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高岡 英夫『完全版「本物の自分」に出会うゆる身体論』

☆mediopos-2593  2021.12.22

「ゆるむ」だけで
「本物の自分」に出会える
とはいえないだろうけれど

「ゆるむ」という発想は重要である

「ゆるむ」の対極にあるのが
「張る」「締まる」「固まる」である
とくに「固まる」

防災のためにと護岸工事で
コンクリートで固めてしまうように
身体を固めてしまったとき

それまでの川の自然は「固め」られ
そこにいた生き物たちの多くも
生息できなくなってしまうように
身体の生きた動きは失われてしまう

対症療法ということで
ポイント部分の症状の疾患だけを
抑えようとするのもそれに似ている

「ゆるむ」「ゆるめる」ことは
暴れ馬の手綱を放してしまうことではない

身体の全体が柔軟にバランスし
微妙な変化にも応じられるように
そこにいわば「動的平衡」をもたらす
というイメージでとらえられる

「動的平衡」とは
変化するベクトルと
バランスするベクトルが
調和的に統合された「ゆるむ」ことでもある

そうした「ゆるむ」という発想は
もちろん身体だけではなく
感覚や感情や思考においても
とても重要なことだ

コンクリートで固められた感覚や感情や思考では
決まりきった受容と表現だけしかできなくなる
一種の「洗脳」状態ともいえるかもしれないし
「管理社会」化もその延長上にあるともいえる

本書では主に「身体論」として
「ゆるむ」ためのさまざまな「ゆる」が
図解しながら紹介されている

代表的な「ゆる体操」では
「ほゆる」(骨のゆる)
「ぞゆる」(臓器のゆる)
「きゆる」(筋肉のゆる)があり

そのほか
「寝ゆる」「座ゆる」「椅子ゆる」
「立ちゆる」「息ゆる」など
実際にできる「ゆる体操」で
「揺動・擦動緩解運動」をやってみることができる

そうすることで身体だけではなく
感覚・感情・思考も
「ゆるむ」状態へ

■高岡 英夫『完全版「本物の自分」に出会うゆる身体論』
 (さくら舎 2016/12)
■宮本 武蔵(鎌田茂雄訳注)
 『五輪書』 (講談社学術文庫 講談社 1986/5)
■アラン(神谷幹夫訳)『幸福論』
  (岩波文庫 岩波書店 1998/1)

「宮本武蔵の『五輪書』には、「ゆるむこと」が兵法の根本をなす原理であることが、明確に説かれています。そのことは『五輪書』の基底を語る「地之巻」の次の一節「水を本として、心を水になる也」に集約されているとともに、「水之巻」の一節「心を静かにゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに」をはじめとして、『五輪書』全編の中で10カ所以上にわたって、記されています。
 おそらくは日本の武術史上、もっとも人を斬ることの強さを究めようとしたであろう剣客の兵法の根底が「ゆるむこと」であることは、多くの読者に驚きをもって迎えられることでしょう。
 そして他方、フランスの教育家、思想家であるアランの『幸福論』。多くの断章に通底する論旨を読み解いていくと、アランは幸福の根底をなす原理として「ゆるむこと」を語っていることがわかります。幸福の要素となりうる外的要素も、人間関係や心や身体の問題のような内的要素も、「ゆるむこと」なしには幸福の要素として完全には機能しえない、ということなのです。
 武蔵とアラン、『五輪書』と『幸福論』、およそかけはなれた両思想の根底をなす原理が、同じ「ゆるむこと」というのは一体どういうことなのでしょう。それは、兵法も幸福もすべては人間という事象の具体的部分に過ぎず、それらには共通する深い本質があり、それが「ゆるむこと」だということを示しているのです。」

「私たちがどのような身体のあり方をしたらいいかというと、第一義的に、全身の細胞たちに揺動(ゆすりゆすられ動く)・擦動(さすりさすられ動く)をさせるような、しかも質の高い運動状態を、基本的な身体のあり方とすることです。
 これは揺動、擦動緩解運動というものが、人間の望ましい身体のあり方に、必須不可欠な第一義的な要素として見出されたということを意味しています。これはきわめて重要なことで、身体に関する論=身体論において、歴史上さまざまな考えが述べられてきましたが、人間の身体を論じていくときに、動物細胞に基づくこうした種類の運動状態が身体のあり方の基本である、あるいは身体論のベースになるという考え方は、意外にも今日に至るまでなかったのです。
 そのような意味から、21世紀以降の身体論の新しい地平というものは、運動論によって拓かれるべきものだと、私は考えています。その運動とは、揺動・擦動緩解運動です。」

「結局、揺動運動にせよ擦動運動にせよ、細胞レベルの構造・機能に従って、その構造的特徴をもっとも活かし、その機能を最大化するものでなければならないわけです。揺動・擦動の結果、身体がどういう状態になるかというと、それは緩解といういうゆるんで、ときほぐれた状態です。
 私が考えた「ゆる」という概念は、まさにこの揺動・擦動などの運動によって緩解状態が十全に保証されるという運動コンセプト、あるいは身体のあり方を示す概念です。」

「ゆるむという言葉の使われ方をざっと見てみると、どうも、「ゆるむ」という言葉は、あまりいいことを現していないことが多く、その対立概念である「張る」「締まる」「固まる」は、いいことを表していることが多いように見受けられる。
 しかし、「ゆるむ」「張る」「締まる」「固まる」を、そのような観点だけでとらえていると、人間にとって重要な事態や現象、さらには法則や論理を見失うことにもなってしまうのである。
 たとえば、不意を突かれたり、怖い目にあったり、緊張したりする場面で、最近の若い人たちはよく「固まっちゃった」とか「固まっている」という。そういっている、あるいはいわれていいる人を見ると、まさにカチッと固まっている。頭も身体もこわばっている。
 しうしながら固まった身体や心では、試合で優れた動き、会議で有効な議論もできないし、食事をしていても楽しくない。だかたらこの場合、固まるのがよくないことは明らかだ。(…)
 そして、この場合の「固まる」「固まっている」の反対概念は何かというと、それが「ゆるむ」「ゆるんでいる」であるということに、異論はないだろう。」

「これらのことから私はあることに気がついた。それは、大局的に眺めてみると、人間の科学的な認識のあり方の歴史は、固まっている方向からゆるんでいる方向へ進んできているのではないか、ということである。
 人間がものを見て、こういうことが真理ではないかと考える認識のあり方はパーツ同士を強くつないだり、締め付けたり、固めたり、もともと決まったものは決まったものというような堅牢で固定的なものから、パーツとパーツのあり方をより自由にとらえる方向に変わってきているように思えるのだ。」
「生物に対する考え方も似たようなことがいえる。昔は、生命、生物は神がつくったものだから、不変だと考えられていた。ところが、もとは単細胞生物だったものが、次々に変化していくことで多種多様な生物が生まれたのだ。変化の連続こそが生命の存在であるという説をダーウィンなどの生物学者が唱えるようになった。(…)
 生命の物質構成に関する考え方にも、固定的から変動的への同じような認識の変化が見られる。」
「言語学でも同じ傾向のことが起こっている。」
「このように考えてみると、固まっていることがよくて、ゆるんでいることがよくないという現代人の人間に対する見方、あるいは人間が構成している組織に対する見方は、思想史的に見ると、どうやらずいぶんと古典的な段階にとどまるもののようである。
 つまり、私が本書でお伝えしたいのは「ゆるむとちょっといいこともあるよ」というレベルの話ではない。ゆるむことをどのようにとらえるかは、人間や人間の集合体であるすべての組織、家庭にはじまり企業や国家といった規模のものまで含めて、それらのあり方を規定する根本的なものの見方の問題なのである。」

「自然はゆるんでいる。だから、明らかに自然の一部である私たちの身体もゆるんでいると、本当に健康であったり、持てる能力のかぎりを尽くして高い能力を発揮できたり、とても幸せな状態になっていくのだ。
 人間はゆるんでいる自然に対して、コンクリートを使って護岸工事、防壁工事をする。コンクリートは固まっているものの代名詞だが、その固まっている状態を利用することで、自然のゆるんでいる運動を止めようとしている。ゆるんでいる自然に対して、固まっているコンクリートを対峙させる。これが私たちの文明、文化のひとつの象徴的な運動の仕方なのである。(…)
 いくらコンクリートで固めて自然のゆるみを退治しようとしても、自然は法則そのものだから、結局自然に勝つことはできないで終わるのだ。」
「今後は少しずつ、いろいろなところで自然とどのようにつき合っていったらよいかの再考が進むだろう。ただ単にゆるんでいる自然に対して、固まっているコンクリートをぶつけて退治というような単純な発想ではなく、自然の持っている法則に、少しでもより多く合致するような方向に、現代文系の考え方も変容しはじめる必要があるように、私には見える。」

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