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大澤信亮「非人間/最終回」

☆mediopos-2282  2021.2.14

「生まれてきたこと」を肯定するために
ここでは「非人間」という視点が導入されている

ここでいう「非人間」とは
理性内に安住しないよう
人間を超えた人間になるということのようだ
そうすることで逆説的に
「生まれてきたこと」が肯定されることになる

人間を超えるといっても
超能力者になるというのではない
みずからの「根元悪」に向き合うことで
それまでのみずからを超えるということ

それは親鸞の悪人正機のごとく
みずからの悪を自覚することでこそ
「往生」が可能となるということでもある

しかも「善人なおもて」というとき
「善人」であるだけでは「往生」はできないのだ
根元悪を生きざるを得ないのだという
その自覚によってこそ「往生」できる

「往生」するということは
キリスト教の文脈でいえば
「赦し」を得るということでもある

キリスト・イエスを引渡したのはユダであり
磔刑を選んだのはユダヤ人だったが
それはほんとうのところユダでもユダヤ人でもなく
すべての人間がユダでありユダヤ人でもある
その自覚から出発しなければならないということだ
それによってはじめて可能になる「赦し」がある

カントは理性の範囲の内での
「道徳的宗教」あるいは「反省的信仰」をもって
生きることを示唆したが
同時に死刑を肯定していたという
そこには「赦し」に関する自己欺瞞の矛盾がある

それに対してベルクソンは
理性を超えたもののなかに神秘主義的愛を求め
そこに「赦し」の可能性を見ようとした

さらにジャック・デリダは
「人間を超えた超人間的あるいは非人間的な何か」として
「許されないものを許す」という「許し」を与える
「外から来るのか内から来るのかわからない複数の声たち」
である「天使」を示唆したのだ
この「天使」は宗教的な高次存在のことではない
その言葉でしか表現できない何かなのだろう

その「天使」が「許し(赦し)」を与えるということは
わたしたち自身が由来せざるを得ない「根元悪」と
深いところで発しているその「声」をこそ
しっかりと聞き取りながら
反問し続けることも意味する
人間はそうすることではじめて
単なる理性内での道徳的存在でしかない人間を超えて
「非人間」への道を歩くこともできるようになる

「天使」はいってみれば
「非人間」であるじぶんにほかならない
その「非人間」によってしか
「赦し」を与えられることはないということ
つまり赦すのも赦されるのも自分なのだ
そしてその必要条件こそが「悪の自覚」なのである

みずからがみずからを十字架に架け
そうすることで自覚的に「復活」する
それが「非人間」として
みずからの可能性をひらくことを可能にし
「生まれてきたこと」を肯定することになる

■大澤信亮「非人間/最終回」
 (『群像 2021/3』講談社 所収)

(「V イエス・キリスト」より)

「カントは『たんなる理性の限界内の宗教』で、キリスト教を参照しつつ、そこからの奇跡や啓示や恩寵といった理性外の出来事を排除した「道徳的宗教」あるいは「反省的信仰」こそが、有るべき宗教なのだと語った。「自分自身のように他人を愛せ」と言ったキリストのように生きること。カントはそれを理性的な道徳法則として実践せよと言うのだが、それがただちに自らの「根元悪」に躓いてしまう。すなわち、復讐を厳しく禁じたイエスの言葉をカント自身が裏切り、殺人に対して同害法としての死刑を肯定するという自己欺瞞をもたらす。厳密に言えば同害法は復讐とは違うのだが、何にせよ、それはキリストのように生きることではない。これが超越論的哲学にキリストを回収しようとした結果である。
 つまりキリストのように生きることは「理性の限界内」では不可能なのだった。
 他方、ベルクソンは『道徳と宗教の二つの源泉』で、カントとはまったく逆に、「神秘主義」をむしろ肯定的に考えようとした。ベルクソンは社会を、「閉じられた社会」と「開かれた社会」に区別し、前者に対応する無数の民族宗教(共同体の維持を目的とする)と、それを超える唯一の例として、後者に対応する世界宗教としてのキリスト教を論じる。
 ベルクソンが強調するのは、民族宗教の発展が世界宗教を生むわけではない、ということである。そこには根本的な断絶がある。」
「祖国や家族を愛するという感情は、所属する集団を超えた愛に至ることはなく、むしろ他集団への憎悪や敵意を生む。そこでは、身近な者を愛するという感情は何の役にも立たないどころか、害悪である。ベルクソンがこれを第一次大戦下に書いていたことを想おう。その血みどろの光景のなかで希望を<神秘主義的愛」に求めたことを。」
「<神秘主義的愛>は「人間」からは来ない。ベルクソンは<万物を造った神>と書いているが、厳密には、人間や動物のみならず物質も含めた、この宇宙の全体を貫く時間=持続=<生の弾み>から来る。」
「ベルクソンは、心霊研究や「死後の生」に言及しつつ、まだ人類が知らない領域を直観していたと思われる神秘主義者たちを肯定的に論じるが、その究極はイエス・キリストに求められる。」
「ベルクソンもまたカントと同じくキリストのように生きることを愛の実践として肯定したのだった。だがそれが理性的な実践によっては不可能であり、キリスト教系の神秘主義者たちが垣間見せる、得体の知れない異常な実行においてこそ確認されるものなのだと。
 こう書きながらもベルクソンは神秘主義者を盲信してはいない。実際にはかなり強く疑っている。しかし、彼にとって哲学とは、合理的な科学に根拠をおくものではなく、むしろそれでは捉えられないものを思考する営みのことだった。それはまたたんなる言葉による思考実験でもなかった。」

「ジャック・デリダの『信と知』は「たんなる理性の限界における「宗教」の副題を持つ。つまりカントとベルクソンを同時に論じている。」
「ここでデリダは「理性の限界内」というカントの原則をあくまで守りながら、つまり神秘主義を拒絶しながら、同時に、理性それ自体を非理性へと押し進めることで、ベルクソンの言う「開かれた社会」の核心へと向かう。」
「このときデリダが強調するのは、この「開き」が「根源悪」にすらも開かれていなければならないという、危険を条件とするということだ。」

「二〇〇一年、死刑についてのセミネールを終えて(または平行して)、デリダは、精神分析家のエリザベート・ルディネスコと対話を行った。『来たるべきせかいのために』の題で刊行されたその第八章「死刑」で、デリダは、罪人に対する「許し」について語っている。
 人は自分に直接関係ない相手ならいくらでも許すことができる。のみならず「自分は寛容な人間だ」という自尊心に満たされることは気持ちがいい。しかし、自分が直接被害を受けた当事者になってみると、そんな余裕はなくなる。自分に苦しみを与えた相手、大切な存在を奪った相手を前にして湧き上がる感情は、煮え立つような怒りだ。同じ苦しみを味わわせてやりたい、殺してやりたいと思うかもしれない。それが人間なのだ。だが真の「許し」はそのときにこそ実行されなければなならない。」
「許しとは<許されないものを許す>ことだ。それは人間を超えた超人間的あるいは非人間的な何かを必要とする。それは理性的な同害法や感情的な復讐心の外にある。それがもしなかったら、人間の憎悪と報復の連鎖は永久に繰り返されて、人類はとっくに滅びていただろう。そんな得体の知れない力を古代人は「神的なもの」として崇めてきた。それが<宗教の起源>にあるのだが、デリダは、宗教や神に頼らなくても「許し」は可能だという。
 だが不思議なのは、こう語るデリダ自身が<死の脱構築>を、<天使>という言葉で語ることだ。誇張された修辞的表現なのかもしれない。しかし、人間的に考えるなら、つまり理性や感情で考えるなら、とうてい受け入れることはできない、そのような議論をすること自体が暴力になり得る瞬間に、それをあるべき方へと導く。外から来るのか内から来るのかわからない複数の声たちを<天使>と呼ぶのは、しっくりくる。」

「イエスは「私を引き渡す者は生まれてこなかった方がよかった」と言った。これは新約中で最高に辛辣な言葉だ。この時点ではユダに向けられた言葉だったが、しかし、イエスを裏切っていない者がこの世界にいるだろうか。教義化されたキリスト教を素朴に信じ、その血塗られた歴史から眼を逸らす者たちはもちろん、人間としてのイエスを実証しようとする聖書学も、神の国を信じて祈ったイエスの実践と乖離している。キリストなど関係ないと嘯いてみても、私たちは未だにイエスが生まれた日から数えて二千何十年何日目という新約の時代を生きていて、何かを犠牲として祀り上げたり、かと思えば都合が悪くなると逃げ出し、そんな自分を省みようとしない。いつだって心の底では自分が正しいと思っている。敵は殺してもいいと思っている。そしていつか祈り方も忘れてしまった。
 二千年ほど前に起こった、一つの殺人事件の真犯人は、私たち人間なのだった。だから結論としては、人類は生まれてこなかった方がよかったのだ、ということになる。
 だがそれでもイエスは「死んだ方がいい」とは言わなかった。「生まれてこなかった方がよかった」という言葉は含蓄のある表現だ。生まれてきたこと自体は決して否定しないという生の肯定でもあるからだ。神の国を「子供のように受け入れよ」と言ったイエスだ。生まれてきた者すべてを肯定することは、イエスの自然な存在感覚だったのだ。だがそれはたんに「可愛らしいものを受け入れろ」という意味でもなかったはずだ。」
「イエスの語調は明らかに、子供を人間の自然な愛情において受け入れよ、というものではない。まるで一つの試練のような言い方だ。子供という手にかかる厄介で大変なもの、何か気に入らないと癇癪を起こしてすぐ泣く、言葉を話すことも、一人で食べることも、排泄することも、眠ることさえもできない、少し成長すると、大人の都合など無視して勝手に動き回り、自力で解決できない面倒事を次々と持ち込んでくる、にもかかわらず、私たちにもかつてあったらしい、あのどこから来るのかわからない無邪気な笑顔を突きつけてくる、そこに神の国がある、それを当然のように受け入れよ、そう言っているように見える。
 そんな子供たちもいつしか大人になる。ユダもかつれは子供だったのだ。その裏切りに対して、「生まれてこなかった方がよかった」というのは、何度でも強調したいが、「死んだ方がいい」ということではない。イエスは「人の子に対しては、どんな罪を犯そうと、どんな冒瀆を犯そうと、一切が赦される」と言った。「私は善人を招くためでなく、罪人を招くために来た」とも言った。「あなたの罪は赦される」「人の子は地上で罪を赦す権威を持っている」と断言した。これをアダムとイブに由来する人間の現在が、イエス・キリストによって購われたと、わざわざ神話的に解釈する必要などない。おそらく私たちは生まれてこなかった方がよかった。裏切りたくなかったものを裏切り、無数の生き物を殺しながら、それでも生きるしかないから生き、日々の嬉しいことや楽しいことを大切にしても、何かをを誤魔化しているという虚しさが降り積もっていく。嫌なことばかりが次々と起こるが、やり過ごすしかなく、やり過ごせてしまえることがつらい。それを根本から覆す何かは到来せず、それが人間なのだと居直ろうとしても、それが人間なのかという反問が止むことはない。そうして死んでいく。復活も永遠もないことなど嫌になるくらいわかり切っている。けれども。
 何かやるべきことがまだあるはずなのだ。それは罪に関わることのように思えた。問題の根本は人類を違う次元に開き得た存在を殺してしまったことにある。この事実を直視できないことが人類をおかしくさせた。あのとき示された美しい正しさよりも、人類の根元悪に相応しいかたちをそれを絶妙に捻じ曲げた結果が、この二千年間だったのではないか。どうしてそういうことになったのか。そこに迫るには私自身の罪を手がかりにするべきだと思った。その自らの罪に他者の罪を重ねながら、何かが来るのを待つように書きつづけた。そこに進んで行けという「ここ」にある予感だけを信じていた。人の営みが根元悪に浸食された自己欺瞞の集積ならば、むしろそこからいかに離れていけるかが問われているのだと思いながらも、それ自体もまた人の営みなのだから、復活だとか神の国だとかも結局は自らの罪から眼を逸らすための根元悪の産物、より酷い欺瞞でしかないのではないか、そういう思いが溜まっていった。けれども、「お前たちなぞ生まれてこなかった方がよかった」という言葉で私たちをぎりぎり赦そうとしている、十字架上の上のその人に対峙しようとするとき、その人が見て感じていたはずの世界を私もまた、見て感じたいと思えてくるのだった。」

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