私への不如意は、あるいは口惜しさは、読人知らずの作を加へ得なかったことである。古今集は作者不詳の恋歌を除いては甚だしくその価値を減じるだらう。もし王朝に奈良朝を加へたとするなら、万葉はこの場合どうなつたらう。歌は作者名によつてその美を左右されることは決してない。作者名によつて陰影を深め、あるいは享受者の第二義的な欲求を満たすことはあらうとも、それ以上の何かを附加し得ると考へるのは幻覚に過ぎまい。私たちは今日まで、いかに作者名に惑はされてその作品を受け取つて来たことか。これは単にこの王朝和歌に限ることではないのだ。
作者名も訳注もすべて虚妄であらう。真にすぐれた作品はそれらを拒み、無視して聳え立つものである。逆に言へば、その絶唱、秀吟は、おのづから作者に、唯一人の小宇宙の中に浮び、その背後には彼を生かしめた時間と空間が透いて見えるはずである。詩歌にそれ以上のいかなる要素を求めようといふのか。
私がこの後選ぶとならば、記紀から現代に到るあらゆる詩歌の中からのみづから発光することによつて享受者を誘ふ無名の、あるいは名を消し去つた、日本人の魂の糧ともなるべき詞華一千であらう。」
( 解説 橋本治「美しさの本」より)
「敢えて言うならば、『王朝百首』は日本国民必読の書である。現代がどうであれ、和歌が日本文化の中心に根を下ろして、日本文化のメンタリティを作り上げたことだけは、動きようがない。この本は。その和歌がいかなるものであるかを明確に説く、啓蒙の書なのだ。そのことは、序文である「はじめに」で詳細に語られている----。」
「序文というものは時として「形ばかり」で、書かれる本の内容を直接的に訴えたりはしないものである。しかし、『王朝百首』のそれは、その先に続く本文の書かれた意図、方向、目的が明確に記されている。『王朝百首』は、その序文で説かれるままにある本なのだ。だから私はこれを引いて、「日本国民必読の書」と言う。それを言わなければ、この本を書いた人に申し訳が立たない。」
「私が知りたがっていた「和歌とはなんなのか?」の答は、ただ「美しいもの」というだけのことである。「人生に関する云々」などというものは、その後でいい。まず、なんだか分からなくても、「美しい」ということを実感させて耳に飛び込んで来る。目から飛び込んで来て、耳に訴えかける。「人生云々」は、その後でいいのだ。和歌というものがただ「美しい」の一語で表されるものであることは、本書の跋文である『をわりに』に明確に記されている----。」
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