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C・G・ユング『意識と無意識』(ETHレクチャー第2巻)

☆mediopos3566(2024.8.24)

ETH(スイス連邦工科大学)レクチャーの第一巻
『近代心理学の歴史』に続き
翌一九三四年の夏学期に行われた二つ目の講義録
『意識と無意識』(全12回の連続講義)が訳されている
(第一巻『近代心理学の歴史』については
mediopos-2116(2020.9.1)でとりあげている)

この講義の目的は前年度の講義とは異なり
対象となっているのは一般聴衆であり
ユング心理学を知るための入口となる基礎的な概念である
「意識と無意識」という考え方
「思考」「感情」「感覚」「直観」という
私たちが世界と関わるための四つの心的機能や
「タイプ」によって変化する世界の様相
「言語連想検査」の方法とその事例
「夢の臨床」に関する事例などについて説かれている

この講義が行われた一九三四年の時点ですでに論じられていた
「内向と外向」「ペルソナ」「アニマ/アニムス」といった概念や
ユングがこの頃没頭していた錬金術に関することについては
ほとんど語られてはいない
一般聴衆向けの入門的なものとして
わかりやすく伝えることを講義の目的としていたようだが

たとえば第2講の最初に
「「心に単純なものはありません。
「単純な」検査があると言われますが、
そんなものは存在しないと断言しましょう。」
と語られているように

「心の現象」を安易に図式化したり
わかりやすく単純化したりすることなく
ほんらい謎に満ている「心」のことを
できるだけそのまま伝えようする姿勢が貫かれている

今回はその12回の連続講義の前半の内容から
テーマのいくつかについてふれておくことにしたい

第2講では「意識と無意識」という考え方の
基本的な前提となるものが示唆されている

「心に単純なものはありません」というように
心的なプロセスに関しては
「事実を忠実に伝えることはほとんど不可能」だという
「意識とは別に、無意識の過程という
明確に定められない大きな領域が存在していて、
私たちが気づかないうちに、それはいつでも入りこんでくる」
からである

私たちの意識はごく小さな範囲に限られていて
ある程度明確にすることができるのは
「意識が集中した状態にあるときに限ら」れる
「意識が集中すればするほど、意識の対象の数は少なくな」る

魂は全体であるのに対して
「意識は海上の小さな島のよう」であり
「魂の一部」でしかないため
「全的な人物でありたければ、
無意識の話を聞く準備も常に整えておかねば」ならないという

第3講からは「感覚・思考・感情・直観」という
世界の捉え方を中心に基本的な概念が説かれていく

「意識」とは「一つの構造化された有機体」であり
「感覚・思考・感情・直観」といった
さまざまな機能を区別して見ていくことができる

その「心的大系の諸機能を、平面的な円形で表すと」
「思考と感情」「感覚と直観」を対極にもった
方位図形として表現することができる

思考と感情はともに合理的機能をもつとされるが
それに対して感覚と直観は合理的ではありえない

また両者の間には一定の矛盾があり
思考が優勢であれば感情は劣勢
逆に感情が優勢であれば思考は劣勢である
感覚と直観についても同様である

そして「誰であっても、四つの機能すべてを
同じだけ使うことはでき」ない
思考も感情もともに優勢だったり
感覚と直観がともに優勢だったりすることはない

しかもそれらの機能は
「中心にある「私」と結びついてい」て
「〈私〉と結びついているものだけが意識される」
逆にいえば〈私〉と結びついていないものは意識されない

注目すべきは第5講で
ほかの著作や講義では論じられていない心の機能である
「意志」が第五番目の機能として位置づけられている

それは上記の四つの機能の上位にあって
「〈私〉の中心的な機能」であるという

しかもこの「意志」は「本能ではなく、
文化の歴史によって獲得されたもの」だといい
「通過儀礼によってそうした気分に押し込められなければ、
自由に使えるエネルギーを持た」ない

「意志は人間が達成したものであり、
そのためそれは常に高度な文化の印」であるという

ある意味で「意志」を獲得するということと
「私」という個としての意識の成立は
深く関係しているともいえるかもしれない

かつて意識は集合的なものだったからだろう
それが自我の成立にともなって
「文化的」に生まれてきた・・・

ユングにとって〈私〉とは
「実際にはほとんど知ることのできないもので、
高度に神秘的な、大いなる謎」であるという

その「大いなる謎」としての〈私〉こそが
錬金術的なプロセスを経て
〈個性化〉へと向かう可能性を含んだものだというのが
ユングの心理学的探求の根底にある

■C・G・ユング(E・ファルツェーダー 編集/河合俊雄監修・猪股剛・宮澤淳滋・長堀加奈子訳)
 『意識と無意識』(ETHレクチャー第2巻,1934/創元社 2024/6)
■C・G・ユング(林道義訳)『タイプ論』(みすず書房 1987/5)
■C・G・ユング/E・ファルツェーダー編
 (河合俊雄編 猪俣剛・小木曽由佳・宮澤淳滋・鹿野友章 訳
 『ETHレクチャー版第1巻 一九三三-一九三四 近代心理学の歴史』(創元社 2020.8)

**(C・G・ユング『意識と無意識』
   〜河合俊雄「監修者によるまえがき」より)

*「本書は、一度はアカデミックな世界から身を引いたユングが、ETH(スイス連邦工科大学)での連続講義をはじめるという形で大学に復帰し、既に邦訳の出ている『近代心理学の歴史』について最初の年に話した後で、翌一九三四年の夏学期に行った二つ目の講義の記録である。前年とは違って、もっとユング自身の心理学について語ってほしいという要望に答えて、「意識と無意識」という題での講義となっている。

 この頃からユングは、もっぱら錬金術の研究に没頭していくが、編者も指摘しているようにそれはこの講義には反映されていない。さらにユングの立場を、『自我と無意識の関係』を代表作とし、まさにそのタイトルが示すように自我をまず立てて、それに対して現れてくる無意識のイメージ像との関係を検討していく前期と、最晩年の大著『結合の神秘』に結実していくような結合そのものに心理学的に迫っていく後期とに分けると、本書のタイトルはその前期の立場に基づいているような印象があるが、そうでもない。ここではいわばもっと初期の、タイプ論や言語連想実験に基づくコンプレックスについての話は中心になっていて、最後に夢の倫理学が付け加えられているわけである。」

*「こころ、意識、無意識について原理的な考察を行った後、第3講からユングはタイプ論の解説に移っていき、ユング自身の心理学を語ってほしいという聴講者たちの要望に答えていく。ただし大著『心理学的タイプ論』の大部分が有名な内向と外向の区別を扱っているのに対して、この講義では意識に焦点を当て、意識の機能を明らかにしようとしたためか、思考、感情、感覚、直観というこころの機能についての解説が主になっていて、なかなか魅力的な語り口でそれぞれの機能を紹介している。興味深いのは、この四機能に加えて、それらが「中心である『私』と結びついている」と述べられていることである。これらの機能は、「私」に結びつかない限り機能せず、意識的にはならないというのは繰り返し強調されている。「私」は、「自分が『そのようになることSo-sein』に対する意識」として定義されている。また「私」の中心的機能として「意志能力」が挙げられている。

 この講義が英語で出版されているために、「私」と訳されている〝the I〟ということばが、講義のなされた言語であるドイツ語に戻したときに「私」という意味なのか、〝das Ich〟として「自我」という意味なのか少し判然としないことがあるが、私の機能の重要性についてふれているのは注目に値する。われわれは発達障害に心理療法的アプローチすることによって、その問題を主体性の弱さとして捉えていった(『発達障害への心理療法的アプローチ』)が、それはまさにこの私の機能と関係しているように思われた。

 また「私」ということを強調する逆の要因、四機能についても意識的なものも無意識的なものも存在することが解説されているのも興味深い。」

**(C・G・ユング『意識と無意識』〜「第2講」より)

*「心に単純なものはありません。「単純な」検査があると言われますが、そんなものは存在しないと断言しましょう。」

*「外的なプロセスではなく、心的なプロセスが関係している場合、事実を忠実に伝えることはほとんど不可能です。心的事実を報告する際、私たちの能力はひどく限られているのです。(・・・)意識とは別に、無意識の過程という明確に定められない大きな領域が存在していて、私たちが気づかないうちに、それはいつでも入りこんでくるのです・

 この無意識は、何か特別なことが起こったときだけでなく、いつでも存在しています。とにか、それは常に意識よりもずっと生き生きとしています。」

*「私たちの意識は非常に限られています。それは範囲が狭く、多くのことを同時に扱うことはできないのです。内容を完全に明確にすることができるのは、意識が集中した状態にあるときに限られます。意識が集中すればするほど、意識の対象の数は少なくなります。意識がある程度リラックスすると、その内容の数は増えるかもしれませんが、それらはもはや明確ではなくなります。意識の中にそのような対象が非常に多くなると、意識は平板になり、その表現も平準化されます。」

*「カントは、世界の半分を占めるような「不明瞭な表象」の領域について語っています。ここで、この無意識的な世界の上を丸い円盤のように漂っているとも言えますし、意識は海上の小さな島のようであるとも言えます。意識は決して魂と同一視することはできません。それは魂の一部でしかなく。おそらくは非常に小さな部分であるにすぎません。魂は全体です。もしあなたが、全的な人物でありたければ、無意識の話を聞く準備も常に整えておかねばなりません。」

**(C・G・ユング『意識と無意識』〜「第3講」より)

*「意識とは、ある普遍的な状態のことではなく、一つの構造化された有機体です。私たちは意識のさまざまな機能を区別することができます。」

*「内側を「内的領域」、それに対応した目に見える世界を「外的領域」と呼ぶこととします。私たちが出会う最初の機能は、感覚機能です。それは、五感によってもたらされるものの知覚に寄与します。(・・・)

 定義上、こうした知覚に含まれるのは感覚だけです。つまり、それは物質がきっかけとなって感覚器官もたらされた刺激にすぎず。それが脳や意識に伝えられるにすぎません。」

「通常、感覚の直後には、ある種の原始的な思考が現れます。つまり、この感覚刺激は何を意味しうるのかという問いが現れるのです。実際の体験では、この思考は、感覚的知覚そのものに結びついています。それはあたかも、その対象が何であるのかを、私たちの目が教えてくれているかのようです。しかし、現実には、目は視覚的イメージを提供するだけで、その実際の事物については何も教えてはくれません。」

「思考の次に現れる機能が、感情です。ある事物が何であるかがわかると、通常そのことによってある種の感情が私たちの中に喚起されます。(・・・)

 感情は、「快」「不快」といった評価です。(・・・)しかしながら、感情の強度にはさまざまな度合いや程度があります。」

*「こうした三つの機能を知ると、意識の過程全体についてとてもよくわかるようになります。しかし、あと一つまだ説明していない機能があります。ある事物が、何であり、何を意味し、それを私たちがどのように価値づけるのかがわかっても、まだその事物のすべてをはっきりさせたわけではありません。」

「直観は「無意識的な媒介を経た知覚機能」と定義されます。どのように直観が知覚するのか、あるいは実際何が知覚されるのかということを示すものはありません。直観は、他の人々の中にある感情や、思考や、ファンタジーを知覚します。」

「知性そのものは、Ahnung〔直観〕の機能が伴わなければ、奇妙で無益な機能です。直観は、きわめて「非正規の」方法で知覚を行います。こうしたものごとがどのように頭に入ってくるのか、まったくわかりませんので、私は直観を、無意識を通じて生じる特別な知覚機能であると定義したのです。」

*「この心的大系の諸機能を、平面的な円形で表すと、非常に単純な方位図形になります。」

「諸機能は四方位に据えられます。この機能は点から点で気まぐれに動かせますが、お互いの関係は動かせません。そこは固定されています。しかし、一つ重要なことがあり、つまるそれは、こうした機能には不思議なことに相互に関係がある、ということです。ここで思い至るのは、思考機能と感情機能の間には一定の矛盾があるということです。両者の間には変わることのない対立があり、ある種の戦争があるとさえ言えます。ある対象について何かを感情でとらえたとすると、それについて同時にしっかりと思考することはできません。」

「同じことが、感覚と直観においても観察されます。」

「対象の感覚や知覚が、直観と同時には成り立たないように、直観も対象の正確な感覚や知覚を除外しています。純粋に直観的な人は対象の正確な感覚や知覚を除外しています。」

*「このように、互いに交わる四機能からなる一つの大系を、私たちは携えています。対立する対が二つありますが、それらはもう一つ別の点でも異なっています。つまり、思考と感情は両者とも合理的機能であるとされます。特に思考はそうですが、感情もまた合理機能であり、なぜなら適応するためには、合理的価値や、美的価値や、倫理的価値を持たねばならないからです。しかし、感覚や直観が合理的であろうとしたら、それは大いなる過ちでしょう。観察しているときに「合理的な」態度をとるならば、予想されるもの以外を見出すことはできません。同様のことが直観についても言えます。ある程度洗練された志向が心にあると、直観を働かせることはできません。この二つの機能の本質は、たとえそこにあることが期待されていないものであっても、まさしくそこにあるものを知覚することです。」

*「それぞれの機能には、それに内在する特有のエネルギーがあり、つまりある一定の心的エネルギーが備わっています。もし一つの機能が抑制されれば、エネルギーの喪失が起こり、そのエネルギーは無意識の中に退散させられ、何らかの障害を引き起こします。ある程度は、これらの機能を自分の意のままに使用できます。つまり、私たちはそれらを応用できるので————高めたり減じたりできるということです。原則的に、これがすべての機能に当てはまりますが、しかしながら一つ制約があります。誰であっても、四つの機能すべてを同じだけ使うことはできません。」

「思考に専念する人は、感情が劣等になります。と言うと、思考タイプの人はみな、自分がいかに素晴らしい感情を抱いているかを語ってきかせようとするでしょう————このことが、私たちの説の正しさを証明しています————というのも、そうすることで彼は自分が感情をコントロールできないことを証明しており、結果的に深いな邪魔者としてそれらを抑制しなければならなくなっているのです。逆もまた然りで、非常によく分化した感情を持つ人が、本当にびっくりするようなある種の古めかしい思考を披露することがあります。通常、これはあまりにもきまりの悪いことなので、こうした問題は隠されたままです。多くの偉大な思想家は、女性をとても恐れることが知られていますが、それは女性たちが思想家たちの感情に影響を与えるからです。思考タイプは自分の感情をかき乱される状況を避けるため、結局は、家政婦と結婚するのです!」

*「こうした機能に加えて、私たちは意識の中にある他のことについても、言及しておかなくてはなりません。というのも、機能は中空に浮いているのではなく、中心にある「私」と結びついているからです。機能は〈私〉の活動として現れるかもしれませんし、あるいは反対に、〈私〉が機能の対象として、つまり機能の犠牲者として現れるかもしれません。なぜならこの〈私〉と結びついているものだけが意識されるからです。〈私〉はさまざまな心的・有機的事実の複合体です。〈私〉は身体の物理的現実と、身体に関連した一般的感情によってもたらされます。したがって人々は自分の身体を指して、「これが私です」と言います。しかし、心的プロセスもまた、否定できない現実です。」

**(C・G・ユング『意識と無意識』〜「第5講」より)

*「今日は諸機能の理論に関する議論を終わらせて、別の事実について考えてみましょう。一つの特別な機能があり、それは他の機能の上位にあり、意志の特性を備えています。つまりそれは、意志能力(Willensvermögen)という機能であり、要するに意志です。もしそれが他の機能と同等だとすれば、第五の機能と呼べるでしょうが、それは上位にあって、〈私〉の中心的な機能とみなしておく方がよいでしょう。このことは一定量のエネルギーは、携帯用や貯蔵用に取っておかれているもののように、意識の中で自由に利用できる、という事実を反映しています。この心的に利用可能なエネルギーは、意識が自由にできるのです。そのため人は、たとえば思考や感情に集中して携わることができるわけです。意志によって諸機能を方向づけたり、強めたり、弱めたり、押さえつけたりすることができます。そのため、それは〈私〉に備わったダイナミックな機能です。この機能は明らかにある種の条件に左右されます。あらゆる環境で意志が使えるわけではありません。意志はときおり他の状況によって妨げられ、つまり〈私〉から生じる衝動性の高まりや欲動によって阻害されます。しかし〈私〉が消耗していなければ、意志は携帯用に蓄えられた力を完全に自由に使うことができまし。ただし意志は実際の枯渇しうるものです。疲れたときには、意志が弱まって、ある種の意気消沈に陥るでしょう。

 しかし、意志は本能ではなく、文化の歴史によって獲得されたものです。(・・・)

 未開人はそのような意志を持ち合わせていません。意志は欲動ではないからです。未開人の中にあって意志のように見えるものは、実際には彼らの欲動です。言い換えれば、彼らは自分たちの望むものを「意志」することはできません。」

「通過儀礼 rite d'entoréeによってそうした気分に押し込められなければ、自由に使えるエネルギーを持たないのです。意志は人間が達成したものであり、そのためそれは常に高度な文化の印なのです。」

*「ここで心的な機能の別のグループに目を向けてみましょう。(・・・)基本的な心的状態と言った方が適切でしょう。ここに一つの図を示します。

 意識は限られた領域として示され、この図の場合には、その領域の中で感覚が最も強力な機能となっています。(・・・)これらの感覚的な知覚は、それが「私」と結びつかない限り、決して意識的にはなりません。〈私〉が中心であり、あらゆるものが〈私〉に関連します。〈私〉とは私たちに最も近しいものですが、実際にはほとんど知ることのできないもので、高度に神秘的な、大いなる謎です。〈私〉と結びつかないもので、意識的なものなど何もありません。私たちはそれを外側から描写できるだけです。」

「私が感覚や思考を持つとき、それらの内容は単なる与えられた事実ではなく、私たちの内側から現れたものがそれに付け加えられています。(・・・)つまり私は、始めに内的な理念を抱かないまま、単独の思考をすることなどできないのです。というのも、心はタブラ・ラサ tabura rasa、つまり何も書かれていない関場ではないからです。」

「感覚あるいは知覚を持つときには、一つの事実が内側から他を押しのけて出てきているのです。(・・・)あなたは常に何かをあえて押し込めているでしょう。もし誰かに「何を考えているのですか?」と問われれば、あなたは何かを選び出して、それ以外のものを締め出すことになります。あなたは主要な考えを抱き、それ以外にも多くの二次的な思考を持っていて、賢明にもそれを自分の内側に留めておいているのです。そのようにしなくてはなりません。というのもそうしなければ、個人が存在しなくなってしまうからです。そうでなければ、私たちは本当に全員が同じ人間になって、シロアリのようになるでしょう。これらの二次的な思考によって、〈私〉は、あらゆる秘密をしっかりと封印する守護者となるのです。ここで私たちはすでに無意識のそばまで近づいています。そこには思考されない方が望ましい事柄が、すべて収められているのです————これがいわゆる抑圧です。」

*「一方で、空虚な領域としてイメージすることができる〈私〉の内的領域は、経験が刻み付けられる可塑性のあるもので、つまり、鋳型であり、可塑性のある心的な塊に、記憶やいわゆるエングラムが押し付けられるのです。他方で、この「内側」は単に過疎的な面であるだけではありません。それには独自の生命が宿ってもいて、感情爆発affectや情動emotionといった非常に力強いものを生み出すこともできます。」

「このように、そこには第三の層、つまり情動の層があります。それはよく感情と混同されますが、それとは異なるものです。感情は常に価値づけと関わっており、それは価値づける機能です。一方で、情動は不随意なもので、感情爆発では必ずみなさんが犠牲者です。」

「四番目は、情動を超越したものに関わるグループあるいは層です。情動は実際には主として、生理学的影響によって特徴づけられた状態で、正確には定義するのが難しい感情爆発のありさmです。しかしこの層においては、いわゆる無意識からの侵入が見られます。その内容に触れることはできますし、それを言葉にすることもできます。」

**(C・G・ユング『意識と無意識』
   〜猪股 剛「解題 「ユング心理学入門」講義」より)

・選ばれたテーマ

*「本書には、ユング心理学を知るための入口となる基礎的な概念がていねいに紹介されている。それを羅列的に記してみると、一:「意識と無意識」という考え方、二:世界と関わるための「四つの機能、思考・感情・感覚・直観」、三:「タイプ」によって変化する世界の様相、四:「言語連想検査」の方法とその事例、五:「夢の臨床」に関する事例を通じた解説など、である。」

「実際のユング心理学には、この一九三四年時点ですでに、他にもいくつもの概念や考え方がある。たとえば、「内向と外向」、「ペルソナ、アニマ/アニムス、老賢者といった人格化する心」については、本講義でもわずかに取り上げられているが、第九講の冒頭で聴者から質問があったにもかかわらず、ユングは単に用語だけ説明しても意味がないと言って、それを詳述せず、質問を退けている。また、「自己」や「元型と、集合的で歴史的な心」についても、第6講と第七講で、心の構造の中には位置づけられているものの、その現象についてほとんど解説していない。(・・・)

 ユングがこのような選択をした理由はいくつも想定できるが、一つには(・・・)あえて一般聴衆に向けて、ユング心理学の深層を語る必要を感じていなかったのかもしれない。また、ユング心理学の深層を一般に向けて語るためには。まだその準備が整っておらず、まずは最もわかりやすい入門的なことを伝えたいと思ったのかもしれない。」

・ユング心理学の基本姿勢

*「一般的に、ユングの文章は分かりにくいと言われたり、矛盾したことを言っていると解釈されることがあるが、彼は敢えてそのように語っているのであり、そうやって生きた心と関わり、それを表現しようとしているのである。そのことが、このようなユングの語りを聴いていると、とてもよくわかってくる。とは言っても、そのような矛盾を含んだ心の状態や、二重の意味を含んだユング心理学を理解していくのは、おそらくとても難しいことである。だからこそ、「忍耐のうちに、あなたは魂を携えているのでしょう」という言葉で締めくくられる第一講は、ユングの心に対する基本姿勢を明確に語り出しており、それは、心理臨床で心に関わる私たちにまさしく必要な姿勢であり、私たちが肝に銘じておかなくてはならないものなのである。」

*「続く第二講では、同じものを見ていてもそれぞれの人によって実は捕らえられている現実が違うことがチボリ庭園の例などを使って解説され、「心的なプロセスが関係している場合、事実を忠実に伝えることはほとんど不可能」(p.012)であると言われる。同じものを見ていてもそれぞれの人の現実に差異があるのは、そこに必ず心的なプロセスが関わっているからだというのである。そして、意識は努力によって成立しているものであり、疲労を感じれば、意識性は当然低下し、無意識的な心的プロセスに身を任すことになるため、自分の知る現実を制御することもかなわない。常に意識的であり続け、自分や自分の体験している現実をすべて客観的に外側から語り出すことは、そもそもできないのだという。だからこそ心理学は、心の外側にアルキビアデスの点を持ちえないことを知り、絶対的な客観が成立しないという自覚から作業を始めるのである。」

・ユング心理学の基礎概念

*「第三講以降は、いわゆる入門的なユング心理学の概念がひとつ一つ提示され解説されていく。感覚・思考・感情・直観という世界の捉え方は、ユング心理学ではとても基礎的な考え方であると同時に、現代ではMBTI性格診断として多くの人々に関心を持って受け入れられている性格に関するタイプ論である。ただ現代の性格診断としてのそれは、他者とのマッチングのために使われているようである。自分が世界をとらえる際の傾向や自分のタイプを知ることは、心を知り、他者を知り、世界の多様なあり方を知ることにつながっていくことが、性格診断の中では理解されていなように思える。(・・・)ユングがここで解説しているのは、知れば知るほど記号化が不可能となる本質的なタイプ論である。特に、第四講で詳細に示される直観の実例は、世界の多様なあり方に開かれていると言えるだろう。」

*「第五講ではユングの他の書物ではほとんど見受けられない心の機能として、「意志」を第五番目の機能として位置づけており、これは注目に値するものである。「意志によって諸機能を方向づけたり、強めたり、弱めたり、押さえつけたりすることができます。そのため、それは〈私〉に備わったダイナミックな機能です」(p.039)と言われている。意志は、一般的に深層心理学の中ではとても不安定な弱々しいものとして語られることが多く、意志に偏重して頼ることが、心を機能不全にしてしまい、だからこそ、無意識に注目する心理学が必要になる、と言われることさえ多い。しかし、ここでユングは、意志を重要な第五の機能として解説しており、それが〈私というもの〉を成立させる重要な機能であるとしている。そして、アフリカやオーストラリアの先住民の例を引き合いに出して、それがなければ、集合的な状態や集団の傾向に飲み込まれていくことを明示している。ユングがこのように意志の必要性や、〈私〉の成立の必要性をあらためて強調したのは、一九三四年というナチス台頭の時代における危機意識によるもののようにも観じられる。そして、この〈私〉は、外側の世界に対して、「感覚・思考・感情・直観」によって関わっていくだけでなく。内側の無意識の世界に対して「記憶・主観・情動・無意識からの侵入」という四段階を経ながら関わっていくことが紹介され、その狭間で、「意志」によって成立するものであることが明らかにされていく。これは、無意識と超自我の間に成立する自我の不安定さを強調するフロイトの理論を思い起こさせる面もあるが、決定的に異なるのは、ユングが外界と内界をそれぞれ自立した明確な世界であるととらえている点であり、その二つの世界に翻弄されるのではなく、そこにこそ〈私〉が成立してくると語る点であろう。そしてさらにユングが次のように〈私〉について語るのを聞くと、不安定な場にある自我という捉え方とは決定的に異なる、個人へと向かうユングの思想が垣間見られることにもなる。「〈私〉が中心であり、あらゆるものが〈私〉に関連します。〈私〉とは私たちに最も近しいものですが、実際にはほとんど知ることのできないもので、高度に神秘的な、大いなる謎です」(p.041)。ユングにとってはまさしく、〈私〉とは謎であり、わかりやすい意識的なものではなく、そういう意味では、それは彼の言う〈自己〉へと向かうものであり、〈個性化〉へと向かう可能性を含んだものであり、内側の世界と外側の世界と関わりながら、意志を持って取り組むことで成立する心の動的なプロセスを表している。ここには、ユングの人間観とその可能性が明示されているとも言えるだろう。」

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