東島沙弥佳『しっぽ学』
☆mediopos3569(2024.8.27)
「しっぽ学(しっぽろじー)」の本である
本書にはでてこない(でてくるはずもない)が
「しっぽ」といえば
ぼくのなかでは吾妻ひでおの
「るなてっく」シリーズに登場している
「シッポがない」というキャラクターである
調べてみるとこのキャラクターは
吾妻ひでおの人気No1キャラクターでもあるそうで
1980年7月から2001年まで活動した
「吾妻ひでおFCしっぽがない」という
関西のアジマニア7名によるFCがあったとのこと
このキャクターがウケたのは
「シッポがある」ではなく
「シッポがない」という
「ある」よりも「ない」
失くすことで喚起される郷愁のためではないか
トカゲのシッポ切りというのがあり
身を守るためにはあえて
自分でシッポを切り落とすが
そのシッポはやがて再生する
神秘学的にいえば
そうした再生能力を失うことで
人間は思考する力を得たのだというが
「シッポがない」ということが
どこかで「あるはずのものがない」
「かつてはあったものを失くしてしまった」
という無意識の郷愁をもたらすのではないか・・・
と余計な前置きが長くなったが
東島沙弥佳『しっぽ学』を手にとることになったのは
その「シッポがない」を思い出し
さらには「しっぽ学」という
これまでどこにもなかった「学-logy」を
歩んできている東島沙弥佳の学者としての姿勢に
共感したからである
専門に閉じ細分化された現状のなかで
これまでになかった横断的な「学-logy」へのアプローチは
「裏切り者」や「半端物」などと
言われたこともあるそうだが
著者にとって「○○学というのは、
何か知りたいことを知るために使う
材料や方法の分類にすぎ」ず
「もっぱら扱っている「しっぽ」というものでさえ、
もっと大きなものを知るためのツール」であって
「しっぽ学というのは、しっぽという
一つの研究対象を様々な角度から見てみることで、
その先に、我々がどのように「ひと」となったのかを
見出そうという研究なのである」のだという
細分化された専門のなかで閉じてしまえば
「何かを明らかにしたいときに
一種類の方法や取り組みだけで」はいまくいかない
著者は「「ひと」を知りたきゃ、まずしっぽを見よ」という
ここでいう平仮名の「ひと」は
生物としての側面である「ヒト」と
人間ならではの側面である「人」とを総合したもの
「ひと」を知るための「しっぽ学」である
さて肝心な「しっぽ」についていくつか見ておくことにする
まず霊長類における
しっぽがある/なしの境界線
英語表現でいえば
しっぽがある霊長類はmonkey(モンキー)であり
しっぽのない霊長類はape(エイプ)である
日本語でいえばエイプは「類人猿」
ちなみに映画の『猿の惑星』の原題は『Planet of the Apes』
さてヒトはおよそ1800万年前の化石では
すでにしっぽを失っていたというが
「この時期に相当する化石がまだ一切見つかっておらず、
ヒトはいつ・どのように・なぜしっぽを失くしたのかは
全く分からない」でいるという
また「ヒトはなぜしっぽを失くしたのか」についても
現在は「緩慢運動への適応説」が提唱されているが
仮説を裏づけるための証拠はなく
また著者はこの仮説にも納得できていないため
試行錯誤しているところだという
「ヒトはなぜしっぽを失くした」といっても
発生生物学的にいえばヒトにも
しっぽが生えていた時期があって
生まれる前までにそれが完全に消えてしまうプロセスがある
胚子期の始め頃胴体が後方へとずんずん伸びていく
「体軸伸長」という時期があり
しっぽが伸びきった直後にわずか2日ほどの間に
「せっかく椎骨の元まで立派に備えて作られたしっぽが、
消え去ってしまう」のだという
最初にふれたように著者の「しっぽ学」は
「「人」の成り立ちを知るのにも、
しっぽが非常に重要な鍵を握っていると考えている」ように
人間ならではの側面としての「人」も研究対象である
そのなかから興味深いところを少しばかり
ルネサンス期以降のキリスト教文化圏では
「悪魔にはしっぽが描かれるが、天使にはしっぽがない」ように
しっぽがネガティブな存在であるのに対し
ヒンドゥー教文化圏では逆だという
それは竜(ドラゴン)に対するイメージとも似ているようだ
日本には九尾の狐というのが知られているが
「善なるものにしても悪なるものにしても、
複数のしっぽを持つ動物は通常の動物とは異なり、
なんらかの力を有していると表現されることが多い」
おそらく上記のことで見えてくるのは
いわゆる西洋と東洋における
自然に対する基本的な捉え方の違いなのだろう
「しっぽ学」が見せてくれる
「ひと」を知るための射程は思いがけず広く深そうだ
■東島沙弥佳『しっぽ学』 (光文社新書 2024/8)
**(「第1章 「ひと」を知るためのしっぽ学」より)
・命名」しっぽ学
*「私にとって世に存在するいわゆる○○学というものは、ある種の材料やツールなのである。」
「動物や植物を対象として行うのならば、それは生物学的な研究材料を用いた生物学的研究である。それらの遺伝子を解析するという研究手法を用いるなら、遺伝学的な研究であるともいえる。このように、私にとって○○学というのは、何か知りたいことを知るために使う材料や方法の分類にすぎないのである。」
「私の場合は、しっぽの謎に迫るために様々な○○学的研究対象や研究手法を取り合わせている。だから一概に、○○学と区分することができない。また、私がもっぱら扱っている「しっぽ」というものでさえ、もっと大きなものを知るためのツールでもある。
そういう意味で広くも狭くも、私が今取り組んでいる研究というのは「しっぽ」という単語の〝しっぽ〟に接尾辞-logyをつけた「しっぽ学(しっぽろじー)」とでも言う他ないのである。もう少し格好をつけていうのなら、私のしっぽ学というのは、しっぽという一つの研究対象を様々な角度から見てみることで、その先に、我々がどのように「ひと」となったのかを見出そうという研究なのである。」
・「ひと」を知りたきゃ、まずしっぽを見よ
*「日本語には漢字に加えて、カタカナとひらがな。2種の仮名がある。(・・・)私は日本語のこういう奥深いところが大好きだ。「ヒト」「人」「ひと」、これらすべて我々を指す言葉ではあるが、単に表記を変えるだけで、それらが意図するところは少しずつ異なるのである。
まず、カタカナで「ヒト」と書くとき、それはHomo sapiensという生物学的な種としての側面を指す。日本の生物学では生物の和名称をカタカナで記するというのが戦後の一般的なルールとなっている。一方、人文学では分野名にも表記されているように漢字の「人」をよく用いる。こちらは、我々の持つ人間らしさや人間性により焦点を絞った表現であろう。加えて、我々には生物としての側面と、人間ならではの側面、その両方が混在している。これを私は総合してひらがなの「ひと」と表現している。
そして、しっぽこそがこの「ひと」の成り立ちを知るための重要な鍵なのだ。」
・しっぽ博士への道
*「研究者の多くは、○○学会に所属している。大学によっては、○○先生のお弟子さんという呼び方をするところも未だに存在する。○○学ならまだ広い方で、たとえば考古学という一つの枠の中でさえ、「石器屋」「古墳屋」といったように自身の専門をさらに囲うような呼称が存在していた。生物学にも、「マクロ」と「ミクロ」という壁があり。それぞれの中にもさらに細分化された枠組みが内包されている。
そういった細かな枠組みの存在に気づいてはいたものの、私自身はそこから飛び出したり越境したりすることに、大して抵抗を覚えなかったように思う。でも、ときどき心ない言葉を浴びせられることもあった。「裏切り者」と言われたこともある。(・・・)
だが、これまで言われた中で最も納得のいかないのは「半端物」という言葉だ。これは未だに覚えている。しかも当の本にはなんの悪気もなく。ただ当たり前のようにそれを口にしたのだ。私のことを初対面の研究者たちに紹介するときに発したその言葉はこうだ。
「この人も含めて、『いろんなことができます!』っていう人は概してどれもこれもが、中途半端なんですよ。なので〝専門家〟の皆さんのフォローが欠かせないと思うんです。
この発言には明確に、専門家=一つの狭い分野を極め抜ける研究者、という意図が含まれていた。この発話者、実は私の友人である。私の研究を「面白い」と言ってくれる人で、だからこそ他の研究者に紹介をしてくれたのであるが、そこで私はこの発言に出会ってしまったというわけだ。
この会話はもうずいぶんと昔のことなのだが、私は未だにこの友人の発言を忘れることができない。いや、忘れてはいけないと思っている。私はしっぽ学を究め抜くために色々な研究手法を用いるが、それを「半端物」だと、一つの道を究め抜けない人間なのだと判断する人がいるのだという自戒の念も込めて。」
*「そもそも、何かを明らかにしたいときに一種類の方法や取り組みだけでうまくいこう方が珍しいんじゃないの? というのが私の持論だ。」
「私は決して、一つの道を極めることが無意味だと言っているわけではない。私自身、しっぽの道を極めようとしているのだか。だが、自分の目的のために様々なツールを使い分けることを半端物だと決めつけるのは、少し違うのではないかと思うのである。」
**(「第2章 しっぽと生物学〜しっぽがしっぽたりうる所以〜」より)
・脊椎動物のしっぽ
*「私がこの本でしっぽと呼ぶもの。それは基本的に脊椎動物のしっぽを指している。」
「しっぽがしっぽたるためには、以下の三つの条件を満たしている必要がある。
それは「位置」と「中身」と「かたち」だ。
まず着目すべきは、「しっぽのようなもの」がどこに生えているかという「位置」である。「お尻に生えていたらいいんでしょ?」という声が聞こえてきそうだが、ことはそう単純ではない。(・・・)
我々脊椎動物の体では、下肢の付け根に肛門あるいは総排泄孔が開口しているのだが。脊椎動物のしっぽというものが全てそうした排泄孔よりも後ろに存在している。だから、臀部より後方に存在することになり、その点は正しい。だが、お尻に生えているだけでしっぽだとするんはまだ早い。その突起は、体のちょうど真ん中から生えているかどうか、それも大事な位置の要素である。
これは、「中身」とも関連するしっぽの二つ目の条件だ。(・・・)一般的にしっぽの中には、胸部や腹部と全く同じように、椎骨があり筋肉がある。胴体との唯一の違いは、内臓を納める腔所(体腔)を持たないことくらいだ。そのため多くの脊椎動物はしっぽを自在に動かせるのである。
最後の条件が、その「かたち」だ。(・・・)しっぽと呼ぶためには、それが「体の外に突出していなければならない」のである。」
**(「3章 しっぽと人類学~「ヒト」へと至る進化の道のり~」より)
・しっぽがないのは誰だ!
*「ここに5種類の霊長類の写真を並べてみた。これらの写真のどこかに、しっぽがある/なしの境界線を引くことができるのだが、さあ、それは一体どこだろう?」
「なんとニホンザルとテナガザルの間なのである。この線を境に左側はしっぽのある霊長類たちで、右側はしっぽのない霊長類ということになる。
そして左側のグループを英語では一般名称としてmonkey(モンキー)、右側のグループのことをape(エイプ)という。エイプは日本語だと類人猿という言葉に対応するのだが、「猿」という言葉の指す範囲が非常に広いために、類人猿もサル(モンキー)だと思われてしまう節がある。だが生物学的には、しっぽのある/なしで明瞭に分けることのできるグループなのだ。」
「『猿の惑星』という映画のタイトルは『Planet of the Apes』。そう、エイプなのだ。モンキーではない。チンパンジーやオランウータンは、しっぽのない類人猿・エイプなのだ。」
・いつ、しっぽを失くした?
*「いつから我々ヒト上科にはしっぽがないのだろうか?」
「ヒト上科におけるしっぽ喪失の歴史を考える上で重要な化石は。これまでに主に2種類発見されている。」
「一つ目の化石は、オナガザル上科とヒト上科の共通先祖だと考えられているもの。エジプトで発見されたエジプトピテクス(Aegyptopithecus zeuxis)という約3300万年前の化石である。」
「二つ目は、ヒト上科の共通祖先だと考えられている生物の化石である。およそ1800万年前から1550万年前に生息していたと考えられる霊長類であり、これまでに複数種の化石が発見されている。」
「しっぽの喪失はヒトへ至る道のかなり根幹的なところで生じた一大事だった。ただ、肝心なところに謎が残っている。現時点で、しっぽがある段階の化石ともうしっぽがない段階の化石が発見されているため、我々ヒト上科の祖先はこの間のどこかでしっぽを失くしたということは確かだ。しかし、この時期に相当する化石がまだ一切見つかっておらず、ヒトはいつ・どのように・なぜしっぽを失くしたのかは全く分からない。
これこそが私を惹きつけてやまないミステリーだ。」
・なぜ、しっぽを失くした?
*「ヒトはなぜしっぽを失くしたのか、という話をすると、「二足歩行と関係があるのではないですか」と聞かれることはときどきある。」
「だがこれ、とんでもない誤解なのである。(・・・)ヒト上科におけるしっぽの喪失と二足歩行には、一切関係がない。完全な誤解である。」
「つい最近の2000年代くらいまで広く信じられていたのは、ぶら下がり運動としっぽの喪失に関連性があるのではないかとする説である。ここでは「ぶら下がり運動適応説」とでも名づけておこう。」
「なんだか筋の通りそうな話ではある。そのため、この仮説は長らく信じられてきたのだが、しかし、現在では正しくないことが明確になってしまっている。」
「「ぶら下がり運動適応説」に代わって提唱されるようになったのが、緩慢な運動としっぽの喪失の関連性を疑う仮説である。「緩慢運動への適応説」とでも呼ぶことにしよう。」
「ゆっくり動くことで、バランス維持のためのしっぽが不要になり、退化したのだろうとするのが、この「緩慢運動への適応説」の骨子である。
だがこの仮説には、大事なものが欠けている。それは、仮説を裏づけるための証拠だ。」
「私自身はこの仮説にどうもうまく納得できない。なので、これをどうにか検証できないかと試行錯誤しているところなのである。(・・・)ヒト上科に至る道のりでなぜしっぽがなくなったのかは、このように一切分かっていないのである。」
**(「第4章 しっぽと発生生物学~ヒトはしっぽを2度失う~」より)
・ヒトはしっぽを2度失くす?!
*「私は我々ヒトにはしっぽがないと言ってきた。だが、もっと正確にいうならば、現時点ではしっぽが生えていなくとも、我々ヒトには誰しもこれまでの人生で一度はしっぽが生えていた時期があるのだ。(・・・)ヒトにしっぽが生えているのは、ヒトとして生まれる前の段階だからである。
受精卵から、我々個体の体のかたちが作り上げられる過程のことを発生過程という。その段階で、なんとヒトにも一度はしっぽが作られる。だが、誠に残念なことに、そのしっぽは生まれる前までの完全に消え失せてしまうのである。ヒトという種に至る進化の過程、そして個体がかたち作られる発生の過程、ヒトは2回もしっぽを失くしてしまっているのである。
進化の謎を解く鍵は、発生過程に隠れているのではないだろうか。」
・しっぽはどうして消えるのか?
*「40週という妊娠期間のうち、最初の10週までの体の大まかなかたち作りが行われるのだが、このかたちを作り出す発生段階のことを一般的に「胚」と呼ぶ。」
「ヒトにしっぽが生えているのは、この胚の時期(胚子期)だ。たとえば妊娠およろ7週目の段階で、我々には図4-2のように大変立派なしっぽが生えていた(17番)。だがしかし、発生が進むにつれこのしっぽは完全に失われてしまう。」
「なぜ、一回は生えたしっぽを完全に失くしてしまうのだろう。」
「しっぽの発生については。実はほとんど分かっていない」
・伸びて止まって、そして縮む
*「ヒト胚体節を可視化してみると、どの段階でもしっぽの先端までびっしりと、体節が存在していることが分かった(図4-4)。
まず胚子期の始め頃には、胴体が後方へとずんずん伸びていく時期がある。これを体軸伸長というのだが、この時期には無論、しっぽ部分の体節数もぐいぐいと日を追うごとに増えていく。そしてある日、この体軸伸長はストップする。ここまでは、従来の発生生物学で明らかにされていたことと同じだった。
だが、しっぽが見せてくれたのはその先である。ヒト胚のしっぽは、この体軸伸長が停止した直後(最長となった直後)、一気に5対分も消えてしまうということが分かったのだ。しかもそれがわずか2日のうちに生じる。40週もあるヒトの妊娠期間のうちのたった2日。そのわずかな間に、せっかく椎骨の元まで立派に備えて作られたしっぽが、消え去ってしまうのである。」
*「ヒト胚を用いた私の研究はそこに新たな一ページを加えたのだ。すなわち、ヒトのようにしっぽのない生物の発生過程におけりしっぽの形成プロセスでは。しっぽは伸びて止まって、さらに縮む。「縮む」という新規の発生現象の存在を突き止めることができたのである。」
**(「第5章 しっぽと人文学 ~しっぽから読む「人」への道のり~」より)
・しっぽにまつわるエトセトラ
*「現在の我々は生物学的に「ヒト」であると同時に、人間性あるいは人間特有のものの考え方を備えた「人」でもある。第1章でも述べたことであるが、私はこの「人」の成り立ちを知るのにも、しっぽが非常に重要な鍵を握っていると考えている。
「人」の成り立ちは、決して骨や筋肉のかたち、ゲノムからは垣間見ることができない。人間性というのは確かに存在しているはずなのに、しっかりとこの手に掴むことができない不可思議な存在である。私は、「人」が残してきた歴史文献や考古遺物、絵画など幅広い資料に見られるしっぽの表現とその変遷を見ることで、「人」への道のりをなんとか解明できないかと日々苦心している。」
・しっぽの生えたヒト、ふたたび
*「十把一絡げに論じることはできないが、キリスト教文化圏においてはしっぽ、とくにブタのしっぽというのは、あまりよいものではないらしい。(マルケス『百年の孤独』、J・K・ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』の例)
「小説以外にも、たとえばルネサンス期の宗教画(ミケランジェロ「聖アントニウスの苦悩」など)を見ると、悪魔にはしっぽが描かれるが、天使にはしっぽがない。フランス語ににも「悪魔のしっぽを引っ張る(tirer le diable par la queue)」という言い回しがあり、どうやら天使は堕天するとしっぽが生えるらしい。あくまで傍証にすぎないが、しっぽに関する表現を集めれば集めるほど、少なくともルネサンス期以降のキリスト教文化圏では、しっぽはどちらかというとネガティブな存在であるという印象が強い。
だが一方で、ヒンドゥー教文化圏におけるしっぽのイメージは180度異なるようである。」
「同じしっぽという対象であっても文化圏、とくに宗教観が違うと、その指すところが大きく異なる可能性が高い。そういった認識の違いや変遷こそが「人」を知る手がかりになると私は信じている。」
・しっぽの向こうに何をみる?
*「善なるものにしても悪なるものにしても、複数のしっぽを持つ動物は通常の動物とは異なり、なんらかの力を有していると表現されることが多い。(・・・)私はこうした空想上の動物におけるしっぽというものが人間を取り巻く自然環境や、人智のおよばない自然災害の比喩として登場している可能性を考えている。ヒトにはない器官のしっぽを持つか持たぬか、あるいはそれを何本持つのかというのが、人の御しえない自然の力の比喩なのではないだろうか。
また、同時に大変興味深いと感じるのは、こうした変形しっぽを持つ動物の表現が古代から我々の生きる現代まで、ずっと存在していること、かつその表現方法に変化はあることだ。現代の我々にとって、しっぽは「おそろしい」や「ありがたい」ではなく。むしろ「かわいい」対象物である。」
「我々「人」が紡いできたしっぽに関する表現を注意深く読み解いていくことで、しっぽの向こう側に我々は何を見てきたのかが分かるのではないだろうか。」
*「「人」の成り立ちは「人」が遺してきたものからしか解明できないと私は信じている。しっぽの生えたヒトに関する表現からは、先天異常の可能性の他に、自身と社会的背景や居住地の異なる人間をどう捉えていたかを読み解けるかもしれない。一方で、多尾動物など動物のしっぽに関する表現からは、人間が自身を取り巻く自然環境やそこに生息する動物たちをどのように捉えていたかのヒントが得られるかもしれない。」
□東島沙弥佳(とうじまさやか)
一九八六年、大阪府生まれ。奈良女子大学文学部国際社会文化学科卒業。京都大学大学院理学研究科生物科学専攻博士課程修了。博士(理学)。京都大学大学院理学研究科生物科学専攻研究員、大阪市立大学大学院医学研究科助教を経て、現在は京都大学白眉センター特定助教。専門はしっぽ。ヒトがしっぽをどのように失くしたのか、人はしっぽに何を見てきたのかなど、文理や分野の壁を越えてしっぽからひとを知るための研究・しっぽ学をすすめている。本書が初の単著。
◎東島沙弥佳のホームページ
◎東島沙弥佳 (しっぽの人、コアラの人)(X)
◎東島沙弥佳 講義動画
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