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鈴木健『なめらかな社会とその敵――PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』/対談 鈴木健+森田真生「「分断」の時代にこそ、「理想」を語ろう」

☆mediopos-3035  2023.3.10

理想を語ること

「現実」という
目の前に立ちはだかる困難と絶望のために
たとえ今はそれが愚かなものに見えたとしても
理想を語ることを忘れたとき
人間は未来を失うことになるだろう

鈴木健『なめらかな社会とその敵』は
文庫化された昨年の秋以来
少しずつ読み進めてきてはいたが
(その考え方はよく伝わってくるけれど
決して読みやすいとはいえないので)

「新潮」の4月号に
著者の鈴木健と森田真生による対談が掲載されていて
そのタイトルが
「「分断」の時代にこそ、「理想」を語ろう」
となっていたこともあり

『なめ敵』で語られている
そのはるかな?
熱い「理想」についてとりあげることにした

鈴木健は『なめ敵』のはじめに
「この複雑な世界を、複雑なまま生きることはできないのだろうか。」
という問いを掲げている
それは「他者を他者として受け入れたまま生きていくこと、
すなわち他者の他者性を認めて生きること」である

そのために(対談の森田真生の言葉を使えば)
「人間の社会的な行動を根底で制約しているこうしたパターンのうち、
極めて根本的なもののいくつかを、数百年ぶりに見直し、
書き換え、考え、作り直し」
「具体的には、貨幣、民主主義、さらには法や軍事など、
社会のコアにある諸制度について深く「考える」ことを通して、
こうした制度すら変化させることが可能なのだということを示し、
具体的な制度設計の提案」をしているのである

しかしながら「深く社会に浸透してしまった
習慣や制度を変化させるのは」極めて難しい
極めて難しいにもかかわらずだからこそ

鈴木健は「300年後の社会」へ向けて
その「理想」であり「構想(vision)」を
「なめらか」という言葉に託して語る

「なめらか」というのは
たとえば自分と他者の関係でいえば
その両者が分断されているのでも
その区別がなくフラットになっているのでもなく
「分かれているんだけれど、繋がっている」という在り方であり

それは「世界を二項対立によって把握するのではなく、
あらゆるものがその中間的なものとしてある」ように
日々変化しつづけるなかで
そうしたあり得べき理想への変化を促すことである

鈴木健は「理想には、二つの種類がある」という
「誰にとっても理想的な社会がある、
だからそれを実現しましょう、というタイプの理想」
そして「誰にとっても理想的な社会なんてないのだから、
様々な社会が共存できるようにするにはどうすればいいか、
と考えていくような理想」

前者の理想は
「唯一正しい社会制度」を求めるものであり
「この複雑な世界を、複雑なまま生きること」へは繋がらないが
後者の理想は「他者の他者性を認めて生き」られるような
そんな「なめらか」な変化のなかで他者との共存を模索する

おそらく現代は
前者を無理に力によって作り出そうとするがゆえに
「分断」がつくりだされてしまっているのだともいえる

「なめらか」に
後者の理想へとむかって歩んでいくためにも
『なめ敵』の「構想(vision)」は今こそ一読の価値がある

■対談 鈴木健+森田真生「「分断」の時代にこそ、「理想」を語ろう」
 鈴木健著『なめらかな社会とその敵』を軸に、<300年後の社会>を想像し、希望を問う。
 (「新潮2023年04月号」 新潮社 2023/3 所収)
■鈴木健『なめらかな社会とその敵 ――PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』
 (ちくま学芸文庫 筑摩書房 2022/10)

(「対談 鈴木健+森田真生「「分断」の時代にこそ、「理想」を語ろう」より)

「森田/「考える」とはそもそもどういうことなのか。このことについて、19世紀の後半から20世紀にかけて、アメリカで活躍した哲学者で数学者でもあったチャールズ・サンダー・パース(1839−1914)という人が、とても重要なことを言っています。ひとことで言うと彼は、考えること、あるいは思索(inquiry)をすることは、究極的には「習慣(habit)」を変化させることだ、と論じたのです。
 ただ頭で概念をこねくり回したり、言葉を弄んだりするだけが思索なのではなく、最終的には、行為のレベルにおいて、それまで固着していた習慣に変化をもたらすことこそが思考なのだ、と。つまり、「考える」という行為は、究極的には、自分がずっと依存し続けてきた不合理な習慣から離脱していく、あるいは、別の習慣を作り出していくことに向かっているのですね。
 哲学者でもあり、実業家でもある鈴木健さんを紹介するのは簡単ではないのですが、このことを踏まえて言えば、健さんは「考える」ということを、非常に強烈なエネルギーで続けて来られた人だと思います。そして、パースが指摘した通り、「考える」という行為を徹底していくと、最終的には「習慣」が変わっていく。
 習慣と言っても、いろいろなレベルがあります。朝起きたら歯を磨きますとか、人と会ったら挨拶をしますとか、日常的なレベルの習慣もあれば、何かを手に入れたいときにはお金を払います、というような、かなり広く共有されている社会的な大きなレベルでの「習慣」もあります。
 たとえば、国境を越えようとしたらパスポートを見せなければいけない、というのも、僕たちが作り出している習慣の一つと言っていいでしょう。貨幣の使用やパスポートの提示などは、もう少し正確にいうと、社会のなかで繰り返し実現している「行動のパターン」です。(…)経済学において「制度(institution)」と言われている概念と、このことは深く関係してきます。
(…)
 『なめ敵』では、人間の社会的な行動を根底で制約しているこうしたパターンのうち、極めて根本的なもののいくつかを、数百年ぶりに見直し、書き換え、考え、作り直していこう、と提案する大胆で挑戦的な内容を書かれています。具体的には、貨幣、民主主義、さらには法や軍事など、社会のコアにある諸制度について深く「考える」ことを通して、こうした制度すら変化させることが可能なのだということを示し、具体的な制度設計の提案をされている。
 とはいえ、深く社会に浸透してしまった習慣や制度を変化させるのは、生やさしいことではありません。変化を引き起こそうとするとき、これから僕たちはどういう方向に制度を変えようとしているのか、そのことを明瞭な「構想(vision)」として言語化していくことが重要な一歩になる。そのヴィジョンを「なめらか」という一言に集約されている。いわば「なめらか」という一語にこそ、健さんの「理想」が託されていると言ってもいいと思うのですが、あらためて「なめらか」という言葉に込められた思いをお聞かせください。

鈴木/(…)そもそも「なめらか」という言葉を最初から使おう、と決めていたわけではなく。あるときこの言葉が降りてきてしまったんですね。いまでは、自分の世界観と言いますか、ものの見え方というのを一番よく表していると思っています。
 たとえば、自分と他者を切り離して考える、という発想がありますよね。これをもしあえて図示してみるとするなら、ここまでが自分で、ここからが他者であるという、切り立った壁で自他が分断しているような、こういう絵が描けると思います(図1)。こういうのを数学では「ステップ(関数)」と呼んだりするのですが、これは自他の境界が、壁ではっきりと仕切られてしまっている状態です。
 逆に、この壁を完全に解消してしまうと、バリアフリーと言うのか、絵に描くとこんな感じ(図2)で、自他がまっすぐ繋がり、区別が消えてしまう。こういう状況を僕は「フラット」と呼んでいます。
 なめらか、というのは、ステップでもフラットでも、どちらでもない。自分と他者が「分かれているんだけれど、繋がっている」という状態です。数学敵には「シグモイド関数」と言われるものに例えられるのですが、絵で描くとするとこんな感じです(図3)。

森田/これが健さんの思想を象徴する曲線ということですね。

鈴木/はい。「なめらか」と言ったらまずはこの曲線をイメージしてもらうのが直感的にはわかりやすいと思います。世界を二項対立によって把握するのではなく、あらゆるものがその中間的なものとしてあるということ、そしてその状態は、日々刻々と変化しているのです。この変化していくということを表現するためには「なめらか」という時間触覚的な表現がしっくりくるのです。
 よく考えてみると、自分は、常に自分でないものに生かされながら生きています。その意味で、自他というのは切り離せません。腸内にはたくさんの細菌がいますし、一つの思考が生まれるまでには、たくさんの人との対話や交流があります。結局、どこまでが自分で、そこからが自分ではないのかという境界は、そうした生物学的、あるいは生態学的な事実があるにもかかわらず、社会はなめらかではない方向にどんどん向かっている。いままさに、ウクライナでは大きな戦争が起きていますが、国内においても、国外においても、世界の様々な対立構造が急速に顕在化してきている。
 国家という制度も含めて、社会をもっとなめらかにすることができるのではないか、そのためにどうしたらいいのかを考え続けてきた思索の途上に『なめ敵』が誕生した。ただ、僕は「なめらかな社会」がすぐに実現するとは思っていなくて、かなり時間がかかると思っています。だからこそ、当初より「300年後の社会」と言いつづけているのです。明日すぐに実現してしまったら、それはなめらかではなく、急速な変化になってしまいます。ゆっくりと、しかし根本的に社会システムを更新していく。そういうことを考えています。」

「森田/健さんが『なめ敵』で指摘されているように、投票をするときには、周りの環境から切り離された自分というものがあるという前提で、一人一票ずつ、分割不可能な票を与えられる。分割のできない「個人」(individual)という存在が、現代の民主主義の前提としてあらかじめ想定されていますが、近年は科学的にも、こうした分割不能な個人という描像は現実味を失い始めています。その人の内側だけを見るという仕方では、人間を理解することはできない。そういうことが、様々な学問を総合しながら人間像を描こうとするときに、非常に説得力を持った見方として浮かび上がってきているのです。
 にもかかわらず、僕たちはホッブズやルソーの時代に設計された社会制度を、ほとんどそのまま引き継いでいる。ホッブズもルソーも人間の腸内におびただしい数の細菌が棲んでいることは知らなかったし、人間の心がいかに環境に散らばりやすいものであるかを説明する理論も手許になかった。果たしてそのような時代に設計された制度をそのまま無批判に使い続けていいのか。このことを、この本で問いかけられていますよね。」

「森田/ひとたび成立した制度を変えることは非常に難しい。(…)その気になれば、「人々のマインドさえ変えれば」明日にでもすぐに実現しそうなことが、実際には何十年、何百年も変わらない。それはどうしてなのか。不合理な制度を、よりよい制度に変化させることが、どうしてこんなにも難しいのか。
 この問いに答えはないことはわかっているのですが、あえてここで、なぜ制度はかくも変わりにくいのか、そして、不合理な制度を変えるために、最も必要なことはどういうことなのか、ぜひ現時点でのお考えをお聞かせください。

(…)

鈴木/僕はいま右側通行の国(アメリカ)に住んでいて、日本では左側通行なわけですが、右側通行の国と、左側通行の国と、どっちの方がいい国だと思いますか? おそらく、こう聞かれたら、多くの人は、どっちでもいいだろう、と答えると思います。ゲーム理論では、これを「複数ナッシュ均衡」といいます。
 ところが、いったん左側通行になってしまったら、右側を走るのは難しい。自分だけ右側を走ろうとしても、ただ大きな混乱を引き起こすだけです。どっちでもいいはずなのに、いったん決めてしまうと、そうでない行動は取りづらくなる。みんなと別の行動を取ろうとすると、とても生きづらくなる。そういうことが、制度には内在している。
(…)
 制度の優劣を決めるのが難しいもう一つの理由は、制度の善し悪しをはかる物差しが一つに決められないということです。制度を評価するにも、多様な評価軸があり得る。そもそも人間の幸せを一次元の指標で測ることは難しい。だから、何か一つの軸に沿って最適な制度を一つ選ぶということはできないのです。

森田/僕たちは無秩序や混沌のなかを生きることはできないので、ある種の「生きやすさ」を支える足場として制度を必要としているが、常に複数の制度の可能性があるなかで、どの制度が最も優れているかということを決めることはできない。だからこそ、もっと他の制度があり得るのでは、現状の制度では生きづらいのでは、という問いが残されるわけですね。」

「鈴木/社会の仕組みはさまざまなので、善し悪しではなくて、複数の仕組みが共存できるようにするためにはどうすればいいかを考えていく必要がありますい。そうでないと、一つの社会制度に収束していくことが正しいよね、ということになりかねない。それがあまりにも強いよ、唯一正しい社会制度以外の制度は敵である、といふうになってしまう。それは、すごく危険な状態です。
 そういう意味では、理想には、二つの種類があると言えるかもしれません。一つは誰にとっても理想的な社会がある、だからそれを実現しましょう、というタイプの理想。もう一つは、誰にとっても理想的な社会なんてないのだから、様々な社会が共存できるようにするにはどうすればいいか、と考えていくような理想です。

森田/分断の時代にこそ、後者の意味での理想を追求していく必要がありますね。」

(鈴木健『なめらかな社会とその敵』〜「はじめに」より)

「この複雑な世界を、複雑なまま生きることはできないのだろうか。」

「他者を他者として受け入れたまま生きていくこと、すなわち他者の他者性を認めて生きることはできないのであろうか。
(…)
 境界をまたいでリソースや情報が行き来をするようになれば、事態は多少はよくなるかもしれない。だが、そもそも境界自体を消し去り、なめらかな社会がもっていた、世界を単純に観ることによって成立してきた秩序を破壊することに他ならない。複雑な世界を複雑なまま生きることを可能にする新しい秩序、それがなめらかな社会である。
 世界を単純なものとして認識することは、人間のもつ認知的な限界に由来している。したがって、なんらかの技術的な方法によってその限界を突破することができれば、その突破した具合に応じて世界を複雑なまま生きることができるはずである。コンピュータやインターネットの登場は、桁違いに破壊的な突破を現代社会にもたらしつつある。それは、検索やショッピングが便利になるといった利便性だけではない。経済や政治や軍事など社会のコアシステムに本質的な変容を迫る、近代のメジャーバージョンアップなのである。
 本書では、実際に貨幣システム(伝播投資貨幣PICSY)、投票システム(伝播委任投票)、法システム(伝播社会契約)、軍事システム(伝播軍事同盟)という、なめらかな社会を実現するための4つのコアシステムを提案する。
 理想主義は現実主義との戦いに敗れ、私たちは未来への想像力を失っている。国境のない世界を理想の状態として謳い上げても、現実が変わることはなかった。近代社会をどう批判しようとも、懐古主義が現状をわずかに改善し続けることくらいしか、もう私たちには残されていないのではないかという諦めのムードが漂っている。もはや歴史は終わったのだろうか。
 歴史的な閉塞感の中に生きる現代人にとって、本書は希望の書でありたいと願っている。なめらかな社会という近代のメジャーバージョンアップを、読者にとって想像可能なかたちとして描くことができれば、ここに新たな思想が未来への希望を伴って産み落とされることだろう。
 それは、空想的理想主義であってはならない。現実主義に立脚し、生命という存在がもつ業の深い根をどこまでも幌尽くした後に、残されたわずかなかけらを種子として一気に立ち上げるのである。そうして立ち上げた理想は、またしても現実の中で汚れていくことだろう。だが、現実に汚された理想が、何もない現実に比べてはるかに多くを成し遂げたことを、私たちは歴史の中で知っている。
 愚かさを自覚することによってはじめて、人は愚かさが発現しない仕組みの構築に知恵をまわすことができる。真の賢明さは、能力の限界を自覚し、他者を傷つける可能性をもつことを自らが認めることからしかはじまらない。私が本書で提案する内容は、300年後の人々からも結局は愚かだと断定されることになるかもしれない。だが、それでもいくばくかの知的貢献をなすことができれば、本書を書く十分な理由にはなるだろう。」

◎鈴木 健(すずき けん)(プロフィール)
1975年長野県生まれ。1998年慶應義塾大学理工学部物理学科卒業。2009年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は複雑系科学、自然哲学。東京財団仮想制度研究所フェローを経て、現在、東京大学特任研究員、スマートニュース株式会社代表取締役会長兼社長。著訳書に『NAM生成』(共著、太田出版)、『進化経済学のフロンティア』(共著、日本評論社)、『現れる存在』(共訳、ハヤカワ文庫NF)など。

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