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伊藤潤一郎「投壜通信 9.あてこまない言葉」(群像 2023年 06 月号)/吉田隼人『霊体の蝶』/中井英夫『黒衣の短歌史』

☆mediopos-3104  2023.5.18

「投壜通信」は「承認」を求めない

「承認」とはたとえばSNSの「いいね」
あるいは「推し」で表されるような
「あてこんだ言葉」であり「約」である

現代はある意味で
「承認欲求」という病に深く侵されている

SNSで投稿される言葉は
「いいね」を「あてこんだ」ものであり
それに象徴されるように
さまざまな「評価」を求める言葉は
賞や試験などに合格するための
「推し」の目にとまるためのものとして発せられる

そしてひとはそのような「承認」
それによる「評価」が得られないことを
おそらくはなによりも恐れ不安に思ったりする

その意味で「投壜通信」は
「共有」されることを越えたコミュニケーション
あるいはコミュニケーションとさえ呼べないような
言葉を発した主体による所有から自由になった言葉を
「短期的な「あてこみ」の地平を越えて
可能なかぎり遠くまで」
だれでもない「あなた」へと届けようとする

もちろんその「あなた」は
想定された受け手ではない
それゆえにそこには「承認」は存在し得ず
届けられた「あなた」のなかで
意味の変容が引き起こされることになる

そしてそれは「投壜通信」が
「あてこまない言葉」であることによって可能となる

今回の記事のなかで
中井英夫『黒衣の短歌史』に収められ
吉井勇と釈迢空について触れた
「光の函」に言及する吉田隼人の歌が引かれているが

吉田隼人はそこで
「意味の追求から解放され、空虚ななかにただひたすら
光を湛えただけの函のような歌を称揚」している

そんな「光を湛えただけの函のような歌」であるためには
それが「あてこまない言葉」でなければならない
その意味でつねに「承認」をもとめるための言葉は
そんな歌から遠く隔てられたものでしかなくなってしまう

こうした記事を書くときも
常に「あてこまない言葉」で
だれでもない「あなた」へと宛てた
そんな「投壜通信」でありたいと切に願う

■伊藤潤一郎「投壜通信 9.あてこまない言葉」
 (群像 2023年 06 月号)
■吉田隼人『霊体の蝶』(草思社 2023/3)
■中井英夫『定本 黒衣の短歌史』(ワイズ出版 1992/12)

※吉田隼人『霊体の蝶』はmediopos-3063(2023.4.7)、中井 英夫『定本 黒衣の短歌史』はmediopos2633(2022.1.31)でもとりあげている。

(伊藤潤一郎「投壜通信 9.あてこまない言葉」より)

「もし、いま私たちが生きているこの時代が終わりを迎えつつあり、新たな時代の到来の兆しがあるとすれば、時代のとば口で語られるべきはいかなる言葉だろうか。なんとも大げさなこの問いに対して、まずは吉田隼人の歌を引いておこう。

   梟の飛びたたむ刻(とき)めざめたり約をやぶりし悔いのさなかに

 中井英夫『黒衣の短歌史』に収められた「光の函」に言及する歌人自身の言葉にしたがえば、ここには意味を追い求めることから解放された内面の空虚こそが示されていると解釈すべきなのだろう。夕暮れ時に目覚めてしまった後悔、日中の「ふつうの」活動に歩調を合わせられなかった後ろめたさ、その後ろめたさの背後には意味を掘り下げるべき内面もなく、むしろ後ろめたさが示すのはみずからの内面が空虚であることのみなのだ、と。だが、フランス文学や西田幾多郎ら近代日本の哲学に関する知がいたるところにちりばめられた歌集のなかの一首として読むならば、やはり梟が飛びたつというところにヘーゲル的モチーフを見てとらないわけにはいかない。
 ミネルヴァの梟に仮託して語られる哲学とは、ひとつの時代を総括し、その意味を精神によって把握する営みだった。そのようにして、新たな時代が幕を開け、梟は海燕となる。ある意味でそれは、歴史を前へ前へと進める「進歩」の風に乗っている鳥ともいえる。しかし、吉田の歌の視線が、あたかもベンヤミンが描く、「歴史の天使」さながらに、過去へと向かっていることに注意したい。

(・・・)

 過去へと顔を向ける歴史の天使を押し流すほど、「進歩」の嵐は容赦ない。ベンヤミンから八〇年以上の時を隔てた現在、「進歩」という名がそれほどの力をもつか定かではないが、どのような名であるかはともかく、多くの人々をひとつの方向へと駆り立てる力はいつの時代にも存在しているはずだ。海燕となった梟に吹き寄せる風が一方向へと向かうものであるならばそれを拒否し、ベンヤミンとともに、その嵐によって破壊された瓦礫へと視線を注がなければならない。打ち捨てられた断片をつなぎ合わせ、ありえたかもしれない未来を救い出す必要があるだろう。ただひとつの意味に収まる過去も未来も存在しない以上、それは思考の責務である。

(・・・)

 「約」はすでに破られてしまった。そこにいかなる悔いがあろうとも、既存の「約」のなかに安住することはもはやできない。そのような閾に立って吉田の歌は詠まれている。だが、あらためて問えば、その「約」とはいったいいかなるものか。いいかえれば、過ぎ去りゆく時代の言葉とはいかなるののだったのか。私はそれを「あてこんだ言葉」と呼びたい。それゆえ、海燕が歌うのは「あてこんだ言葉」だ。」

「「あてこむ」とは、よい結果を期待することにほかならない。ある言葉を投げて期待したような反応が返ってきたとしたら、いうまでもなく、言葉はよい結果を生み出したことになるが、終わりゆく時代において、言葉に対するポジティヴな反応はきわめてわかりやすい。なぜなら、数量化されているからだ。各種SNSの「いいね」は、みずからが発した言葉に行為的な反応が返ってきたことを数量として明示し、その結果、一部の人々はより多くの「いいね」を求めて、「いいね」を多くもらえそうな言葉を語るようになる。
(・・・)
 現代は、かつてなくみずからの言葉が承認されていると実感しやすい時代なのだろう。しかし、数量化された承認においては、誰からのものであってもひとつのアカウントからの承認は「一いいね」でしかない。ほかでもないこのひとから承認されるのも、匿名の誰かから承認されるのも、数量という観点では重さのちがいはなく。単位としての「一」に還元されるやいなや、「いいね」という承認は交換かのうなものになる。」

「「推し」に強く光を当てた『ユリイカ』二〇二〇年九月号の特集「女オタクの現在————推しとわたし」のなかで、横田祐美子もまたひとり時代の「約」を破ろうとしていた。「嶽本野ばらとアウグスティヌス————乙女と内に秘められた過剰の美学」と題された横田の論考は、嶽本とアウグスティヌスという時代もジャンルも遠く離れた二人の書き手の告白体の語りのうちに、「好き」を共有するコミュニティとは異なる人間の結びつき方を探っている。

(・・・)

 好きな対象を共有することもなければ、「好き」を介した共感のコミュニケーションもしない。(・・・)「あるある」「わかりみが深い」といった当世風な共感の言葉すべてを拒絶する。そのような態度で、横田は内面の奥深くへと降り立ってゆく。アウグスティヌスが「私のもっとも内なるところよりさらに内」と述べた神との出会いの場は、「好き」という感情の無根拠さが露わとなる内面の極北なのだ。そこには他人の共感が入り込む余地はいささかもなく、「わかる」という安易な言葉はすべてはねのけられる。「あてこんだ言葉」がけっして届かない領域こそ、私の内奥にほかならない。しかし、誰とも共有しえない内面の奥深くをひたすら突き詰めるとき、逆説的にも「共有するもののなさを共有する連帯」は生まれると横田は説く。
 おそらく、来るべき時代の「あてこまない言葉」が生み出すのも、たんなる「共有」を超えたコミュニケーションになるだろう(それをいまだ「コミュニケーション」と呼べるならばだが)。なぜなら、「あてこまない言葉」は意味の共有を求めないからだ。意味が歪みなく伝わるという日常的な期待は捨てられている。その代わりに、「あてこまない言葉」が期待しているのは、意味の変容という、言葉の意味が話し手からも受け手からも解放される瞬間である。発話者がひとつの意味を占有することなく、受け手における解釈や意味の揺らぎを積極的に待ち望み、かといってひとつの解釈だけが確固とした不動の地位に就くのも否定する。そのような果てしなき意味の変容を望むのが、海燕の歌なのだ。「あてこまない言葉」において、意味は誰のものでもなく、主体による所有から自由になっている。同じ意味を共同所有する人々はもはやいない。
 それゆる海燕は、「わかる」という理解の言葉に何よりも疑いの目を向ける。みずからの歌がそう簡単には理解されないと思っているがゆえに、海燕は現世的なあらゆる承認を拒むのだ。

(・・・)

 鏡を割って承認の閉域の外へと飛び立ち、海燕は大海原に壜を投げ込む。しかし、なぜそのようなことをするのか。はるか遠くの存在すら定かでない「あなた」を信じて投壜通信がおこなわれるのだとしたら、やはりそこでも何らかの承認が求められているのではないか。いや、ちがう。むしろ、歌うのが楽しいから海燕は歌うのだ。楽しいがゆえに発された言葉こそ、もっとも遠くまで届き、意味の変容を引き起こす。楽しいというある意味ではどこまでも自己中心的でありながら内奥から沸き起こる感情が宿るとき、言葉は短期的な「あてこみ」の地平を越えて可能なかぎり遠くまでたどり着く。もしそこで意味の変容が起これば、その受け手は「あなた」と呼ばれるだろう。「あなた」とは、意味が所有から解放されるきっかけなのであって、けっしてあらかじめ想定された存在ではないのである。」

(吉田隼人『霊体の蝶』〜「あとがき」より)

「中井英夫が『黒衣の短歌史』に採録した「光の函」という吉井勇と釈迢空について触れた文章で、意味の追求から解放され、空虚ななかにただひたすら光を湛えただけの函のような歌を称揚し、また別の箇所でそうした歌の詠み手として浜田到を挙げていたことがこのような集を編む気持ちにさせたようなところがあります。」

(中井 英夫『定本 黒衣の短歌史』〜「光の函」(153-154頁)より)

「いったい文学の上で〝働く〟とは何の謂だろう。石工に似た努力を重ねる工房の姿をそのまま作品の性格とする慣わしはいつからのことか。
  夜ふかくよべの酒の香なほ残るわれの小床をうつみやまずも
  夜ふかく釈迢空の歌一種おもひ出づれば誦しもこそすれ
 氏(吉井勇)が釈迢空と共通するのは、その歌の〝何もない美しさ〟であろう。現代短歌にはあまりに意味がありすぎるのだ。文学的にはほとんど無価値の、ただの意味が。
 従って逆に勇・迢空ともに現代短歌の必死の努力を根底から崩壊せしめるていの、人によっては麻薬のごとくにも思われるであろう〝何もなさ〟が、しばしば主要なモチーフになっているは不思議ではない。
 一見、本当に何もないごとく見えるそこには、ただ光だけが充ちている、そのような歌こそ、実は短歌の枠を超え文壇の枠を超えて、真に人々の愛唱してやまぬ歌となり得る筈である。現代短歌のすべてが〝光の函〟として民衆の胸中に蔵される日は、けだし遠い先のことであろうが・・・・・・」

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