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岡本勝人『仏教者 柳宗悦: 浄土信仰と美』/『シュタイナー霊的宇宙論―霊界のヒエラルキアと物質界におけるその反映』

☆mediopos2835  2022.8.22

柳宗悦のことを初めて知ったのは
三〇年ほど前にたまたま東京にでかけたとき
後に『シュタイナー霊的宇宙論』として刊行された
高橋巌さんの講義に参加したときのこと

詳しくその内容は覚えていないけれど
柳宗悦が「美」と「法」は「一如」であるとし
自力門と他力門が一如となる不二の世界で
民藝の心と「モノ」それ自体が統合される
と示唆した内容につながる話で
そのことがシュタイナーの講義内容のなかの
四大存在の解放と深くつながっている・・・
そうした内容だった

その講義をきっかけに
柳宗悦や民藝運動に関心をもつようになったが
それだけではなく
私たちが日々この世界で生きているということ
そのものの視点がずいぶん深まったように思える

私たちはこの地上世界で
さまざまな「モノ」たちと関わって生きている
わたしたちの外に広がっている世界もそうだし
わたしたちのからだもそのひとつにほかならない

「モノ」たちというのは
地・水・火・風という四大存在のこと
いわばモノ・物質としてあらわれている
すべてのもののことを指している

この地上世界・物質世界は神的存在たちが
ほんらい霊的存在である四大存在たちを使役して
創り出されたものであるという

そんななかに人間は生まれてくるが
地上世界で人間はどんな役目を担っているのだろうか
それは四大存在たちを「解放」して
ほんらいの霊的世界へと連れ戻すことである

人間は無自覚に四大存在たちと関わると
その存在たちは人間のなかに閉じ込められたまま
転生を通じても人間とともにずっと幽閉されたままとなる

四大存在たちを「解放」し
また人間もまた「解放」されるためには
「外界の印象を深く心に受けとめ、
宇宙の根底に働いている霊的存在たちに思いをいた」し
「その姿について考え、その美を感じ、
印象を深め」ることがとても大切になる

いわゆる「供養」とされることも
そうした四大存在たちの解放を
儀式化したものとして理解することができる

柳宗悦が民藝運動に関わり
「美」と「法」を
そして自力門と他力門を「一如」とし
民藝の心と「モノ」それ自体を統合しようとしたのも
そうした霊性運動としても理解することができる

そうした四大存在の解放を
宇宙過程としてさらにとらえるならば
たとえば私たちが「モノ」たちに感謝し
「宇宙の根底に働いている霊的存在たちに」祈るならば
その霊的な力は神的世界そのものに
新たな霊性の流れを注ぎ込んでいるということもできる

宇宙には大いなる呼吸過程があるだろうが
私たちが「モノ」の「美」を見つけ
「モノ」を解放する過程に寄与することそのものが
宇宙のそうした呼吸に参与していることになるのではないか

そしてそれは私たちが日々生きているなかでこそ
可能となる創造行為でもあるということができる

■岡本勝人『仏教者 柳宗悦: 浄土信仰と美』
 (佼成出版社 2022/5)
■ルドルフ・シュタイナー(高橋巌訳)
 『シュタイナー霊的宇宙論―霊界のヒエラルキアと物質界におけるその反映』
  (春秋社 1998/12)

(岡本勝人『仏教者 柳宗悦: 浄土信仰と美』〜「第四章「仏教美学」四部作にて」より)

「キリスト教神秘主義の方向から、あるいはまた、真言密教の方向から、禅の方向から、浄土教の方向から、柳のたどりつく空と無の世界は、否定神学的なひとつの決定不可能性の場所にある。そこは、空といい、有と無といった、未だ分節されない無分別の場所であるが、全てが鏡像的な原初に遡行できる精神(心)の場所である。」

「柳は禅と浄土教に寄り添いながら、「美」と「法」は「一如」であるとし、美の経験には、民藝運動における樂茶碗と井戸茶碗の対比から「茶の変革」を論じた。しかし、仏教と「モノ」それ自身を統合する場所論的な言語空間には、形而上的かつ内在的なアーラヤ識の地平に、自他両門が一如となる不二の世界が見えてくるのだ。」

(岡本勝人『仏教者 柳宗悦: 浄土信仰と美』〜「終章 最後の美意識」より)

「このように柳宗悦の晩年のテクストを読んでくると、宗教に関する超越論的な世界と、「モノ」という形而下的な陶磁器に関する民藝とが統合する美の姿にたどりつく。心理学から宗教学へと深まる柳の心の旅は、ウィリアム・ブレイクから木喰上人の発見と研究へと、「信」となる南無阿弥陀仏から仏教美学四部作へとつながってきた。柳の思索は、禅から浄土教を両義的に解釈する独自の宗教と民藝をつながる美の活動であった。木喰上人から妙好人、南無阿弥陀仏から仏教美学四部作へと、具体の現象と美の抽象が交錯する。さらには、民器の「喜左衛門井戸」の存在と初期の茶人の純粋な精神性から現在の「茶道」批判が同時になされていた。そこに、柳が通った往相の道が、多様な批評を統合しつつ、民藝から宗教への還相の道に出会う。」

「柳宗悦の茶に関する提言は、『茶と美』(講談社)と『柳宗悦茶道論集』(岩波書店)に大方かとめられている。ここには、初期の「陶磁器の美」から「茶道に想う」につながる批評がある。その論点は、「井戸」の「大名物」は、どれひとつとして朝鮮の飯茶碗であり、「下手物」の典型的な雑器、貧しい民器であった。初期の佗び茶の茶人達が、美意識を働かせ、造作のない「無事」の「貴人」をそこに見たとして、茶道の一番の意義はそうした禅美に通ずるものであると論ずる。「面白いことに禅美の豊かさを誇る茶器の名かには、「他力美」のものがかなり多い」(茶器の改革)。このように、今日の茶の見方が、禅の道から明るみへと取り出され、草創期の茶人の評価から現状の批判がなされた。柳の茶に対する批評眼は、李朝の蒐集とともに、他力の両義性をはやくからもつものである。」

(『シュタイナー霊的宇宙論』〜「第二講 四大存在」(一九〇九年四月一二日夜)より)

「神的存在たちは、どのようにしてこの地上に、固体や液体や気体を生じさせることができたのでしょうか。神的存在たちは、火の中に生きている四大存在たちを地・水・風の中に閉じ込めたのです。四大存在たちは、神的な創造者たちの使者なのです。この使者は、はじめは火の中にいました、火の中で、いわば幸せに暮らしていました。ところが今は、呪われ、封じ込められて、生きています。ですから私たちは周囲を眺め、次のように思わなければなりません。————「周囲のすべては、四大存在のおかげでここに存在している。四大存在たちは、火から降りてこなければならなかった。そして今、事物の中に封じ込められている。」

私たちは人間として、この四大存在たちに、一体何をしてあげることができるのでしょうか。これは聖仙たちにとっても、重要な問いでした。封じ込められた存在を救済するために、私たちは何をすることができるのでしょうか。確かに、私たちは何かをすることができます。
 私たちの行なうすべては、ただちに霊界にもその作用を及ぼします。次のように考えてみてください。確かな水晶か金塊を眺めているとします。そのとき一体何が生じるのでしょうか。そのとき、封じ込められた四大存在とその人の間で、絶えざる相互作用が生じるのです。物質の中に封じ込められた靈たちと人間とが、そのとき、互いに結びつくのです。人間が何かを眺めるとき、常に四大存在が人間の名かへ入ってきます。朝早くかた夜遅くまで、人間生活の中で、封じ込められた四大存在が人間の中へ入ってくるのです。
 知覚活動を行なうときはいつでも、一群の四大存在たちが、周囲から皆さんの中へ入ってきます。考えてみてください。周囲の事物を眺める誰かが、事物の霊について自分の魂の中に何も感じとろうとしなかったら、どうなるでしょうか。自分にかまけたり、安易な態度をとったりして、思考も感情も働かせずに、いわば単なる傍観者として生きているとしたら、どうなるでしょうか。そのときも、四大存在たちがその人の中へ入ってきます。しかしその人の中で、ただ外から中へ入るという宇宙過程を辿る以上のことをすることはできないのです。けれども、誰かが外界の印象を深く心に受けとめ、宇宙の根底に働いている霊的存在たちに思いをいたすとしましょう。一片の金属を、ただ眺めるだけではなく、その姿について考え、その美を感じ、印象を深めるとします。その人は何をしているのでしょうか。
 その人は、どうすることで、外界から自分の中へ流れ込んでくる四大存在を救済しているのです。封じ込められた状態から四大存在を解放して、かつての状態へ送り返すのです。そのように私たちは、風・水・地の中に封じ込められいる存在を、私たちの精神作業を通して解放し、本来の元素界へ連れ戻すこともできれば、それらを変化させずに、私たちの内部に閉じ込めておくこともできるのです。
(・・・)
 それでは、事物から人間の中へ入った四大存在たちは、どうなるのでしょうか。はじめは人間の中にいます。救済された存在たちも、はじめは人間の中に留まっていなければなりません。しかしそれは人間が死に到るまでのことです。
 人間が死の門を通ると、死体の中に留まり、高次の元素界に帰っていけない四大存在たちと、死者の霊魂によって以前の元素界に連れ戻された四大存在たちとの間に、区別が生じます。人間によって変化させられなかった四大存在たちは、事物から人間の中に入ったあとも何も得るところがありませんでした。しかし別の四大存在たちは、人間の死とともに、ふたたびもとの世界に帰ることができました。この四大存在たちにとって、人間の生活は通過点だったのです。
 そして、人間が霊界から、また地上に生まれてくるとき、かつてその人が解放しなかった四大存在のすべても、その人の転生とともに、ふたたび物質世界にもどってきます。一方、解放された四大存在たちは、その人がふたたびこの世に生を受けても、共に地上世界に降りてこないで、もとの元素界に留まります。」

「四大存在の運命については、次のように言うことができます。————「人は、内部に発達させた叡智を通して、死後、四大存在を解放する。物質の感覚的仮象にしがみついている人は、四大存在を自分のもとに留めたまま、何度でも転生しつづける。そして四大存在も自分と共に、地上に生まれてくるようにしむける」」

「四大存在が到るところで私たちを取りまいて、私たちの中に入ったり、そこから出たりしています。このことを太古の人びとは知っていました。人間のすべての行為は、霊界と人間の内面世界との相互作用なのです。私たちの行なうすべて、私たちの心の在り方そのものでさえも、全宇宙に作用を及ぼすのです。私たち小宇宙は、大宇宙にとって大きな意味をもっているのです。そのことを知ると、人間の謎があらたまて強く意識されます。
 私たちの霊たちに対する責任感こそ、神智学のもっとも美しい、もっとも重要な贈り物なのです。神智学が真の意味で生きることを教え、一人ひとりの人生が人類の進化の流れの中で重要な役割を演じていることを教えているのです。」

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