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堀江敏幸『定形外郵便』&モンテーニュ『エセー 』

☆mediopos-2508   2021.9.28

堀江敏幸の最新エッセイ集のなかで
モンテーニュが引き合いにだされていたので
久しぶりに『エセー』をとりだして
当該箇所を読んでみることにした

『エセー』は全三巻あり
岩波文庫での訳は全六巻に分けられている
引き合いにだされているのは
第三巻の「第八章 話し合う方法について」から
文庫では第五巻に収められている

「話し合いとは他者の言葉に耳を傾けることだが」
その前提にあるのは互いに相手を信じることである

最初から正しい結論を持っていて
それを相手に認めさせるのは話し合いではない
「誤りを指摘されたら素直にそれを認めて、次に活か」す
ということが話し合いのための基本姿勢である必要がある

「耳を傾ける」ということは
相手の意見を理解しようとすることであり
同時にみずからの意見にまちがいがあれば
それを直す勇気を持つということなのだが
「まちがいを直す勇気がない」どころか
まちがいを認める勇気さえないひとは多い

モンテーニュはこう言う
「私が私の欠点を公表し告発すれば、
誰かがそれの恐るべきことを学ぶであろう」
そして「結局は、自己を語ればかならず損をする。
自己に対する非難は常に信用され、
称賛は常に信用されないからである」という

これはまるで悪人正機のようでもある
みずからを賞賛し善であるとする人よりも
みずからの過ちを認め
そこから学ぼうとする人こそ信用される
(とはいえ人が過ちを認めると
それに追い打ちをかけるような者も後を絶たないけれど)

モンテーニュがそうであるように
重要なのはつねに
自己と「話し合う」ことを続けることだ
そしてじぶんの間違っているところをみつけたら
それにしがみつかないで直そうとする勇気をもつこと

最悪なのはじぶんのなかでなにかを権威化して
それを決して変えようとはしないことだろう
つまり自己と「話し合う」可能性を閉ざすということだ
そうすることでその権威を外的対象に投影してしまい
権威から自由であることができなくなってしまう

■堀江 敏幸『定形外郵便』
 (新潮社 2021/9)
■モンテーニュ(原二郎訳)『エセー (五)』
  (岩波文庫 赤 509-5 1967/9)

(堀江 敏幸『定形外郵便』〜「話し合う夏」より)

「数年前の夏、ヴァカンスの時期に、フランスのラジオ局が全四十回にわたって短い読書番組を組み、大変話題になった。平日の昼間、十二時五十五分から十三時までの五分間。昼食の前、あるいはその最中に聴くことになるのだろうか、子どもも大人も微妙にもてあます。だからこそ得がたい時間を狙って選ばれた対象は、十六世紀のモラリスト、モンテーニュの『エセー』である。何巻もある大河小説ではないけれど、一語一語をたどっていくために必要な「遅さ」を加味すると、通読するのに何年もかかりそうな思考の素であり、巣でもあると言っていいだろう。」
「モンテーニュはまずもってすぐれた法律家であり、政治家だった。『エセー』の初版(第一・二巻)は一五八〇年に刊行されているのだが、そのあと数年間、彼はボルドーの市長をつとめた。第三巻は、政治を退いたのちの八八年、初版改稿版とあわせて刊行されている。彼はこの版にもひたすら書き込みを加え、自身との対話を死ぬまで継続した。重要なのは、自他の声を聞く人としてのモンテーニュの、実践に基づく思索である。はかりごとをせず、ありのまま、誠実に自分を見せること。甲乙双方の心を引き出す、あらぬ疑いを掛けられない「信用」こそが、政を司るものとして、もしくはひとりの人間として重要であることを彼は熟知していた。
 第三巻「話し合いの方法について」の一節が胸にしみる。話し合いとは他者の言葉に耳を傾けることだが、それは相手を信じることでもある。相互信頼は人間の契約のようなものだ。傲慢さは、厳しく排除される。ただし「今の時代の人々を、そうする気持ちにさせるのはむずかしい」とモンテーニュは言う。「彼らにはまちがいを直す勇気がないのだ。なぜならば、自分がまちがいを直されることに耐える勇気がないのだから」。同時代の日本語で読む以上、「今の時代」とは私たちの今でしかないだろう。誤りを指摘されたら素直にそれを認めて、次に活かせばよい。しかし「まちがいを直す勇気がない」者たちは逆に居直り、論点をずらしてごまかそうとする。人の愚かさも賢さも、その双方を抱える矛盾との戦いも現在のものだ。モンテーニュが闘った夏は、いまだに終わっていない。」

(モンテーニュ『エセー 5』〜「第八章 話し合う方法について」より)

「ただ過ちを犯したからといって、人を罰するのは、プラトンも言うようにばかげていよう。なぜなら、してしまったことは元に返せないからである。罰するのはむしろ、二度と同じ過ちを繰り返させないためか、あるいは、他人に同じ過ちを避けさせるためである。」

「私が私の欠点を公表し告発すれば、誰かがそれの恐るべきことを学ぶであろう。私が私の中でもっとも高く買っている特質は、自分を称賛することよりも自分を告発することでいっそう名誉を得ている。だから私は終始自分を告発することに落ち込んで、そこにとどまっている。けれども、結局は、自己を語ればかならず損をする。自己に対する非難は常に信用され、称賛は常に信用されないからである。」

「われわれは人から矯正されることをいやがるが、本当は自分からすすんでそれに立ち向かわなければなるまい。とくにそれが教訓という形でなく、話し合いの形でくるときいそうである。われわれは反対の意見に会うごとに、それが正当であるかどうかを見ないで、正しかろうと間違っていようと、いかにしてそれをかわすかということを考える。腕をひろげる代わりに、爪を出す。」

「私は人から反駁されると、注意は覚まされるが、怒りは覚まされない。私に反駁し私を教える人には自分のほうからすすんでゆく。真理を明らかにすることこそ、互いの共通の目的でなければなるまい。怒りの感情にすでに判断をたたきのめされ、理性よりも先に混乱に判断をつかまえられている人は、いったいどんな返答ができるであろう。」

「私は、真理をどんな人の手の中に見いだしても、これを喜び迎える。そして、遠くからでも真理の近づいてくるのを見れば快く降参して、私の負かされた武器を差し出す。また、相手があまりにも権柄ずくな、命令的な態度に出ない限り、私の著作に対する批評にも肩を貸してやる。そしてときには、著作を改善するためというよりも、むしろ相手の顔を立てるために書き変えたこともある。相手に気安く譲歩することによって、自由に忠告しようという気持ちを喜ばせ、つちかいたいと思うからである。もちろん、それが私の損になってもかまわない。けれども、現代の人々をどういう気持に誘うのは実にむずかしい。彼らは矯正しようとする勇気をもたない。自分が矯正されることに堪える勇気がないからであり、常に互いに面と向かって感情を偽って語り合っているからである。私は自分を批評して知ってもらうことが大好きであるから、誉められようと、けなされようと、平気である。私の思想そのものが自分に矛盾し、自分を非難するのが終始なのだから、他人がそれをしたところでまったく同じことである。(・・・)けれども、あまりに高飛車な人とは袂を分かつ。たとえば、私の知っているある人は、自分の忠告が受け入れられないと不満に思い、それに賛成されないと侮辱されたと考える。」
「結局、私はたとえ微力なものでも、堂々と正面からくる攻撃ならば、どんなものでも受け入れる。けれども形式を無視した攻撃には我慢がならない。私にとっては内容はどうでもよく、すべての意見が同じことで、どちらが勝とうと大した差はない。もし議論の運び方が秩序正しいなら、私は一日中でも静かに議論をするであろう。私が求めるのは力強さや巧妙さよりも秩序の正しさである。」
「ばかを相手に本気で議論をすることはできない。こういう無茶な先生の手にかかっては、私の判断ばかりでなく、良心までが駄目になる。」

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