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中山元『わたしたちはなぜ笑うのか/笑いの哲学史』

☆mediopos-2538  2021.10.28

「笑い」についての哲学といえば
ベルクソンくらいしか知らなかったが

この本では近代以降の
デカルト・ホッブズからスピノザ・スペンサー
そしてベルクソン・ニーチェまで
六つの「笑いの理論」が論じられている
(興味のある方はとりあえず引用部分の目次参照)

本書には近代以降において
笑いがどのように生まれるかが
論じられるようになるまえの
古代ギリシアの喜劇やソクラテス・ディオゲネス
そしてルネサンス時代のラブレーや
セルバンテス・シェイクスピアなども
前半に論じられていて興味深いけれど

すべてご紹介するのは難しいこともあり
ここでは「笑いの哲学史」として紹介されている
近代以降のものの論点の紹介にとどめた

著者の中山元によれば
「笑い」は三種類に分けられるという

まず声を出して笑う「おかしみの笑い」
他人に向けた微笑みのような「社会的な笑い」
そして心の中で笑う「批判的な笑い」

おそらく生物のなかで
あきらかに笑う存在は人間だけだろうが
この世に生まれ生きていくためには
まずひとに敵意をもたれないようにする必要から
笑いはまず赤ちゃんの笑いからはじまるような
「社会的な笑い」からはじまる

そしてその笑いが
ふつういわれるような笑い声となり

さらに他人への批判や自分への苦笑のような
心の中での笑いのような
ある意味意識化された複雑な笑いともなっていく

そうした笑いについて
「笑いがどのようにして生まれるのか、
どのようなきっかけで笑いという
人間的な行為が発露されるのか」
といったことに注目しはじめるのは
近代以降のことだという

その「笑いの理論」は主に以下の六つ
(引用でその大まかな考え方を紹介してみた)

心身二元論から説明する理論
優越感という心理的なメカニズムから説明する理論
自由な人々の共同体を形成する社会性に貢献する理論
笑いの放出の理論
同一性と差異のシステムとしての「ずれの笑い」の理論
そして人間の自由を獲得するための批判的な笑いの理論

笑いは他者にむけられつつ
みずからへも向けられる

お笑い芸人は多くじぶんをネタにして笑わせるが
そのことがお笑い芸人への蔑視にはならず
むしろそこに高度な知性が感じられもするのは
笑いを高度に発揮することが
人間の精神の力につながるからだろう

他人を批判する笑いも多くあるものの
それは魂にとっては結局のところ
みずからをスポイルすることにもなる

逆にみずからを
そしてみずからが置かれた苦しい状況さえをも
笑うことのできる力こそが
笑いのもつほんらいの可能性をひらき得る行為ともなる

フランクルのいう
強制収容所での笑いや患者の笑いのような
高度な笑いこそが
「人々の精神を崩壊させないため」の
「貴重な武器」ともなり得る

ニーチェいわく
「笑いは人を自由にし、自由は人を笑わせるのだ。」

■中山元『わたしたちはなぜ笑うのか/笑いの哲学史』
 (新曜社 2021/8)

(「序論 三種類の笑い」より)

「まずふつうに「笑う」という動作にも、いくつかの違いがあることを考えておこう。動作として口を動かし、多くの場合、声を出して笑うのが、もっとも普通の「笑う」という行為だろう。おかしなことを見聞きしたとき、嬉しいときなどには、わたしたちはこのように「笑うだろう」。これは「おかしみの笑い」と名づけておこう。
 これにたいして頬の筋肉を動かすだけで、声を出さずに「笑う」ことも多い。それは「ほほ笑み」とか「微笑」とか呼ばれる。これは楽しい気分になっているときや、他人に挨拶するときなどに、相手に敵意のないことを示すために行われることが多い。他人に向けたこうした笑いは、「社会的な笑い」と呼べるだろう。
 それから動作にまったくださずに、心の中で笑うことがある。自分の愚かさ加減を笑うとか、他者の愚行を笑う場合だ。この場合のは、動作にだすのが好ましくないために、笑いの動作が抑制されることが多い。他者の愚行を笑う場合などには、その他者と別れて、自分部屋に戻ったときに、腹を抱えて笑い直すこともあるだろう。この笑いは、自己や他者に対する批判的なまなざしから生まれた笑いであることが多い。こうした笑いは「批判的な笑い」と名づけておこう。どれも笑いでありながら、その意味と機能にははっきりとした違いがある。」

(「第四章 近代の心身二元論に依拠した笑いの理論と優越の理論」より)

「古代、中世、ルネサンスをつうじて、人々は生活のなかで笑いを撒き散らしてきた。この笑いは、生きられた笑いである。そして笑いを理論化しようとする試みなどは、ほとんどみられなかった。笑いについての考察がなかったわけではない。笑いが人間の活動の一部であるかぎり、笑いの考察はかならず行われるだろう。ただし人々が注目していたのは、笑いがどのような機能を果たすかということよりも、笑いがどのようにして生まれるかということだった。(・・・)
「近代にはいると、笑いが人々のあいだでごく自然に生まれ、何らかの働きをする行為であることよりも、笑いがどのようにして生まれるのか、どのようなきっかけで笑いという人間的な行為が発露されるのかに注目が集まるようになる。たんに笑いが、ごく自然な人間の営みであるとして受け入れられるだけではなく、人間にとってある種の特別な行為として分析すべき対象とみなされるようになった。ときに近代の到来とともに、人間の精神と身体の関係に特別な関心がもたれるようになった。そして笑いがこのような心と身体との関係の特別な表現として、考察されるようになったのである。」

(「第四章 第二節 デカルトの生理学的な笑いの理論」より)

「デカルトは情念が身体に働きかけ、身体を動かすと考えたが、人間が情念の働きかけによって身体的に行動する以前に、こうした情念が身体的な「外的表徴」を引き起こすと考えたのだった。嬉しいときは顔が生き生きと赤くなり、悲しいときは顔が青白くなる。これらは人間の意志を伴わない不随意な反応であり、純粋に生理的なものとして考えられている。そして「笑い」もまた、こうした身体的な不随意な表現の一つであると考えられたのである。」

(「第四章 第三節 ホッブズの優越感の理論」より)

「近代の合理主義にとっては、笑いは理性の方則にしたがうものではなく、身体的な情動の一つの表現とみなされる。こうした笑いの考察を代表するのが、デカルトと同時代人であるイギリスの哲学者ホッブズによる笑いの分析である。ホッブズは、人間をあたかも原子のように、周囲の環境からまったく切り離して、個別に合理的に判断することができると考えた。」
「ホッブズは笑いを心理的な側面から理解するために、それを「突然の得意」の表現と定義する。他者のうちに、「ある不格好なものを認識し、それとの比較から彼らが突然自らを賞賛する」ときに生まれる「顔のゆがみ」なのである。笑いというものは「かれらを喜ばせるかれら自身のある突然の動作によって、あるいは他人のなかになにか不格好なものを知り、それとの比較からかれらが突然自らを賞賛することによって、ひきおこされる」ものである。この笑いは、自己の優越を感じたときに生まれる情念の身体的な表現とみなされているのである。」
「この優越感の理論は、これまで考察してきた笑いの機能の分析との関連では、「社会的な笑い」の枠組みに入るものである。

(「第五章 笑いの共同体の理論 第一節 スピノザの笑いの共同体」より)

「ホッブズの理論的な展開を受け継いで、笑いというものを人間の情動の一つとして考察しながら、笑いの社会性について考察したのが、スピノザである。」
「たがいに愛し合う人々の和合の共同体において、人間はますます大きな善を追求し、ますます大きな満足と喜びを得ようとする。この共同体は、人間がますます完全な存在になろうとする共同体である。
 人間は身体をもつ存在だから、この満足と喜びとは身体的には「笑い」として表現される。(・・・)たがいにほほ笑みと笑いを分かち合う共同体、それは自己の喜びを高め、その喜びを笑いによって他者に伝達し、その笑顔によってまた他者の喜びを高めて行く共同体である。」
「笑う共同体は、不死の精神の永続を信じる自由な人々によって形成される理想の共同体なのである。」

(「第六章 笑いの放出の理論 第一節 神経の緊張の解放—スペンサー」より)

「第四の理論として検討したいのが、笑いが身体的な緊張を解放する役割を果たすという笑いの放出の理論である。
 こうした放出の理論として有名なのが、社会学者のハーバート・スペンサーの笑いの理論である。スペンサーは「笑いの生理学」という有名な論文で、笑いのメカニズムを人間の身体の生理学的な緊張の解放というう動力学的な観点から考察している。」
「スペンサーは、神経系が緊張した状態におかれると、その昂奮を他の回路に伝達して放出しようとするのであり、そのことで笑いが生まれると考える。」

(「第七章 同一性と差異のシステムとしての笑い 第一節 ずれの笑い」より)

「第五の笑いの理論として、「ずれの笑い」とでも呼べるものがあり、これは「同一性と差異のシステムとしての笑い」の理論と呼び替えることができるだろう。この理論は、どのような心理的な条件のもとで笑いが生まれるかを考察するという意味では、「おかしみの笑い」の理論と考えることができるが、笑いが人間の心理の特定の性質によって生まれると考えるのではなく、人間の心のうちで笑いが生まれるメカニズムを構造的なものとして把握しようとするところに、これまでの生理学的な理論との違いはある。笑いを生み出す心理の内容ではなく、型式に注目した理論である。近代の笑いの理論の多くは、この同一性と差異のシステムに注目するものである。」
「このような同一性と差異のゲームの理論を利用しているのがベルクソンの笑いの理論である。ベルクソンは笑いを分析した著作『笑い』で、人間の行為が機械的になったところで笑いをもたらすと主張する。「生けるものの上に貼りつけられた機械的なもの」、それが笑いを引き起こすというのである。」
「ベルクソンは人間が社会のうちで知らず知らずに機械的な生き方をしてしまっていることに批判の目を向ける。笑いが生まれるメカニズムよりも、むしろ人間の笑うべき生き方を明らかにすることをこそ、この著作『笑い』は目指しているのである。」

(「第八章 自由と治療の手段としての笑い 第一節 ニーチェにおける笑う智恵」より)

「近代の笑いの理論の最後の第六の理論は、人間の自由を獲得するための批判的な笑いの理論である。人間を抑圧するものを批判する笑いによって、解放という効果が生み出されるのである。」
「こうした笑いの理論を代表する思想家はニーチェである。」
「ニーチェは、(・・・)善がそうであるように、「他人の不幸をたのしむ意地悪い悦びとか、略奪欲とか支配欲、そのほか悪と呼ばれるあらゆる本能、それらは種族本能の驚くべき経済の一部をなすものだ」と喝破する。
 ニーチェによると、このことに気づかせてくれるのが、笑う者なのである。」
「このような笑う者が登場するとき、初めて「笑いが智恵と結ばれるであろう、そしておそらくそのときは〈悦ばしい知識〉だけが存在することとなるだろう」。『悦ばしい知識』は、こうした笑いと結びついた知識を模索する書物である。「笑いにとってもなお未来というものが必要である」からだ。
 それだからこそ、最後の人間を超える超人を予感させるツァラトゥストラは哄笑するのだ。」
「笑いは人を自由にし、自由は人を笑わせるのだ。」

「この笑いと自由の深い結びつきを語っているのが、強制収容所への収容を体験したヴィクトル・フランクルである。『夜と霧』のなかで彼は、笑いが人々の精神を崩壊させないためにいかに貴重な武器となったかを強調している。」
「フランクルは「ユーモアは人間的実存的なものである」とまで主張する。「患者は、不安を面と向かってみることを、いやそれを面と向かってあざ笑うことを学ばねばならない。そのためには笑うことへの勇気が必要である」。そして心に笑いが忍び込んできたとき、「患者はもう賭けに勝ったのである」。自己を含めた世界を笑いのめしながら「ユーモアをとおして患者はたやすく、自分の神経症の症状をどうにか皮肉り、最後には克服することをも学ぶのである」。この治療の手段としての笑いの効果は、わたしたちがこの閉塞された世界のうちで勁く生き抜くために必須の手段である。わたしたちを圧し潰そうとするものの一切を笑いとばそうではないか。」

◎本書の【目次】

序 論 三種類の笑い
第一章 喜劇の誕生と古代における笑い
第一節 滑稽さ、社会的な絆、批判性
第二節 アイロニーとしての笑い
第三節 風刺としての笑い
第四節 ギリシア小説における笑い
第二章 中世における民衆の笑いの文化
第一節 民衆の三つの笑い
第二節 カーニヴァルの二種類の笑い
第三章 ルネサンスの笑いの文学
第一節 ルネサンスから近代までの笑いの変化

第二節 ラブレー
第三節 セルバンテス
第四節 シェイクスピア
第四章 近代の心身二元論に依拠した笑いの理論と優越の理論
第一節 合理性を重視する近代における笑いの地位
第二節 デカルトの生理学的な笑いの理論
第三節 ホッブズの優越感の理論
第四節 ボードレールの優越理論
第五章 笑いの共同体の理論
第一節 スピノザの笑いの共同体
第二節 カントにおける笑いの社交性の理論
第三節 フロイトの機知の理論
第四節 ニーチェの笑いの共同体
第五節 バタイユの笑いの共同体
第六章 笑いの放出の理論
第一節 神経の緊張の解放—スペンサー
第二節 心的な緊張の弛緩—カント
第三節 心的エネルギーの放出—フロイト
第七章 同一性と差異のシステムとしての笑い
第一節 ずれの笑い
第二節 ベルクソンの笑い
第八章 自由と治療の手段としての笑い
第一節 ニーチェにおける笑う智恵
第二節 フランクルにおける心の武器としての笑い

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