見出し画像

濱田 陽『生なるコモンズ: 共有可能性の世界』

☆mediopos2733  2022.5.12

ちいさい頃から
好きだったことば(方言)がある

「おもやいこ」

だれにでも通じると思っていたら
ほかの地域では通じずに
悲しく思ったことがある

そのことばは「もやいこ」という
「分かち合う」
「共同でひとつのことをする」
という意味のことばに「お」をつけたもの

なにかを「半分こ」にして食べるとか
いっしょに使うとかいうときに
「おもやいこに」というふうに使っていた

現代のことばでいえば「シェア」だ
けれど「シェア」という半分クールな
上から与えられたような感じの響きではない
目線をおなじくした「なかよし」なほっこりした響き

本書『生なるコモンズ: 共有可能性の世界 』を読みながら
そんな「おもやいこ」のことを思い出していた

本書は少しばかり驚くような射程を持った
文化論であり文明論なのだが
さまざまな文化領域が専門化・分化・分断化されている
現代の状況を克服していくためには
「持続可能性」だけではなく
「共有可能性」の視点が不可欠だという

現実は「持続可能性」にしてもお題目ばかりで
「共有可能性」という視点となると
逆に共有不可能性の対立的なところばかりのように見えてしまう
だからこそ「共有可能性」を成立させ得るような
「生なるコモンズ」をここで提唱しているということだろう

著者はわたしたち人と五つの存在
(自然、生きもの、人、つくられたもの、人知を超えるもの)との
関係性における「共有領域」に目を向けているが
基本は「自らの存在」(我)と「他なる存在」(汝)が
どうやって「持続可能」で「共有可能」な関係性を
築いていけるかということだろう

おそらくそれは
「シェア」のような半ば公的な視点ではなく
「おもやいこ」のように
身近なところでの「生き方」として
すべてのひとに「持続的」に「共有」されるときに
はじめて可能になるものなのかもしれない

現代のような管理社会化が進み
なにか問題があると規則をつくって対処し
外から規制するような在り方では
ますます持続不可能で共有不可能になるばかりだろう

「おもやいこ」で戦争は起こらない
戦争が起こるのは思想を含む利害の対立そのものだから

■濱田 陽『生なるコモンズ: 共有可能性の世界』
 (春秋社. 2022/5)

(「内のうちへ」より)

「本書のテーマは共有可能性だ。一般にシェアの意味で用いられることの多い共有の語を、深化、拡張し、持続可能性のような普遍的な通用性をもつ概念へと昇華させたい。

 サブタイトル「共有可能性の世界」は、共有可能性が開く世界、を意味している。共有可能性という運命的な様相から見えてくる、新たな人間観と世界像を提示したい。」

「タイトルに掲げる「生なすコモンズ」は、この共有可能性の想像力によって、わたしたち人と五つの存在(自然、生きもの、人、つくられたもの、人知を超えるもの)との関係性に、その都度生じては、変化し、消えては、また生じる、多様な可能性を帯びた共有領域を表現する。」

(「Ⅰ 共有可能性と人」〜「第二章 人の存在を問う」より)

「哲学も、宗教も、現代では、科学、技術とは棲み分けされる傾向が強く、対話の糸口がなかなか見出し難い。哲学、宗教も、科学、技術も、それらを生み出す人という存在そのものへの省察がなければ、容易に固定化、絶対化されてしまうおそれがある。

 人間観の分断を乗り越えるには、世界に働きかける、人としての存在の源である自己そのものを問うことが不可欠となる。それは対象認識以前の、場所(フィールド)としての自己を問うことだ。留意しなければならないのは、この自己は、対象認識的な方法ではどこまでもとらえきれない、ある何かだということだ。

 棲み分けているだけでは、哲学、科学、技術、宗教の対話は難しく、有効な道を見い出せない。互いの否定、対話回避のいずれでもない道を見出していかなければならない。そのために、存在の対象認識を成り立たせる以前の、フィールドとしての自己そのものを問うのだ。」

「自然、生きもの、人、つくられたもの、人知を超えるものに関わる諸学の研究が、各存在についての知識を固定化、他律化せず、自らの専門以外の学問や一般社会に対して対話の通路を開くことは、今日、必然的要請である。」

「Ⅰ 共有可能性と人」〜「第三章 動く関係性と共有可能性」より)

「共有可能性は、自らの存在と他なる存在との限定的で開放的な関係可能性、と考えることができる。

 限定的とは、互いの存在そのものの否定につながる働き、関わりが制限されることを意味する。(…)

 この限定的な関係性が、開放的な関係性を導く。それは、他なる存在の否定につながらなければ、働きかけ、関わりうる主体の範囲は、開放されている、ということだ。働きかけが限定されることで、かえって、働きかける主体が制限されない余地が生まれる。開放的であることが、それぞれの存在に否定的作用をもたらさないなら、共有可能性の特性に合致し、肯定的な作用をもたらすなら、なおさら、共有可能性は強化される。」


「Ⅱ 生なるコモンズと共有文化、共有文明」〜「第八章 持続可能性と共有可能性から、生なるコモンズへ」より)

「わたしたち人は、今日、特有の包容力をもつ観念を使うようになっている。それが、自然、生きもの、人、つくられたもの、人知を超えるもの、の五つの存在だ。現代の文化、文明は、これら五つの観念を組み合わせて表現されることが多い。各存在領域をバラバラにせず、同時に感じ、考えることでこそ、見えてくる世界があるからだろう。」

「第三章第三節では、共有可能性を、自らの存在と他なる存在との限定的で開放的な関係可能性、と考え、一般化して、存在Aと存在Bとの限定的で開放的な関係可能性、と定義した。

 これを応用すれば、文化、文明における共有可能性は、わたしたち人と五つの存在(自然、生きもの、人、つくられたもの、人知を超えるもの)との限定的で開放的な関係可能性、と定義できる。」

「共有可能性は、持続可能性(サステナビリティ)と双子と考えられる概念ともいえる。今日、持続可能性の概念は世界中に広がり、豊かな意味が込められる言葉になっている。持続可能なという形容詞は、わたしたちがあらゆる選択や活動をするときに強く意識されている。

(…)

 持続可能性と共有可能性は密接に結びついている。共有可能性を考えない持続可能性では、問題解決に糸口が見えてこない。」

「コモンズ概念を、わたしたちのこころの内面へと深化させることで、新たな位相(フェーズ)をもたらし、自らと他、存在Aと存在B、そして、わたしたち人と五つの存在との関係性を考察する鍵としたい。そこに現れる可能性をともなう共有領域、すなわち、生動する共有可能性領域を、生なるコモンズ(living commons)と名づけよう。」

「忘れてはいけないのは、自らと他、五つの存在と五つの存在性は、いつも変化をはらんでおり、五つの存在観も、それによって変化する、ということだ。」

「わたしたちが五つの存在との関係で見出す、生なるコモンズは、存在の分裂、分断、衝突を克服しいる手がかりである。

 生なるコモンズは、わたしたちと他なる存在それぞれにおいて、肯定的な作用に限定されるがゆえに開放されている関係性の領域である。五つの存在は、人の営みによって、見出され方が異なるが、この領域は、存在の根幹を否定しない。

 わたしたちの把握、判断、作用は調和的に働くことが求められ、五つの存在からの応答、反応により、いかなる働きが妥当かを、調整し続けることが肝要になる。

 わたしたちと存在との関わりは、常にゆれ動いており、わたしたちの把握、判断、作用は変化し続ける。その働きが調整され、調和がとれていると認識するためにも、生なるコモンズは必要だ。このような営みのループのなかで、わたしたちは関わり続けている。その多様な営みを分断し、技術を暴走させるのではなく、科学、哲学、宗教の営みが共に欠かせない。このような洞察が、共有可能性と生なるコモンズに照明を当てることで、得られてくるのだ。」

(「外のそとへ」より)

「人文学のかたちが大きく変化してきている。

 人文学が衰退すれば、AI・ロボット・生命の工学による、新テクノロジーの操作的立場への省察も、弱体化してしまうのだろう。現代哲学の潮流、社会思想、環境倫理、多くのアートも陣部B学復権につながる重要な試みだが、それらの多くが他の領域から分断されたまま、交流、対話が成立しなければ、操作的状況は無批判に加速するばかりだろう。

 文化研究(カルチュラル・スタディーズ)でも、社会主義の唯物論的な文化科学(カルチュロロジー)でもなく、文化哲学に近いが、今まさにゆれうごいている人そのものは、自らの文化、文明について内在的に考えていく知的な営みを表現する、より相応しい学のかたちが必要だ。

 文化人類学にとどまらず、広範な影響力をもつ文化としての文明をも視野に入れた人の文化学が求められる。人が文化していることの営み、それ事態に関心をもつ、新たな人文学のイメージ、アウトラインを描く必要がある。」

「一見、持続可能性が満たされるように見えても、共有可能性がともなっていなければ、それはディストピアに行き着いてしまう。わたしたち人が共有可能性の想像力を手放したとき、人であることも手放したことになるのかもしれない。

 根源的な共有可能性の想像力は、おそらく人類史早期の段階から作動しているのだろう。人の思考と文化は、共有領域の可能性を求め、その限界に直面しつつも、イメージし続けてきている、という見通しに本書は立っている。」

《目次》

内のうちへ

I 共有可能性と人

第一章 新テクノロジーによる人間観の分断
第二章 人の存在を問う――ハラリに応え、西田幾多郎と出会う
第三章 動く関係性と共有可能性
第四章 空海の祈求
第五章 儒の学、最善を生かす知の実践
第六章 賀川豊彦と協同組合(コオペラティブ)

II 生なるコモンズと共有文化、共有文明

第七章 現代文明と共有可能性の危機
第八章 持続可能性と共有可能性から、生なるコモンズへ
第九章 共有文化の創出と発見
第十章 共有宗教文化
第十一章 共有文明と共有軸
第十二章 共有権――所有権世界を相対化する

外のそとへ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?