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鹿島茂『思考の技術論/自分の頭で「正しく考える」』

☆mediopos-3054  2023.3.29

「正しく考える」
ということは
「正しいとされていることを知って
それをもとに考える」
ということではない

教えられた正しさは
ただ与えられただけの知識でしかない
教えられた正しさは
与えられた問いに対する
決められた答えでしかないからだ

「正しい」とされていても
じぶんでそれが正しいかどうかを問う必要がある
さらにいえば問いそのものをさえ
みずからが考え出さなければならない

鹿島茂が雑誌『こころ』に連載したものをもとにした
本書『思考の技術論/自分の頭で「正しく考える」』は
デカルトの『方法序説』から考える
「正しく考える」ための方法論である

『方法序説』ではそのための
 ❶すべてを疑おう
 ❷分けて考えよう
 ❸単純から複雑へ
 ❹見落としの可能性を列挙しよう
という四原則が示唆されている
(鹿島茂による簡略化した表現)

鹿島茂によれば日本の学校教育では
「《考える》ための方法」は教えられない

「知識」はたくさん与えられるものの
「それは、知識が与えられていば、
考えることはその知識をもとにして
「自然に」身につくと思われているから」だという

もちろんどのようにして考えるかが
「自然に」身につくということはおそらくない

「答え」が先に決まっているどころか
「問い」さえも与えられた「レディー・メイドのもの」

「問いを考え出す必要がある」
という発想はそこにはない

「正しく考えるための方法」は
「問いを考え出す」ということと深く関わっているから
その発想がないとき
「正しく考える」ことはできないことになる

そのためにも
「正しく考えるためのデカルト四原則」は有効である

主客二元論ということで旗色が悪くなっているデカルトであるが
その「デカルト四原則」がなければ
主客二元論を問い直すこともできない

本書は全二六章にわたって
自分の頭で「正しく考える」方法が示唆されているが
今後これらの章のなかから面白そうなものを
ピックアップしてご紹介してみることにしたい

■鹿島茂『思考の技術論/自分の頭で「正しく考える」』
 (平凡社 2023/3)

(「第一章 「正しく考える」ための方法を考える」より)

「徹底的に考えぬいたあげくにデカルトが考え出した「正しく考えるための方法」とはどのようなものだったのでしょうか。デカルトはそれを四つの規則として揚げています。」

「まとめれば、「正しく考えるためのデカルト四原則」とは、
 ❶すべてを疑おう
 ❷分けて考えよう
 ❸単純から複雑へ
 ❹見落としの可能性を列挙しよう
 となります。」

「デカルトの『方法序説』は、近代科学や近代哲学の出発点になったとよく言われますが、厳密に言うと、デカルト四原則のうち、第一原則「明証性の原則」は近代哲学の基礎を、第二原則「分析(=分割)の原則」、第三原則「総合性の原則」、および第四原則の「枚挙の原則」の三つは近代科学の基礎をそれぞれつくったということができます。」

「日本人はなにゆえに、考える目的や意義、あるいは考える方法について考えることに対してこれほど無関心なのかという問題を考えていきたいと思います。

 まず、現状分析から入ることにします。私は日本人として日本で小・中・高・大と教育を受けてきましたが、学校教育においては「《考える》ための方法」を教えられた記憶が一度もないと断言できます。どうも、日本には「自分の頭で考えろ」と言う人はあっても、自分の頭で考えるには方法があるのだから、その方法をまず教えなければならないと主張する人はあまりいないようです。

 なぜなのでしょう?

 思うに、日本では考えるということはだれにでもできることなのだから、いちいち、手取り足取り教えなくても自然に身につくものと考えられているからのようです。

 そうなのです。日本では、考えるということは、呼吸したり、あるいは食べたり飲んだりするのと同じように、方法というものを教えなくとも、「自然に」身につくものと見なされているのです。

 反対に、日本の教育において「知識」はたくさん与えます。それは、知識が与えられていば、考えることはその知識をもとにして「自然に」身につくと思われているからなのです。

 その歴然たる証拠は、現在においてもなお、日本の学校教育には、考えるための方法を教える科目が設けられていないことです。高校のカリキュラムには「倫理」という科目が存在しますが、その「倫理」の教科書にざっと目を通した限りでは、ギリシャ哲学に始まる哲学者の系譜や思想・潮流などが「知識」として教えられてはいても、考えるための方法が示されている箇所は見当たりません。

 これは思っているよりもはるかに大きな問題です。」

「多少早送りして、わたしが考えた結論だけ先に述べておきたいと思います。

 それは、「正しく考えるための方法」から教えていくと時間がかかりすぎるからというもので、まさにいま私がやったやり方にほかなりません。つまり、日本では、開国以来、国是としてずっとこの早送りをしてきたがために、結局「正しく考えるための方法」が教えられることはなかったということになるのです。

(・・・)
 最終的には問題を自分力で解くことができるようになったとはいえ、それは答えを先に見たから可能になったのです。文化系頭脳の高校生(・・・)が数学の問題を解くのによくやるように、答えを見てから解法を研究し、その解法を暗記したからこそ似たような問題が出ても解くことができるようになったのであって、答えを見ないで自力で問題を解くことができたわけではまったくないのです。

 さらにいうなら、答えばかりか、問いもまたレディー・メイドのものにすぎず、自分で考え出したものではありません。というよりも、そもそも、問いを考え出す必要があるなどとは思いもしなかったにちがいありません。

 ところが、「正しく考えるための方法」という観点からすると、この問いを見いだすという過程が最重要であり、問いを自分で見いだせたら、正しく考えることは自動的に付いてくるとさえいえるのです。

(・・・)

正しく考えるための方法および問いを見いだす方法への無関心は、どうやら明治・大正という早送りの時代ににも特有の現象ではなく、むしろ、日本人に固有の現象なのではないかと問いかけてみる必要があるようです。

(・・・)

 またまた早送りで恐縮ですが、今度もまた私がいきなり仮説を用意しておきます。

 家族類型の影響という仮説です。

 家族類型が思考のパターンを決定する。

 日本の家族はエマニュエル・トッドが提唱する家族人類学によると、直系家族というものに相当します。直系家族というのは、両親が、結婚した子供のうちの一人と同居し、親・子・孫の三代が直径でつながるという意味でこう呼ばれています。日本、韓国・朝鮮、ドイツ、スウェーデン、ノルウェー、スイス、ベルギーなどがこれに相当します。

 この直系家族の特徴は、父親の権威が強く、前工業化社会においては旧套墨守の傾向が顕著で、たいていの場合、保守的ですが、その反面、古くからの伝統を伝えていくには適していますし、また、潜在的には女性の力が強く、教育熱心であるという特徴を持ちます。

(・・・)

 権威主義的で、親や先生や上司の言うことをよく聞くというその同じ特徴が、根源的なところですべてに疑問を持ち、問いを発し、自分の頭で考えるというイノベイティブな発想を妨げることが多いため、世界を変えてしまうような大発明、大発見はなかなか生まれないという側面も持ちます。

 日本についていえば、開国以来、急激な近代化を可能にした直系家族的な権威主義的メンタリティそのものが、「正しく考えるための方法」や「問いを見いだす方法」の模索の障害となってきたということができるのです。いわば、日本の社会は「構造的」に自分の頭で考えるのには向いていない社会なのです。」

「フランス人特有のこうした平等主義核家族的な自由・平等の発生を見たかったら、デカルトの自伝でもある『方法序説』をひもといてみるのがベストです。

「わたしは子供のころから文字による学問〔人文学〕で養われてきた。そして、それによて人生に有益なすべてのことについて明晰で確実な知識を獲得できると聞かされてきていたので、これを習得すべくこのうえない強い願望をもっていた。けれども、それを終了すれば学者の列に加えられる習わしとなっている学業の全課程を終えるや、わたしはまったく意見を変えてしまった。というのは、多くの疑いと誤りに悩まされている自分に気がつき、勉学に努めながらもますます自分の無知を知らされたという以外、何も得ることがなかったように思えたからだ。(中略)以上の理由で、他のだれについてもわたしを基にして判断する自由、先に人びとがわたしに期待させたような学説はこの世に一つもないのだと考える自由を、わたしは選びとったのである」

 すなわち、当時最高に自由で優れた教育機関と見なされていたイエズス会経営のラ・フレーシュ学院で学び、そこを卒業したにもかかわらず、デカルトは教えられたことを権威主義的に受け入れることを潔しとせず、そこで学んだことをご破算にして、すべてをいったん疑うことを決意し、「これからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決意し、青春の残りをつかって」旅をすることにしたのです。

 もちろん、徹底的に考えるために、「自由」という特権を最大限に生かそうと決心するなどという大胆なことが、当時のフランス人のだれにでもできたわけではありません。おそらく、こんな冒険ができたのはデカルトただ一人だったのでしょう。しかし、フランス・パリ盆地の家族類型や平等主義核家族でなかったなら、この「たった一人」のデカルトでさえ生み出せたかどうか疑問です。徹底的に考える「自由」はまさに家族類型がデカルトに保証していたものなのです。」

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