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伊藤亜紗「一番身近な物体」

☆mediopos3229  2023.9.20

朝日出版社ウェブマガジン「あさひてらす」で
伊藤亜紗の「一番身近な物体」が連載されている
(現在第二回まで)

「一番身近な物体」というのは「自分の体」

「一番身近」といえるはずなのに
あるいは「身近」というより
自分そのものだと思っているにもかかわらず
それを「物体」だとしか思えない「自分の体」

第一回でとりあげられている「naoさん」は
高校生のときにダイエットにのめり込み
体を管理し監視しきびしく支配し
体を「他人化」するようになる

「他者」ではなく「他人」

「他者」の対義語は「自分」で
自分以外の存在であるとしても
なんらかの「共通項」があるのに対し
「他人」であるとは
共通項がなく「自分とは関係ない」

naoさんにとって
「体は身内に感じられない」「他人」
であるのだという
だから「体の声を聞く」という表現も
「naoさんにはピンとこない」

「体を徹底的に管理し、支配下に置いていた自身を、
naoさんは「DV夫」と呼」んでいる

「naoさんは、ダイエットを通して、体を支配し、
管理することができると思ってしまった。
あとからそれが幻想であったと気づいたとしても、
当時は完全に支配下に置くことに成功したと感じてい」た

哲学者のビョンチョル・ハンは
「過剰な活動性が容易に過剰な受動性に転じうる」
ことを指摘し
「この奴隷状態に「ノー」を言うためには
休むことが必要だが、同時にそれが非常に困難である」という

ハンによれば「現代は「肯定」が過剰すぎる時代」であり
かつて自己に対する抑圧として存在していた
規範の力が弱まった現代では
「能力を発揮して成果を出すことへのプレッシャーを強め、
人々をバーンアウトさせたりうつ状態に追い込んだりしている。
この能力主義の時代に足りないのは、むしろ「否定」である」
のだという

naoさんは「「ダイエットをする前の、
自然に「お腹すいた〜」って思って食べていたころには、
戻りたくても戻れない」
「踊り方を忘れたムカデのような状態だ」という

「自分でありながら自分でないような自分」である
自分の体は「他人」だから自分として感じられない

そのことを「症例」や「治療」の観点ではなく
少し拡げて(神秘学的に)考えてみる

人間の身体は肉体と生命体と感覚=感情体
さらにいえばそこに自我が働いて成立しているが
それらの構成体の関係づけは
特別な働きかけ方をすることで
通常の関係性とは別のものにもなり得るため
naoさんのように「体」を「他人」にすることも
さらにいえばそれ以外の要素をも
「他人」にすることができるということにもなる

「他人」だから
その「他人」が何をしようが
機械のように「自分」とは切り離されている

そしてそのことを調和的に利用することもできれば
否定的に利用することもできることから
みずからの魂をどのように方向づけるかが問われる

それらを積極的に用いるのは
ある種のイニシエーションとしても機能するが
それはかならずしも白魔術的ではなく
黒魔術的なそれにも使われる

ふつう人間的行為としては信じられないようなことを
平気で行えるようになっている場合も
そうした魂の再構成が行われていることになる
そしてそう考えなければ理解できないようなこと(事件)も
現代では多発しているように見える

意識的になる(自分をコントロールする)ことは
必ずしも「善」を指向するとはかぎらない
「悪」を指向する自我も少なからずあるということだ
きわめて難しい問題である

■伊藤亜紗「一番身近な物体」
 第一回 休み方がわからない(2023.07.11)
 第二回 脂は敵だから好き(2023.08.22)
 (朝日出版社ウェブマガジン「あさひてらす」)

「障害や病の当事者にインタビューをしていると、ときどきこんな言葉に出くわすことがあります。

「うーん、あんまり自分の体っていうふうには思っていないですね」

 最初に聞いたときは衝撃をうけました。自分のものであるはずの体を自分のものだと思わないとはどういうことなんだろう? 誰か別の人のものだと思っているということ? それともわざわざ「自分の」と言うまでもないほど自分と一体化しているということ?

 実際に話を聞いてみるとその背景はさまざまでした。自分の体なのに思い通りにならなくて苦しんでいる人もいれば、思い通りにならないけれどその思いすら手放して「体が他人事」になっている人もいる。常に誰かの介護を受けているから自分のものでない人もいるし、重い病から自分の魂を守るためにほとんど悟りのような境地に達してそう感じている人もいる。

 体は生まれてから死ぬまで常にそこにある。でもそれが自分のものであるというのは、それほど自明なことではないのかもしれません。もっとも身近なものでありながら、良い意味でも、苦しい意味でも、ただの物体のように疎遠なものになりうる対象。それが体というものなのかもしれません。」

「体は生まれてから死ぬまで常にそこにある。でもそれが自分のものであるというのは、それほど自明なことではないのかもしれない――「一番身近な物体」としての体のあり方について、さまざまな当事者の語りを通して考えていく連載。」

(「第一回 休み方がわからない」〜「体は他人」より)

「naoさんは、六年前、三〇代のときに体調が悪化して入院。現在では退院して仕事もしていますが、倒れて以降、一夜にして体との関係が大きく変わってしまったと言います。

 自分にとって、現在の体は「他人」であるとnaoさんは言います。「他者」ではない。明確に「他人」なのです。それは無視してやりすごすことを許してくれません。いつもそこにいて、naoさんの日常生活に無言で大きな影響を与えてきます。想像より一オクターブ低い、落ち着いた芯のある声でnaoさんはこう語ります。「やっぱり他の人や世界とのあいだに、体っていう大きい他人が立ちはだかっている」。

 他者の対義語は自分です。他者とは、単純に自分以外の存在を指します。一方で「他人」と言うとき、そこには「自分とは関係ない」というニュアンスが含まれています。たとえば家族や友人、あるいは同僚は、「他者」ではあるけれど「他人」ではない。利害関係を共有している仲間は、物理的には自分以外の存在であったとしても自分のゆるやかな延長、すなわち「身内」になります。だからこそ、身内であっても利害関係が対立した場合には、「兄弟は他人の始まり」のような逆説的な表現が成立することになる。

 つまり、naoさんにとって体は身内に感じられないのです。利害関係を共有していない。「買い物に行きたい」「友達と会いたい」といった日々の関心、究極的には「この人生を生きていく」という私の目的を、体が共有してくれていないのです。naoさんの言葉を借りるなら「そっぽを向いている」。「共通項がないんですよね。友達でも夫婦でも、他人じゃなかったら共通項ってあるじゃないですか。そういう重なりがなくなっちゃった。 共通の目的もないし、共通の趣味もないんです」。」

「だから、よく言う「体の声を聞く」という表現がnaoさんにはピンとこない。確かに改めて考えると不思議な表現ですが、一般には、社会的な「すべき」を離れて、自分のなかにある自然な衝動や感情に気づくこと、のような意味で使われている言葉でしょうか。その声を、naoさんはどうがんばっても聞くことができない。」

(「第一回 休み方がわからない」〜「コーピングとしてのダイエット」より)

「naoさんの体がnaoさんに対して「そっぽを向く」ようになるまでには、実は長い前史がありました。

 大きなきっかけの一つは、高校生のときにダイエットにのめり込んだこと。ダイエットは、表面的には食事を制限したり運動したりして体重を落とすことですが、その本質は、体を徹底的に管理することにあります。体を管理し、監視し、きびしく支配するのです。

 それは積極的に体を「他人化」することであった、とnaoさんは言います。電車に乗っていても、街を歩いていても、いつも人の目が気になる。「他人を意識するのが嫌なあまり、体を分離させて他人にしちゃったんですよね。それで、こいつを支配する、という形になった」。」

「症状に見えるものが実はコーピング(対処法)である、ということはよくあることです。発熱という現象は、仕事や学校に行けないという意味ではネガティブな「症状」ですが、ウイルスや菌を追い出すための反応という意味では「コーピング」です。吃音の連発という現象も、スムーズな発話を規範とみるなら「症状」ですが、次の音を出すための試行錯誤とみれば「コーピング」です。

 同じように、過剰なダイエットも、周りの人からすれば止めたくなる「症状」かもしれませんが、当時のnaoさんにとっては、それがなければ生きていけないような「コーピング」でした。」

(「第一回 休み方がわからない」〜「DV夫」より)

「体を徹底的に管理し、支配下に置いていた自身を、naoさんは「DV夫」と呼びます。「私はやっぱりDV夫なんですよね。被害者が体というのはすごく思います。そこが私の中では当たり前だったんですけど、みんなはちがうんだ、もっと一体感?があるというか……そんなに理解不能なものではないのかな、と。今までは、黙らせて、支配して、管理して、それが今度は翻弄されて。そんな関係ってみんながみんなそうじゃないんだ、ということを知りました」。

 夫の暴力の対象になっているのは、体です。体=妻。妻というものがまさにそうであるように、「身内」であるとはいえ、体は常に私=夫の意向に沿ってくれるとは限りません。(・・・)naoさんは、ダイエットを通して、体を支配し、管理することができると思ってしまった。あとからそれが幻想であったと気づいたとしても、当時は完全に支配下に置くことに成功したと感じていました。」

(「第一回 休み方がわからない」〜「切れ目ないメロディをずっと奏でている」より)

「哲学者のビョンチョル・ハンは、『疲労社会』のなかで、過剰な活動性が容易に過剰な受動性に転じうることを指摘しています。そしてハンは、この奴隷状態に「ノー」を言うためには休むことが必要だが、同時にそれが非常に困難であるとも論じています。」

「ハンの診断によれば、現代は「肯定」が過剰すぎる時代です。かつては「〇〇しなければならない」という社会的規範が明確に存在し、それが自己に対する抑圧として機能していました。しかしそうした規範の力が弱まった現代では、逆に自分の好きなことをして自分らしく生きることが奨励されています。それは一見自由になったように見えますが、逆に能力を発揮して成果を出すことへのプレッシャーを強め、人々をバーンアウトさせたりうつ状態に追い込んだりしている。この能力主義の時代に足りないのは、むしろ「否定」である、とハンは言います。」

「naoさんは「すでに存在しているものを持続させること」、naoさんの比喩でいえば「メロディーが流れ続けるようにすること」以外の選択肢を持てなくなり、ひたすらやるべきことに応答していく「肯定」だけの状態に陥っていました。」

「こうした過剰な活動性のなかで失われるものは何か。それは「憤慨」だとハンは指摘します。つまり、ひどく怒ることです。」

「憤慨は、現在の時間をただ延長していくことに対する、全面的な「ノー」です。それは、例外状態を作り出します。この意味で、憤慨とは全面的な休息を召喚する身振りだと言うことができます。中断し、別の新たな生を始めること。受動的に活動させられている奴隷的な状態から、自分で自分の主人となって本当の意味で活動しはじめること。

 ここに休む=中断の本質的な意味があります。休むというと、力を抜いて何もしないことだというイメージがありますが、いったん過剰な活動状態に飲み込まれてしまったときには、休むとはむしろ出来事を起こすこと、現在を揺さぶることに他なりません。」

(「第一回 休み方がわからない」〜「和解と赦し」より)

「停止した体と、どう再び関係をつくるか。それが現在のnaoさんのテーマです。」

「体との関係を作り直すためにnaoさんはいろいろな工夫を試みます。横になってみたり、休憩をとってみたり、マッサージをしてみたり。しかし、あらゆる赦しがそうであるように、そのプロセスは容易ではありません。「ごめんなさい」と頭を下げることが相手の心を開くどころか、かえって閉ざすこともあるように、赦しは、必ずしも加害者からの能動的な働きかけによって成立するとは限らないからです。デリダが指摘したように、もし赦しが謝罪と改悛に対して与えられるものならば、そこにあるのは単なる「エコノミー的な商取引」になってしまうでしょう。「もし私が、私に赦しを乞うために他者が告白し、立ち直り始め、みずからの過ちを変容させ始め、他者自身が過ちからみずからを切り離し始めることを条件として赦しを授けるとしたら、そのとき、私の赦しは、赦しを腐敗させるある計算によって汚染されるがままになり始めてしまうのだ」」

「「ダイエットをする前の、自然に「お腹すいた〜」って思って食べていたころには、戻りたくても戻れない」とnaoさんは言います。ダイエットをしているあいだ、naoさんにとって食べることは「頭の営み」でした。つまり、カロリーやグラム数といった「数字の計算」の問題だったのです。そこには「お腹すいた」や「おいしい」の感覚はない。いったんそうなってしまったあとで、どうすれば再び「食べる」を、体の感覚の営みに戻すことができるのでしょうか。

 それはまるで、踊り方を忘れたムカデのような状態だとnaoさんは言います。意識しなければうまくできていたのに、いったん意識してしまうと、自然に行うことができなくなってしまう。「一回そっちに行くとなかなか戻れないですね……。 どこかで目的が舞い込んできたら、自然と、意識しなくてもやっていけるのかな、と思うんですけどね」。」

「naoさんの話を聞いていると、人間にとって「感じる」とは何なのかということを考えさせられます。」

「もそも感じることができるためには、安全や健康や余暇や経済的な安定が保障されている必要があります。先程あげたハンは「文化が必要としているのは、深い観想的な注意の可能な環境である」。感じることは文化の基本です。これが現代を覆う病だとすると、感じることができるというのは、もしかするとかなり特殊なことなのかもしれません。

 私と体との関係を考えるということの根本には、おそらくこの「感じるとは何か」とう問いがあります。」

(「第二回 脂は敵だから好き」〜「原因さがしと回復のプロセスは違う」より)

「西洋医学においては、病態から回復するためには、病気の原因をつきとめ、それを取り除くことが治療の主になります。もしがんが見つかったら、外科手術によって病巣や臓器を切除したり、放射線治療によってがんを小さくしたりする。そうした治療が一般的に行われています。」

「自分が抱えている困難の原因を知ることは、ひとつのナラティブを手に入れることに他なりません。それはその人を安心させたり、自分と向き合う手がかりになったりするでしょう。あるいは、その病気や症状が社会的に問題になっている場合には、対策を講じる上でのヒントとなるかもしれません。

 しかし、ひとりの人間の回復を考えるうえで、その原因とされたものを敵とみなし、そこからの影響をなくすことに注力することは、場合によっては必要だとしても、それがそのまま回復の道につながるとはかぎりません。「自分はこういう人間だ」と思いこんでいる人間像の外側、「自分はこうあってもいい」に出会うことが回復なのだとしたら、ナラティブを固定することは、場合によっては逆効果にもなりえます。回復が、単にその症状を獲得する前の自分に戻る一種のタイムトラベルでないのだとしたら、それは「自分でありながら自分でないような自分」を再定義するという未来の開かれた前向きな営みであるはずだからです。」

○伊藤亜紗
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。専門は美学、現代アート。主な著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)〔のちに『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)〕、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社メチエ)、『きみの体は何者か』(ちくまQブックス)、『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(文藝春秋)、『感性でよむ西洋美術』(NHK出版)など多数。

◎伊藤亜紗「一番身近な物体」(「あさひてらす」)
第一回 休み方がわからない

◎伊藤亜紗「一番身近な物体」(「あさひてらす」)
第二回 脂は敵だから好き


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