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岡田 暁生 『音楽の危機』

☆mediopos-2523  2021.10.13

わたしたちの多くは
曲の始まりには意識的だが
曲の終わりについては
始まりほどには意識的ではない

しかし曲の終わり方には
時間芸術としての音楽の
時代性が色濃く反映されている

作曲家はいちはやく
時代の時間観念を
音楽として表現していく

音楽を聴くということは
時代の時間観念を聴くということでもある

また音楽の嗜好はひとそれぞれだが
その嗜好にはそれぞれが求める
時間観念が強く反映している

『音楽の危機』の著者・岡田暁生によれば
「近代音楽はすべて
目的論的な時間に呪縛されてきた」という

そしてさまざまな時代状況のなかで
「復活と勝利の物語」である
「勝利をしゃにむに目指す右肩上がり型」から
「勝利という「目的」の不能を表現」した諦念型
「目的への急上昇に伴う墜落の不安を表現する」サドンデス型
「目的達成のプレッシャーを一時的に棚上げする」ループ型など
さまざまな型の音楽が作られ聴かれてきた

著者のいう「音楽の危機」とは
三密を回避することなどによる音楽活動の制限
といった否定的な状況によるそれだけではなく
むしろそれゆえに生まれてくるであろう
(生み出してゆかなければならないであろう)
新たな音楽創造の可能性のための契機でもあるようだ

壁(危機)があることでそれを乗り越えるための
創造的な発想が必要となる
作曲家は時間芸術特有の創造的な発想で
あらたな響きを生み出していくはずだが
それはわたしたちが獲得していくであろう
新たな時間意識と共振していくものでもあるだろう

危機の時代は
創造のエポックをともに生きることのできる
得がたい経験をもたらしてくれる
とても楽しみだ

■岡田 暁生 『音楽の危機/《第九》が歌えなくなった日』
(中公新書 中央公論新社 2020/9)

(「第五章 音楽が終わるとき−−−−時間モデルの諸類型」より)

「「右肩上がりに盛り上がる時間の呪縛からいかに脱するか」という問いが、コロナ以前からすでに、全人類の喫緊の課題であったことについてはいうまでもあるまい。(・・・)にもかかわらず、人々が「右肩上がり」の夢をいまだに捨てられないとするなら、その理由の一つは、ふだんから聴いている音楽にあるのではないかと、誇張抜きで思うことがある。」
「ベートーヴェンの《第九》のように、右肩上がりの時間を絶対的な説得力でもって現前させる音楽作品があっては、いつまでたっても永遠に近代の重力圏から脱けだせないのではないかという気がしてくる。
 (・・・)このベートーヴェンの「右肩上がりに盛り上がるタイプの音楽」は、近代市民社会/資本主義と軌を一にして発展してきた。しかしながら、こと西洋音楽に限ってみても、「右肩上がりではない音楽」は数多い。」
「わたしたちはふだん、曲の「始まり」についてはよく意識している。イントロだけで何の曲かわかる人もかなりいる。だがそういう人にしたところで、ある曲が「どう終わっているか」については、あまり意識が回っていないだろう。しかし考えてみれば人生とは時間イメージのプランそのものだとすらいえるわけだから、「生き方モデル」として音楽を考えようとするときに本当に重要なのは、「終わり」まで含めたこのトータルな時間プランなのではあるまいか。
 音楽の歴史を「終わり方」に注目して眺めると、右肩上がりのイメージというものが近代以降の音楽に固有のものだったことがわかる。せいぜい二百余年ほどの歴史しかないのだ。」
「「最後が盛り上がる」というタイプの音楽は、ベートーヴェン以前にはまったく存在していない。バッハの作品にベートーヴェンのようにあられもなく盛り上がる作品が一つでもあるだろうか?」

「過去何百年もの音楽を思い切り大胆に類型化してみて、改めて「過去の音楽にこれからの時間のモデルを見つけるのは難しい」と実感する。神が司る永遠などというものをほとんど信じられなくなっている現代人にとって、帰依型の音楽に心から身を委ねることは難しかろう。またハイドンやモーツアルト(あるいはジャズ)に観られるような定型型において、しかるべく時が来たら「シャンシャン」で店じまいするためには、共同体的な阿吽の呼吸が不可欠だ。全員が「そろそろだね」と自ずと片づけを始めるような共通の時間感覚である。だがこういう「空気を読む」感覚も、現代人においてはどんどん弱まっている。
 近代社会のアイコンだった勝利宣言型はとても危険だ。下手をすれば根拠もなく人の気を大きくさせる安酒になる。かといって諦念型の嘆きも、今日ではもはや陳腐化しているだろう。マーラーの第九番のような終わり方は、メロドラマ映画などによってあまりにも酷使され、賞味期限が切れてしまっているように思う。もちろんだからといって、勝利宣言のベートーヴェンの「運命」や《第九》、あるいは諦念型のマーラーの第九番の交響曲の価値をなんら傷つけるものではないにせよ、である。そしてループ型が約束する「永遠に続く快適な今」は、極論するならば、もはやその欺瞞が明らかになってしまったのではないだろうか。となるならば残るのはサドンデス型の恐怖の終わりか・・・・・・?
 わたしたちはこの三十年間、予想もしなかった大カタストロフに定期的に見舞われてきた。そのたび復活と勝利の物語が持ち出され、あるいは諦念の物語で癒やされ、しかしいつの間にか過去を半ば忘れてしまい、根本的なことは何一つ変わらないまま日常はとりあえず修復され、ループ的な平坦かつ快適な時間が回復し、しかし忘れたころに再びサドンデス的なものに見舞われる数十年だったといっても過言ではない。
 前衛的な音楽を大胆に目指す人たちには、安直な癒やし系ではない、次の世界を見せるような時間モデルを提示してほしいと、強く願う。ベートーヴェンやシューベルとは、二百年以上にわたって社会の思考回路を既定するようなモデルを打ち立てたのだ。極論すれば後の世のほとんどの作曲家は、十九世紀初頭に確立されたいくつかの時間モデルの中に、さまざまなコンテンツを代入してきただけだったとすらいえる。今なされるべきは、ただ「いい音楽」(美しく感動的でよく仕上げられた音楽)を書くだけでなく、既成の時間モデルの枠自体をラディカルに更新する試みである。」

(「第六章 新たな音楽を求めて−−−−「ズレ」と向き合う」より)

「近代音楽はすべて目的論的な時間に呪縛されてきた。勝利をしゃにむに目指す右肩上がり型はいうまでもなく、勝利という「目的」の不能を表現しようとすると諦念型になるし、目的への急上昇に伴う墜落の不安を表現するとサドンデス型になる。またループ型は目的達成のプレッシャーを一時的に棚上げする就寝前の睡眠導入剤的効果を狙っているともいえる。それに対して本章でとりあげた作品はいずれも、「近代」の目的論を根底から解体する試みだった。時計から逃げるか(ヤング)、時計が止まるまで待つか(リゲティ)、スケジュール管理のグロテスクな戯画を見せるか(アンドリーセン)、ゆるやかにみんなでなんとなく流されるか(ライリー)、流されることを断固として拒み、たとえズレていても自分のペースを守るか(ジェフスキー)、おうしたいろいろな発想が、公民権運動とベトナム反戦運動、ヒッピー・カルチャーとフリー・ジャズとロック、学生紛争と一九六八年革命、そして石油危機と環境保護運動の始まりといった社会潮流との、のっぴきならない対決の中で生み出されたものであることは、いうまでもない。そしてわたしは、彼らが提起した問いを今一度わたしたち自身の問題としてとりあげる好機が、今こそ来ているのではないかという気がしている。
 この間のわたしたちは、「いったい何がどう進むか誰にもわからない時間」というものをリアルに経験した。(・・・)近代社会における目的論的な時間とは結局のところ「目的設定→時計によるスケジュール管理→完成品のパッケージ」という大量生産システムの思考であり、「先が見えない」ということは、このシステムがあまりに無菌室的に自己完結していたが故に、外部からの予測不能の異物によって簡単に機能不全を起こしてしまったということなのだろう。
 しかしながら、「どう進むか見当もつかない時間」、あるいは「スケジュールなど立てようのない時間」とはまた、従来の因習の縛りから完全に自由になれるチャンスだということでもあるだろう。そして音楽についていうならば、これは近代の目的論的な時間図式を根本的に組み立て直す絶好の機会だと。わたしは考える。いたるところにそのモデルが生まれつつある。例えば福岡伸一のような生物学者により、ウイルスと人間との「動的平衡」ということが強くいわれている。種の維持のためには人間もウイルスも一時的に不安定な状況が生まれることを敢えて必要としていて、それによってあらゆる変化に対応できる高次元の安定を実現しているという考え方だ。(・・・)これなど音楽創造にとってまたとなく参照点ではあるまいか。今にもこうした思考形式が実際の音楽となって響いてきそうな気がしている。」

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