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矢倉英隆『免疫から哲学としての科学へ』

☆mediopos-3146  2023.6.29

著者は免疫学を30年以上研究し
その研究生活が終わろうとしたとき

「長いあいだ科学の領域にいたものの、
免疫というものの全体あるいは本質は何なのか、
さらにいえば、科学という営みが持つ特質とは
どういうものなのかという根源的な思索が
欠落していたことに気づいた」という

「免疫学が生み出す成果には哲学的問題が溢れている」
にもかかわらず
哲学は科学的であろうとさえし
哲学を必要としているようには見えない

その「不全感」からその後
フランスで哲学研究の道を選ぶ

その試みは科学的探求から離れるというのではなく
「免疫という現象について
科学が明らかにした事実をもとにしながらも、
そこを超えて新しい知の全体に至ろうとする
「科学の形而上学化」の過程にもとづくものである

いうまでもなく現代の科学は
形而上学的なものを排する唯物論的な傾向をもっている

しかしそれは科学というよりも科学主義で
「客観性、道徳的中立、価値判断の排除」に基づいた
(実のところそれは極めてバイアスのある態度なのだが)
「グローバリズム、あるいは単一思考・単一価値など」の
専制主義にほかならない

そうした認識態度からすれば
「科学の形而上学化」は意味を持ちえないだろうが
重要なのはこのように免疫学を科学的に研究した方が
あえてそこに欠落している「根源的な思索」に
気づいたということだろう

著者も示唆しているように
科学的にいっても免疫を単純に
生体の防御システムとしてとらえることはできない
本来的には非自己として排除されなければならないものと
「共存」「共生」さえしているように
免疫は有機体をどうとらえるのかという問いと不可分であるため

視野を生物界全体に広げそのメカニズムを検討していき
「認識や記憶を担う認知装置という視点から免疫を考えなおす」
ことが求められる

そこで著者が引き合いにだすのは
なんとスピノザの「コナトゥス」である

それは「あらゆる存在が持つ自己保存への「努力」」であり
「そこに内包される善悪の要素は、
免疫が持つ正常と病理という
生物学的極性の制御機能と重なる」というのである

いうまでもなくスピノザといえば「汎心論」である

免疫の本質には
「神経様認知機能および心的性質が
包摂されている可能性」があり
それは「すべての存在には
心的性質が備わっているとする
汎心論的世界と親和性があるように見える。」という

そしてスピノザの「コナトゥス」の観点を
カンギレムの規範性についての思索を併せて検討することで
「免疫の本質には規範性を伴う心的性質が包摂される」
ということが
「免疫に対する形而上学的省察の現段階における成果」
として論じられている

さらに免疫のシステムを
単に個体におけるそれとしてとらえるのではなく
「個体を超えた生態系あるいは世界の営み」として
とらえていく視点が重要になるのではないかとも・・・

形而上学は
感覚や経験に基づいた物理的なものを超えた
ただの思弁のようにとらえられることも多いが
実際のところ「考える」ということは
それそのものが感覚や経験の
メタ・レヴェルにある営みである

感覚や経験をいくら積み重ねても
それを綜合するメタの視点をもつことはできない
科学は容易に科学主義となり
そこに政治や経済が否応なくリンクしてくることにもなる

哲学が科学になろうとさえしているような現代こそ
むしろ科学は哲学へと向かう必要がある

でき得ればノヴァーリスのごとく
科学は哲学になったあと
ポエジーになれますように

■矢倉英隆『免疫から哲学としての科学へ』
 (みすず書房 2023/3)

(「はじめに」より)

「現代の科学は哲学と距離を置いて研究が進んでいるように見える。それとは逆に、哲学にはこれまでの流れを変えるべく科学的であろうとする傾向が顕著になっている。アプリオリの思考から生まれる誤りを避けるために、科学にもとづいたアポステリオリの思考を志向するようになったためである。また、科学と直接の関係を持つ科学、あるいは科学に役に立つ哲学を構想する人も出ている。哲学を科学に従属させる流れは、とくに科学から哲学に入った者には面白みに欠け、哲学の幅を自ら決めているように映る。そのことにより、哲学の存在価値が薄れるばかりではなく、科学が知りえないことを思考する領域を哲学から消し去る行いにも見えるからである。」

「第1章では、人類の歴史において免疫がどのように見られてきたのかについて、できるだけ包括的、統合的にとらえなおしたい。
(・・・)
 その過程で科学と哲学の交流を炙り出し、免疫の本質に至る糸口をつかむことを目指している。」

「第2章では、免疫学では避けて通ることができない自己と非自己の問題について考える。二〇世紀初頭に最初の免疫理論が提出されたときから、免疫システムが自己を攻撃することの危険性は理解され、それは排除されるべきものとしてとらえられていた。その後の研究により、免疫システムは偶然性が支配するメカニズムにより、外界に存在するあらゆる要素、さらにいえばこの宇宙において存在可能なすべての物質に対する反応性を準備していることが明らかにされた。そのため、免疫システムが準備するもののなかには自己成分に牙をむく性質も含まれている。この自己反応性が深刻になると、自己免疫病といわれる状態が生まれる。他方、自己に対する反応性は生理的状態でも見られることが明らかになるにつれ、自己免疫は生体機能の調整のために必須であるという見方も提唱されるようになった。また、本来であれば非自己として排除されなければならない父親由来の遺伝子を持つ胎児が母親によって拒絶されないという現象や、多くの生物がその体内に細菌を含む微生物を棲まわせ、それらと共存しているという現象も明らかにされている。これは非自己成分を識別、排除することを基本とする免疫理論とは、必ずしも合致しない現象である。共生は免疫メカニズムを超えた現象なのか、あるいは免疫メカニズムのなかで説明できるものなのか。自然界を見ると、微生物との共生は例外というより規則といえるほど広く確認されている。この現象は、オーガニズム(有機体)をどうとらえるのかという生物学的、哲学的問いを投げかける。また共生をどう考えるのかという問いは、自然に対する我々の見方の検証を迫るテーマでもある。」

「第3章では、免疫についてオーガニズム・レベルにおける共時的な解析を行う。
(・・・)
 免疫システムをオーガニズム・レベルで見たとき、システムの輪郭がぼやけ、免疫という機能がオーガニズムを全体によって担われている像が浮かびあがってくる。」

「第4章では、視野を生物界全体に広げ、系統樹をたどる通時的視点から免疫といわれるメカニズムを検討する。
(・・・)
 免疫を防御システムとしてとらえる古典的なシステムとしてとらえる古典的な見方を見なおすとともに、認識や記憶を担う認知装置という視点から免疫を考えなおすことになるだろう。」

「第5章では、科学的解析から見えてきた免疫という機能に内在する意味や可能性について省察したい。生命と境界を同じくし、内外の環境に対峙しながら生命の維持に関与する免疫は、スピノザ(一六三二〜七七)があらゆる存在が持つ自己保存への「努力」としたコナトゥスを想起させる。そして、そこに内包される善悪の要素は、免疫が持つ正常と病理という生物学的極性の制御機能と重なる。ここでは、スピノザの哲学を特徴づけるコナトゥスと免疫の関係について検討したあと、生命の規範性について考察したジョルジュ・カンギレム(一九〇四〜九五)の哲学を参照しながら免疫について省察し、その本質に迫ることにしたい。」

「第6章では、本書における解析を振り返り、これから目指すべき新しい生の哲学の方向性を模索する予定である。」

(「第5章 免疫の形而上学」〜「5 免疫の形而上学が呼び込むもの、あるいは汎心論的世界」より)

「免疫を形而上学から考える試みから、免疫の本質には神経様認知機能および心的性質が包摂されている可能性が浮かびあがってきた。一見すると現代科学が信奉する物理主義あるいは唯物論を超えたようにも見えるこの可能性は、すべての存在には心的性質が備わっているとする汎心論的世界と親和性があるように見える。」

「多くの人には異様に映るであろう汎心論だが、我々が直感的に判断するところから離れ、論理だけを頼りに心的要素を考えると、理解にそれほど手間取ることはなさそうにわたしには見える。いったんそのハードルを越えると、世界の見え方がそれを知らなかったときに比べると大きく変化しているのを感じる。汎心論は心的な性質をミクロの世界、マクロの世界を問わず、また生物、無生物を問わず広い世界に認めることにより、我々の意識を広げる力を持っている。この星の、そしてこの宇宙の住人(コスモポリタン)としての意識が生まれる可能性がある。そのため、それまで我々の外に在り、我々のために存在すると考えて対応していた環境や生態系についても、そこに心や感覚を持つ存在を感じることで道徳的な感覚が生まれるほどに我々の態度を変える働きをすることが期待される。そこからさらに進むと、現代の問題の根底にある科学主義(客観性、道徳的中立、価値判断の排除などを含む)グローバリズム、あるいは単一思考・単一価値などに対抗する新たな視点を提供することができるようになるかもしれない。
 免疫システムはそれ自体が生態系を構成している。しかしこれからは、個体を超えた生態系あるいは世界の営みのなかに免疫を入れた視点が重要になるように感じられる。」

(「第6章 新しい生の哲学に向けて」より)

「哲学とは、個別の問題を離れて全体を問う営みである。本書では、免疫という現象の本質は何かという問いを掲げ、最初に科学の世界における研究成果を検討した。その結果、免疫は生物界に遍く存在し、生命と不可分の機能であるという指摘を行った。免疫はまた、生命の根底を成す機能である認識と記憶を支える最も古く、最も普遍的な認知機能である可能性も見えてきた。これは、生命について省察する際、免疫を抜きにしては論じられず、免疫を語るためには神経系が独占しているかのように見なされている認識や記憶という認知機能についても施策を深めなければならないことを意味している。あるいは逆に、神経系の機能を考えるとき、免疫についての研究成果を無視できなくなるかもしれない。さらに、このような免疫に関する科学の成果をもとに本質的な要素について形而上学的省察を行うなかで、スピノザが存在を維持する根源的な「努力」として定義した「コナトゥス」との共通性が見えてきた。生命、無生物を含むすべての存在を対象としたこの概念が生物に適用される場合、身体的な要素のほかに心的要素が含まれ、感覚や受容に関わる意識である「衝動」(アペティートゥス)と、その「衝動」を意識することができるヒトにかぎられる能力としての「欲望」(クピディタス)がある。免疫機能が生物界に広く認められることを考慮すると、このなかの「衝動」が免疫の本質とほぼ完全に重なることが見えてくる。スピノザによれば、コナトゥスには道徳的な要素が内包されている。存在の維持に向かうのは善であり、それを見出すのは悪だと考えたのである。この点について、カンギレムの規範性についての思索を併せて検討した結果、免疫の本質には規範性を伴う心的性質が包摂されるという結論に至った。これが免疫に対する形而上学的省察の現段階における成果である。」

◎目次

はじめに

第1章 免疫学は何を説明しようとしてきたのか
1 「免疫」という言葉、あるいはメタファーについて
2 免疫学が確立される前に明らかにされていたこと
3 近代免疫学の誕生
4 新しい選択説の出現
5 免疫を担う主要要素はどのように発見されたのか
6 免疫反応の開始はどのように説明されたのか
7 クローン選択説に対抗する新しい理論的試み
8 新しい理論的枠組みを生み出すもの

第2章 自己免疫、共生、そしてオーガニズム
1 自己免疫
2 微生物との共生
3 胎児との共生
4 共生が問いかける問題
5 オーガニズムとは何をいうのか

第3章 オーガニズム・レベルにおける免疫システム
1 ぼやける免疫システム内の境界
2 オーガニズム全体に浸透する免疫システム
3 情報感知システムとしての免疫
4 内部環境、ホメオスタシスを再考する

第4章 生物界に遍在する免疫システム
1 細菌の免疫システム
2 植物の免疫システム
3 無脊椎動物と無顎類の免疫システム
4 免疫を構成する最小機能単位
5 ミニマル・コグニション問題
6 最古の認知システムとしての免疫

第5章 免疫の形而上学
1 「科学の形而上学化」という試み
2 スピノザの哲学から免疫を考える
3 カンギレムの「生の規範性」から免疫を考える
4 生命の本質に免疫があり、免疫の本質には規範性を伴う心的性質が包摂される
5 免疫の形而上学が呼び込むもの、あるいは汎心論的世界

第6章 新しい生の哲学に向けて

おわりに

謝辞

図版クレジット

索引

○矢倉英隆
(やくら・ひでたか)
サイファイ研究所ISHE代表。1972年北海道大学医学部卒業。1978年同大学院博士課程修了(病理学)。1976年からハーヴァード大学ダナ・ファーバー癌研究所、スローン・ケタリング記念癌研究所、旭川医科大学を経て、2007年東京都神経科学総合研究所(現東京都医学総合研究所)免疫統御研究部門長として研究生活を終える。2001-2007年首都大学東京(現東京都立大学)客員教授。2009年パリ第1大学パンテオン・ソルボンヌ大学院修士課程修了(哲学)。2016年ソルボンヌ大学パリ・シテ大学院博士課程修了(科学認識論、科学・技術史)。2016-2018年トゥール大学招聘研究員。著書に『免疫学者のパリ心景――新しい「知のエティック」を求めて』(医歯薬出版、2022)。訳書にフィリップ・クリルスキー『免疫の科学論――偶然性と複雑性のゲーム』(みすず書房、2018)、パスカル・コサール『これからの微生物学――マイクロバイオータからCRISPRへ』(みすず書房、2019)がある。

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