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猪木武徳「デモクラシーと芸術」

☆mediopos-2240  2021.1.3

デモクラシーをめぐる論考は
肯定するにせよ否定するにせよ
実質的にはどこかで
破綻してしまうように感じられる
破綻するからといって
その可能性から目をそらすこともできない

ごくごく単純化していえば
量と質にかかわるアポリアだともいえるかもしれない
肯定されようが否定されようが
質が保証されれば危険は回避できるが
そうでない場合はそれなりに危険性が増大する

それは平等と自由の問題でもある
無差別的な平等は質を損なってしまうだろうし
自由が損なわれてしまえばそこに質は生まれないだろう

本論考はデモクラシーと芸術について論じられているが
そのさいごで「調性のない音楽」が
「徹底した平等を謳うデモクラシー」とくらべられ
それが「凡そ自由の精神とはかけ離れた世界」であるとされる

しかし聴衆の量と質という点でいえば
特権的であるとされる「調性のない音楽より」よりも
過剰なまでに流行してしまう音楽のほうをこそ
「徹底した平等を謳うデモクラシー」であるともいえる

芸術性を至上視し
流行性を排するのもひとつの瞥見だろうが
芸術性への無理解から
市場性を至上視しするのも危険な瞥見だろう
そしてそこにも量と質にかかわるアポリアが現れる

事はデモクラシーや芸術だけに関わる問題ではない
あらゆる分野において
量と質にかかわるアポリアをいかに越えて
その危険性を排しながら
質をいかに保持するかが問題となる

そこにはかならず経済の問題が関わってくるので
実際問題としてシュタイナーの社会有機体三分節で
論じられているように
法における平等・精神における自由・経済における友愛という
三分節がバランスさせた社会が必要となるのだろうが
それぞれの分節どうしもまた
三すくみ状態のアポリアを抱えてしまうことにもなる

実質的にいえば
量における質の向上なくしては
結局のところアポリアは回避しがたいだろう
それにはすべてのひとの
自覚的な努力向上が不可避になるのだが
多くは量が増えれば質は忘却されてしまうことになりがちだ

三人寄れば文殊の知恵どころか
増えれば増えるほど知恵は劣化していく
ひとりであることがそこでは成立しがたくなるからだ
すべてのひとがひとりであってこそのデモクラシーであるとき
はじめてデモクラシーはアポリアを越えられるのだろうが・・・・

■猪木武徳「読んで、聴いて、考える デモクラシーと芸術」
 最終回 「調性を失った音楽」が意味するもの――デモクラシーと芸術の運命
 Webでも考える人 2020.12.23 より
https://kangaeruhito.jp/article/29568

「デモクラシーは、物質主義と個人主義(あるいはその堕落した形態としての「利己主義」)に陥らないための補完的な装置がうまく機能すれば、自由と平等を享受しうる政治形態としての価値は大きい。そのためには、地方自治や中間団体の果たす役割は不可欠であるが、「いま、わたし」に関心を集中させがちなデモクラシーにとって、最終的に重要な柱となるのは公共精神だ。その公共精神は、「未来と他者」への想像力を必要とする。それは宗教的感情と同じではないにしても、きわめて近い感情だ。宗教的根拠のない道徳は不確かであり、道徳的なベースを持たない自由は、時に人間社会を脅かす全体主義やポピュリズムを生み出す。
 芸術がわれわれの生活にとって、その精神的な渇きを癒す力を持ち続けるために、そして人々が個人主義の堕落した形の利己主義に退化しないためにも、「いま、わたし」への関心だけでなく、「未来と他者」についての想像力の根を絶やしてはならない。その根を護ることによってはじめて、デモクラシーは全体主義や悪しきポピュリズムへと堕する道を避けることができるのではないか。」

「デモクラシーの「一人一票」という平等原則と「多数者の支配」の機械的な適用は、「美の評価」にどのような問題をもたらすであろうか。平等主義の行き過ぎは、ここでも芸術にとっての危険要素をはらんでいる。絵画の教育において、批判し序列をつけることを避ける傾向はそのひとつだ。「それぞれに個性があって、どれも良い」という平等主義の風土が教育の場でも支配的となってはいないか。作文教育においても同様だ。「感じたことをそのまま書くのが大事だ」と直接的な感覚や感情を直に描写することを良しとする姿勢はあたりさわりがないかもしれない。しかしそこには長い時間を必要とする技術的訓練という側面が欠落している。絵を描くにも、文章を書くにもルールがある。それを学ぶためには、多くの時間をかけて沢山の優れた絵画を観、沢山の良い文章を読むという技術的訓練が必要となる。そうした訓練の過程で習得された技術についての規則を守ることによって、はじめて制約の中から生まれる美しさ、不一致を表現する技量が生まれ、鑑賞する者にとっても感覚を越えた知的喜びが生まれる。
 「自由と平等」と個の尊重は、リベラル・デモクラシーの中核的な位置を占める理念ではある。しかし現実にはその「個」がすべて美への関心と理解力を備えているわけではない。したがって芸術の面白さや厳しさを伝えるためには、一定の「専門性」を有した人々が必要になる。そのひとつの例は、先に紹介したシューマンの「ダヴィッド同盟」のようなペリシテ人(俗物)と闘う同志的集団であろう。
 デモクラシーと市場経済の社会の中で、音楽のフェアな評価を行う批評家集団や同志的結合は存在しうるのだろうか。音楽批評家、あるいは音楽産業界でコンサートを含め製品としての音楽を世に送り届けるマネージメント・レコード会社は確かに存在する(例えばAskonas Holt、Intermusica、Harrison Parrottなど)。しかしこうした専門家や職業集団は、報酬や市場競争を意識すれば「多数」へと照準を合わせたくなっても不思議ではない。本来は芸術の中に隠された多くの知的な創意と工夫を指し示すべき批評家やマネージメント・レコード会社は、概して経済効果やその背後の人間関係ゆえに、必ずしもわれわれに親切かつ有益な智恵と情報を十分提供してくれていないかもしれない。
 専門家たちや批評家、あるいはマネージメント会社が趣味の良い選択を示すことによって、われわれは新しい美しさを知り、自分の感性をさらに磨くことができるはずだ。さもないとデモクラシーも市場も、常に多数に順応するようになる。その結果、音楽の持つ人間精神への根源的な力を衰弱させてしまう可能性がある。」

「もちろん音楽を宗教の代替物として祭り上げるべきではなかろう。しかしそれでも、音楽の精神性、あるいは音楽が人間の知性と感性に及ぼす深くて強い力を無視することは出来ない。音楽が先か、言葉が先かという二つの考えについてすでに触れた。仮に言葉が先で「主」であるとしても、われわれは理性ではとらえきれないもの、理性を超越するものがあることを感知している。われわれにはそうした理性を越えるものへの期待や憧れがある。理性を言葉(ロゴス)と置き換えれば、言葉には限界があり、その限界を克服しようとするのが人間と機械の違いであり、それは祈るという気持ちにも通じるものであろう。そうであれば、音楽が言葉の単なる「しもべ」とみなすことは出来ない。
 これまで、音楽と人間の感情の関係が単純なものではないことを見てきた。ドラマティックな強い感情を音楽で表現するために、半音階や不協和音を多用しても、われわれの理性を越えたものを希求する気持ちに必ず繋がるというわけではない。調性を失った音楽が、理論的可能性を探究するという点では意味があるとしても、普通の人間の日常生活の中でわれわれの魂を浄化し、鼓舞する力を与えてくれることはない。その意味では20世紀後半以降の音楽は、18世紀から19世紀にその最盛期を現出した「クラシック音楽」とは意味も内容も効果も異なる、別のジャンルの芸術となる。
 自由と平等は、人々の中に隠れていた様々な感情と多様な価値観を引き出した。その結果、音楽に携わる職人たちはそれぞれ別の方向にその創造のエネルギーを注ぎ始め、音楽世界をバラバラに解体したように見える。生み出された音楽は、人間の感情や美的感性とは直接結びつかない、きわめて抽象的な音が交差する、「祈り」の精神とは無縁なもののように聴こえる。しかし「祈り」は、現状に対する「怒り」や「憤り」と考える神学者もいる。その意味では、現代の音楽もひとつの「祈り」であると言うことができるのかもしれない。
 旋律もリズムも普通の人間の感覚で把握できない、「選ばれたもの」のみが理解できるとする新しい音楽、「調性がない」音楽を、どのように位置付ければよいのか。12音の音高すべてに主従の差なく均等な役割を与える音楽が聴衆の不在を生み出すとすれば、それは価値の多様化ではなく、価値という概念そのものの無い音の世界の出来しゅったいを意味するのだろう。政治体制との類比として考えれば、徹底した平等を謳うデモクラシーは、12音の音高の均等性によって中心を失った音楽のように、ポピュリズムがもたらす無秩序か、専制的な政治権力によって強いられた見せかけの秩序という、凡そ自由の精神とはかけ離れた世界と見ることもできる。」

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