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シュタイナー『人智学指導原則』『聖杯の探求』『バガヴァット・ギータとパウロ書簡』/ヘルマン・ベック『秘儀の世界から』

☆mediopos3538(2024.7.25)

シュタイナーは『人智学指導原則』のなかで
「人智学はグノーシスの改新ではありえない」
と示唆しているが

この視点は
グノーシスと人智学を
『バガヴァット・ギータとパウロ書簡』における
クリシュナとキリストの違いと比べてみると理解しやすい

たとえば典型的な例として
唯物論と唯心論があり物心二元論がある

極論あるいは典型をいえば
科学は唯物論的であり宗教は唯心論的であり
哲学においてもその二極および二元論がある

霊的世界観でいえば
すべては霊(精神)であるともいえるが
人智学でいえば
物質はマーヤー(幻)のようなものではなく
物質もほんらい霊的なものにほかならない

物質あるいはこの地上がマーヤー(幻)である
というのは古代インドの世界観だが
霊的世界観のなかには
その古代インドの世界観から
世界を見ようとするものも多くある

シュタイナーは
「グノーシスは、感受魂(感覚魂)の時代
(ゴルゴタの秘跡発生前の三千年から一千年まで)に、
その本来の形態のなかで発展した」もので
「古代から保管されてきた認識の方法」だという

霊と物質の善悪二元論であり
認識(グノーシス)によって真の神に到達できるとしたが
「外界は、もちろんマーヤー(幻)」であって
キリストの神性を認識するときにも
ロゴスが肉になったという見解には至らず
キリストは地上においては不可視な存在である

外界がマーヤー(幻)だというのは
『バガヴァット・ギータ』においても同様で
クリシュナは一種の「マーヤー(幻)としての受肉」であって
超感覚的な領域のなかに生きていたのである

グノーシス主義においても古代インドの世界観においても
「地上的なものへの関係すべてはマーヤー」だが
キリスト・イエスの存在が重要なのは
地上において肉体をもって生きたということである

グノーシスがどんなに高次の認識に関わっているとしても
クリシュナがどんなに高次の存在であったとしても
それらは地上における外界・物質そのものの秘密を
開示するものではない

人智学が他の霊的世界観と
大きく異なっているのはその点である
しかもアルジュナのような特別な人間だけに
秘密を開示するのではなく
全人類的への射程をもっているということ

しかしそれは逆説的にいって
むしろさまざまな錯誤を生みやすくもなる

たとえばシュタイナーは霊的な認識のために
感覚から自由な思考が必要だというが
これは感覚を否定しているのではなく
十二感覚論があるように
むしろ逆に感覚を豊かにする必要がある
ということを前提にしている
自然学も医学も農業もそれゆえに
豊かな領野として展開される

感覚を豊かにしなければ
そしてそれによって
外界・物質そのものに深く関わらなければ
そこから「自由」になることもできないからである

シュタイナーの初期の哲学書『自由の哲学』も
そのことをふまえなければ
思考による一元論という射程もとらえることはできない
とらえそこなうと「感覚から自由な思考」が
貧しい感覚の肯定のようにもなりかねない

思考そのものも行為にほかならないのだが
その行為が外界(自然)における開示に至るまでの
いわば「ミッシングリンク」が問われなくなったりもする

思考そのものを現実であり行為とするためには
地上を生きて歩くロゴスとならなければならず
そのためには豊かな感覚が不可欠なのである

「感覚は欺かないが、判断は欺く」
というゲーテの言葉があるが
欺かないはずの感覚に欺かれるところでは
思考はたしかなはずの知覚内容とむすぶための
生きた概念創造ができなくなる

■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)『人智学指導原則』(水声社 1992/9)
■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)
 『聖杯の探求 キリストと神霊世界』(イザラ書房 2006/7)
■ヘルマン・ベック(西川隆範訳)『秘儀の世界から』(平河出版社 1993/3)
■ルドルフ・シュタイナー(yucca訳)『バガヴァット・ギータとパウロ書簡』(神秘学遊戯団)

**(シュタイナー『人智学指導原則』〜「人智学指導原則 159・160・161」より)

*「159 グノーシスは、感受魂(感覚魂)の時代(ゴルゴタの秘跡発生前の三千年から一千年まで)に、その本来の形態のなかで発展した。「神的なもの」は、先行する感受体(感覚体)の時代には外界の感覚的印象にみずからを開示したのに対して、この感受魂の時代には人間に、内面のなかの霊内容としてみずからを開示する。」

*「160 悟性魂(心情魂)の時代には、「神的なもの」の霊内容はただ色褪せた仕方でのみ体験されうる。グノーシスは厳重な秘儀のなかに保管された、人間が感受魂をもはや活気づけることができなくなったとき、霊存在をとおして、グノーシスの認識内容ではなく、感情の内容が中世に運ばれた(聖杯伝説がこのことを示唆している)。それに平行して、悟性魂(心情魂)に侵入する公教的なグノーシスは根絶された。」

*「161 人智学はグノーシスの改新ではありえない。グノーシスは感受魂の発展に関わっているからである。人智学がミカエルの活動の光のなかで、意識魂から新たな仕方による世界の理解、キリストの理解を発展させねばならない。グノーシスはゴルゴタの秘跡当時、ゴルゴタの秘跡の意味をもっともよく人々に理解させることのできた、古代から保管されてきた認識の方法である。」

**(シュタイナー『聖杯の探求』
   〜「聖杯の探求 キリストと神霊世界 1 グノーシス」より)

*「グノーシスの思考内容に入っていくことは、人間にとって非常に困難なのです。グノーシスはまったく物質を想起させないものを、宇宙考察の発端に置くからです。(・・・)「どの宇宙存在に関しても、概念は宇宙の根底に到達しない。今日の宇宙理解によっては宇宙の根底に到達しない」と考えるように要求されると、現代の教養のなかで育った人間は、本当に嘲笑を禁じえないでしょう。

「神的な原初の父のなかに、宇宙の根底は存在する」。心魂が唯物論的な表象から離れて、自らの深みを探究するとき、原初の父のかたわらに、心魂が得ようと努めるものが、原初の父から発して、存在しはじめます。「沈黙、無限の沈黙、時間も空間もない沈黙」です。時間と空間が存在する以前の、宇宙の父と沈黙というペアを、グノーシス主義者は見上げました。

 原初の父と沈黙の結婚から他の諸世界、他の諸存在が出現しました。そして、これから他のものが出現し、また、それらから他のものが出現します。そのようにして、三〇の段階を経ます。(・・・)

 私たちの世界に先行する三〇の存在、三〇の世界は通常「アイオン」と表現されます。

「感覚が知覚するもの、自分の周囲の世界と名付けられているものだけが、三一番目の世界に属しているのではない。物質的な人間が自らの思考でこの世界を説明するとき、その説明も三一段階目に属すのだ」と明瞭に思うとき、アイオンの世界という表現によって意味されるものを表象できます。

「外界は、もちろんマーヤー(幻)である。しかし、私たちは思考によって神霊世界に突入する」と言い、この思考が本当に神霊世界に到達できるという希望を持つなら、精神的な世界観を了承することがまだ容易です。しかし、グノーシス主義者の見解では、そうではありませんでした。」

*「「当時、歴史の発展のなかで生じたことを、グノーシス主義者は理解したのか」と、私たちは問います。グノーシス主義者から答えを得ることはできません。彼らの答えは、私たちを満足させません。今日、明視的な心魂が目にするものに、グノーシスは光を当てることができないのです。」

[注釈:グノーシス哲学]
一世紀頃に生まれ、二〜三世紀にかけて勢力を持った古代の神秘思想の一つ。霊と物質の善悪二元論に特徴があり、認識(グノーシス)によって真の神に到達できるとした。キリスト教がロゴスの受肉を語るのに対してグノーシスは不可視のキリストにとどまり、キリストの神性を認識するがロゴスが肉になったという見解に至らない。」

**(ヘルマン・ベック『秘儀の世界から』
   〜「第7章 古代の密議におけるキリストの秘密」より)

*「キリストの啓示を太古のインドの密議のなかに見出すのは簡単ではない。太古のインドの密議に存在するのは、失われた楽園の回想である。人間の堕罪後、楽園は高次のエーテル界のなかにとどまった。ノヴァーリスが『夜の賛歌』のなかで語っている「エーテルのなかに消え去ったすばらしい故郷」が、インド人の意識の故郷であった。この意識のなかに、キリストの宇宙的な啓示が生きている。

 しかし、この意識のなか、超感覚的世界のなかのキリストや、地上に生まれるまえのキリストの啓示だけではなく、キリストが地球と人類にとって意味するもの、シュタイナーの言葉を借りれば、「ゴルゴタの秘儀をとおして地球に救いをもたらし、人類に自由と進歩をもたらした」神霊としてのキリストを見ることは困難である。この地球の歴史の中心点となるできごとへの予言的な視点は、ゾロアスターの密議におけると同様に、太古のインドの密議のなかにもあったにちがいないのだが、そのような事実の痕跡を見出せる場所はインドの密議のなかにはない。インド人には、アーリマンをとおして生じた堕罪へのまなざしが欠けていた。ルシファーとアーリマンの中間に、キリストの全体像が現れるのである。」

*「ゴルゴタの秘儀よりまえに、堕罪後「楽園追放」とともに人間には失われた領域のなかに、キリストの魂を開示するもののように生きていたこの存在はだれなのか。この存在は大をともにしなかった人類の実質を担い、地上に受肉しなかった実質を担っていた。この存在は誕生以前の領域にとどまっていたのである、人智学はこの存在を、ナタン系のイエスと呼んでいる。もっと性格にいえば、この存在と、「ルカ福音書」のナタン系のイエス。ナザレのイエスとの関係を、人智学は指摘しているのである。」

*「「ナタン系のイエスの領域」からのクリシュナの下降に関して、クリシュナがナタン系のイエスの近くに立っているとしても、クリシュナがナタン系のイエスの本来の受肉の姿であると理解すべきではない。「ナタン系のイエス」のなかには、それまで地上での受肉を体験したことがなく、堕罪後高次の世界にとどまった人間の実質に属する存在が生きていた、と語られる。この存在はそれ以前にクリシュナとして地上に存在することはできなかったのである。ルドルフ・シュタイナーは、クリシュナは一種のマーヤー(幻)としての受肉であり、ナタン系のイエスの完全な受肉ではなかった、と強調している。それは、インドの文献を考察することによって完全に確かめられる事実である。偉大な闘いの叙事詩『マハー・バーラタ』に登場するクリシュナの人格を見てみるがよい。そこでは、クリシュナは戦いで困難な役割を果たす抜け目のない政治家である。「この存在は地上で果たす役割、地上的なものすべてはそもそも意味のないもの、マーヤーであった。この存在は超感覚的な領域のなかに生きていた。この存在は地上のできごとが実体のないものであることを人々に示すために、人間のなかで生きた」と考えることによって、クリシュナという存在の謎を解くことができる

 この気分が『バガヴァット・ギータ』のなかで、御者である神的なクリシュナがアルジュナにつぎのように語る教えのなかにも現れている。「戦え、戦士として義務を果たせ。だが、勝利と敗北、生と死に対して無頓着であれ。ただ、おまえのなかの神的なものに帰依せよ。そうすれば、おまえはわたしにいたる。おまえの神的な自己としてのわたしに合一する」

 このように神的なものが地上の課題を義務とせよと述べていることを、キリスト教衝動と結びつける試みはできるかもしれない。しかし。そうすると『バガヴァット・ギータ』における地上の義務、戦いの義務の遂行は、地球の創造的な愛のなかに神的なものを植えつけるためではなく、運命の課題を休みなく遂行することによって地上的なものを終結させ、それ自体の無実体性の手に委ねるためである、という決定的な観点を見逃すことになる。キリスト衝動の意味において地上的なものと結びつくのではなく、地上的なものからの解放が、クリシュナの忠告の背景にある。クリシュナの地上への受肉はマーヤーにすぎない。地上的なものから解き放たれたクリシュナという存在が語っているのである。」

*「そもそもインドの密議において、地上的なものへの関係すべてはマーヤーになっている。特徴的なことに、(インドでは女性の名まえとしては使用されない)マーヤーという名がブッダの母の名として現れるが、この名はキリストの母マリアを思いださせる。インドのブッダの物語においてはまだマーヤーのヴェールに覆われていたものが、マリアにおいて地上の現実となり地上の啓示となったのである。」

**(シュタイナー『バガヴァット・ギータとパウロ書簡』〜「第五講」より)

*「東洋的な思考がまだ成し遂げることができたものと、パウロにおいてすぐさまかくもすばらしく明瞭に私たちに向かって現れてくるものとの間には、根本的な違いがあります。(・・・)東洋的な進化の内部では、東洋的な秘儀参入の内部においてすら、あらゆる努力は、物質的な存在[Dasein]から自由になること、自然として外部に拡がっているものから自由になることを目指すのです。と申しますのも、自然としてそこに拡がっているものは、ヴェーダ哲学の意味ではマーヤー(幻影、仮象)として現れるからです。外部にあるものすべてはマーヤーであり、ヨーガはマーヤーから自由になることです。私たちも示したことですが、人間は、為し、行い、欲し、考えるものすべて、欲求や思考の対象となるすべてから自由となり、外面性であるものすべてに魂として勝利することがまさにギーターにおいては求められているのですから。人間の行う営みをいわば人間自身から落とし、人間は自ら自身のうちに安らい、自身のうちで自足せよ、というわけです。このように、誰であれクリシュナの教えの意味で進化したいと願うひとの念頭にもあることは、根本的に言って、いつかパラマハムサ[Paramahamsa]、すなわちあらゆる物質的存在を離れ去り、彼自身がこの感覚世界の内部で行為として行ったすべてに打ち勝つ高次の秘儀参入者のような何かになることです、純粋に霊的な存在のなかに生き、感覚的なものを克服してもはや再受肉への渇望がなくなり、営みとしてこの感覚存在に習熟したものすべてにもはや関わりを持たないまでになった秘儀参入者のような何かに。つまりそれはこのマーヤーから抜け出すこと、いたるところで私たちに向かってくるこのマーヤーに勝利することなのです。

 しかしパウロにおいてはそうではありません。パウロの場合はこうなのです、彼がこういう東洋的な教えに向き合ったとしたら、彼の魂の深い奥底において何かが次のような言葉を呼び起こすことでしょう、いかにも、お前は外でお前を取り巻いているすべて、お前がかつて外部で行ったすべてからも抜け出して進化したいと思っている。お前はすべてを置いていきたいのか?いったいすべては神のみわざ[Gotteswerk]ではないのか、お前が抜け出そうと欲するすべては神的に霊により創造されたものではないのか?お前がそれを軽蔑するなら、お前は神のみわざを軽蔑しているのではないか?いかなるところにも神の顕現が神の霊が生きているのではないか?まずお前自身の営みのなかに愛し信仰し帰依しつつ神を示そうとはしないのか、それでいて、神のみわざであるものに勝ち誇るつもりなのか?

 パウロによって語られてはいませんが彼の魂の底で働いているこの言葉を私たち自身が魂の奥深くに書き記すのが良いでしょう、と申しますのも、そこには私たちがまさしく西洋的な啓示として知っているものの重要な神髄が表現されているからです。パウロ的な意味においても私たちは私たちを取り巻いているマーヤーについて語ります。なるほど私たちも、いたるところでマーヤーが私たちを取り巻いている!と言うでしょう。けれども私たちはこう言うのです、いったいこのマーヤーのなかには神の顕現がないのか、すべては神的ー霊的なみわざではないのか、いたるところに神的ー霊的なみわざがあるということを理解しないのは冒涜ではないのか?と。今や新たな問いが加わります、なぜこれがマーヤーなのか、なぜ私たちは私たちの周りにマーヤーを見るのか、という問いが。ーー西洋はすべてがマーヤーであるかどうか、という問いにとどまりません、なぜマーヤーなのか、が問われるのです。ここで、私たちの魂的なもの、プルシャの中心にまで入り込んでゆく答えが生じます、魂がかつてルツィファーの威力に屈したので、魂はすべてをマーヤーのヴェールを通して見るのだ、魂は魂としてあらゆるものの上にマーヤーのヴェールを拡げるのだ、という答えが。ーー私たちがマーヤーを見るということは、いったい対象の罪なのか?否。私たちがルツィファーの威力に屈しなかったら、魂として対象は私たちにその真実の姿を現すだろう。対象が単にマーヤーとしてしか私たちに現れないのは、私たちがそこに拡がっているものの根底を見ることができないからだ。これは、魂がルツィファーの威力に屈したことが原因である、これは神々の罪ではなく、自分の魂の罪なのだ。お前魂はお前にとって世界をマーヤーにしてしまった、お前がルツィファーに屈服したことによってだ。

 このような定式化の最高の精神科学的理解から下降して「感覚は欺かないが、判断は欺く」というゲーテの言葉までは一直線です。俗物や狂信者たちはゲーテを、ゲーテのキリスト教を思うさま論難するがよろしい、それでも、やはりゲーテが、自分はきわめてキリスト教的な人間のひとりであると言うことは許されるでしょう、なぜなら、「感覚は欺かないが、判断は欺く」というこの定式に辿り着くほど、ゲーテはその本質の奥深くでキリスト教的に考えているからです。魂の見るものが真実でなく、マーヤーとして現れるのは、魂の罪です。ここでオリエンタリスム(東洋主義 Orientalismus)においては単純に神々自身の行為のようにそこにあるものが、ルツィファーとの大いなる闘いの起こる人間の魂の深みへと転じられます。」

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