見出し画像

『ジェイムズ『多元的宇宙』のプラグマティズム』  ・『ジェイムズの多元的宇宙論』

☆mediopos-2438  2021.7.20

ウィリアム・ジェイムズのことを
はじめて知ったのは
『善の研究』(西田幾多郎)の
「純粋経験」からだったが

その後プラグマティズムとの関係で
ジェイムズを見ていくうちに
「純粋経験」と「プラグマティズム」が
どう関係するのかが見えなくなってしまっていた

それはプラグマティズムの大成者である
ジェイムズの意図していた「プラグマティズム」が
「機能主義や功利主義の積極的側面を発達させた
実践哲学」的なものへと方向づけられ
「純粋経験」的な「形而上学的問い」に
むしろ拒否的な態度さえとっているからだった

おそらくジェイムズのとらえていた「経験」と
実用的なものに結びつくだけの「経験」とが
同じ「経験」といっても
その射程範囲が大きく異なっているからだろう

伊藤邦武『ジェイムズの多元的宇宙論』で
そのことをようやくある程度
概観できるようになってきていたのだが
今年に入って刊行された
猪口純『ジェイムズ『多元的宇宙』のプラグマティズム』は
ジェイムズ自身の不十分な論を補うかたちで
まさにジェイムズにおけるその「経験」について
「純粋経験」的な意味での「経験論」から
ジェイムズの特異な「多元的宇宙論」全体を
一貫したものとして捉えようとしている

実用主義的なプラグマティズムは
目に見えるわかりやすい「経験」に依拠しているため
だれにでも理解しやすい反面
「経験」の深みへの洞察は欠如してしまっている

「経験とは何か」を深く問うことではじめて
開けてくる宇宙観といったものはそこにはない
そこでいわれる「実践」はまさに
ベタな実践以外の何ものでもないからだ

西田幾多郎もジェイムズ同様
当初「純粋経験」の哲学から出発したが
その後いかにしてそれを
実際の世界のなかでのダイナミックな働きとして
位置づけるかをめぐって
さまざまに論を繰り広げていくことになる

西田幾多郎の精神的背景には仏教があったが
ジェイムズの「多元的宇宙」も
仏教的な「一即多」ないし「一即一切」
つまりは華厳的世界像に近しく
またそれはライプニッツのモナドロジーとも通じた
形而上学的世界像として理解すると近づきやすくなる

そしてそれはまさに
あらゆる「経験」を捨象しない
真のプラグマティズムであるともいえるのだが
(実用的なものだけに射程をおくプラグマティズムは
「経験」をきわめて限定して扱ってしまう)

やはり困難なのは
「純粋経験」的な「経験」への射程を
持ちえない者にとっての「経験」は
見えても見えず聞こえても聞こえずのまま
多層的かつ輻輳した深みをもった
多次元的なものとしてはあらわれ得ないことだ

■猪口純
 『ジェイムズ『多元的宇宙』のプラグマティズム―経験の彼方を問う経験論―』
 (晃洋書房 2021/2)
■伊藤邦武『ジェイムズの多元的宇宙論』
 (岩波書店 2009/2)

(猪口純『ジェイムズ『多元的宇宙』のプラグマティズム』より)

「〈プラグマティズム〉とは、観察可能な現実における具体的効果のうちに物事の本質を看取しようとする思考形式の総称である。今日、この思考形式は機能主義や功利主義の積極的側面を発達させた実践哲学として専ら政治・経済・倫理の課題に取り組み、善き将来の共同体の姿を模索する方法論を提供する一方、いわゆる形而上学的問いには積極的に関わらない立場を形成するものと見なされることが多い。しかしこの一般的理解は特定のプラグマティストの活動やその背景にある固有のプタグマティズム観に当てはまるものであり、プラグマティズム全般、また思想史におけるプラグマティズムなるものの演じた役割に対する理解としては非常に狭隘なものであうr。形而上学はむしろプラグマティズムにとって一貫した課題であったと言わねばならない。しかもそれは進路上の障害としてではなく、それ自体追求に価する真剣な問いとして、常にその視野の中心を占めてきた課題なのである。」

「この状況下でとりわけ大きな不利益を被っているのがプラグマティズムの大成者その人、ウィリアム・ジャイムズとその思想である。個的存在として振る舞う自律的諸対象の存在と、その内に宿る意識経験=内面的現実の、単純な主観主義的経験を超越した具体性、そしてそれらのせめぎ合いの中に形作られる客観的=広域的な秩序のあり様を描写したジェイムズの宇宙論は、プラグマティズムの方法に関する深い洞察と、その方法に則った幅広い知見の総合によって導出された理論でありながら、プラグマティストの仕事として紹介される例は稀である。ジェイムズの宇宙論を、信頼に価する共通経験や観察可能な諸事実を言葉巧みに捻じ曲げた、あるいはごく個人的な宗教的信仰によって不当にも棚上げした世界観だと解釈する批判的な論者にそのプラグマティズム的基礎の説明を望めないのは当然として、その特異な性格や先駆性に意義を認め解読を進めている研究者の記述においても、ヴィジョンと方法の結びつきは依然曖昧である。」

「本書はジェイムズの宇宙論を〈プラグマティズムに裏打ちされたもの〉として読むことにより、彼の哲学全体を首尾一貫したものとして理解することを目指すとともに、プラグマティズムそのものの、不幸にも見過ごされ続けてきた意義と可能性とを詳らかにすることを目的とする。」

「〈プラグマティズム〉といえは世間では社会生活上の実用一辺倒で「見えないもの・触れ得ないものには一切関わろうとしない」思想との印象が強い。率先して意識や独自的な敬虔を排斥するスタイルだと理解されている節すらある。実際それに近いことを発信している「プラグマティスト」が活躍している以上、これについては誤解とも言い切れない苦しさはあるが、少なくとも確実なのは、その大成の書たり「プラグマティズム」が決してそうではないということである。この書物はむしろ、見えないもの・触れえないものの強度、あるいは主観的経験に現出するあらゆる対象の実在性を徹底して主張している。著者は後年『多元的宇宙』と題して書物の中で多くのプラグマティストから無視を決め込まれることになった宇宙論を展開するのも、実のところは『プラグマティズム』において徹底化されたプラグマティズムの帰結なのである。
 『多元的宇宙』で論じられているのは次のことである。毎瞬間の経験(さしあたり、私たち人間に限られない、それどころか生き物にも限られない存在者の下に集約された情報の総体)は、その都度その瞬間において完全な宇宙であり、そこに含まれる内容すべても当の瞬間において全く実在的である。それが不完全な宇宙と化し(あるいは単にみなされ)、一部を除いたほとんどの内容から実在性が失われるのは、続く瞬間において他の宇宙=経験と接触したときである。したがって我々が普段〈宇宙〉と呼んでいるものは、実際には夥しい数の宇宙によって織り上げられた複合体=多元的宇宙と見なすべきものなのである。多元的宇宙には物理的秩序のように、長い時間をかけて踏み固められた比較的安定した層を認めることができる。しかしそれは成立が必然であるような基礎では決してなく。数ある可能性のひとつに過ぎない上、今も生成の途上にあって柔らかな部分を多く残している。そうである以上、私たちは常に予期せぬ出会いに開かれていると考えなければならない。ときにはひと続きであると信じていたところに亀裂やほころびを見出すかもしれない。幾重もの襞の奥に馴染みのものとはまるでかけ離れた見慣れぬ風景へ続く小路が突然姿を現すかもしれないし、既存の秩序があるときある場所で突然覆ることすらあるかもしれない。そんな不合理そのものの事件が生じたとしても、多元的宇宙においてはその成り立ちからして何ら不思議な事態ではないのである。
 ジェイムズは後半生の哲学的思索において、プラグマティズムが簡素な道具主義や実用一辺倒の生き方へ向かう道だけでなく、共有される現実が複数の、共有不可能ながらそれ自体紛うことなき現実であるような独立した経験世界によって織り上げられ、未来において複数の秩序へと開かれているという仮説への通路をも、開墾する可能性があることを一貫して伝えようとしている。むしろそちらの道を拓くことこそ真髄であると、プラグマティズムの大成者たるジェイムズは考えていたのである。あらゆる奥深さを埋め、不思議なものなど何もない(存在することを許さない)と、目地の限りすべての土地を平地化してしまおうとする数多の世界認識に抗して、ジェイムズが定義したプラグマティズムは世の複雑さをそのままに受け止め、無数の経験が語るがままの深山幽谷に分け入っていく。
 ジェイムズの考えに則るなら、個別の経験や文化事象からあらゆる〈深さ〉を奪い、極端な場合には危険視までして排除しようとする今日の、事実上一般性を獲得した思想状況(社会意識・時代意識)への異議申し立ての先頭にも、プラグマティズムは立つことができるだろう(ただしそこで最初に行く手を遮るのは恐らく同じプラグマティズムの旗の下で思索する人々である)。そしてそれに続く形で、非現実の烙印を押されたものたちが−−−−怪しいものも危ういものもすべて含めて−−−−姿を現す。話し合うにせよ剣を交えるにせよ、人が対面せざるを得ない現実、生ける具体的存在として、我々の眼前に立ち現れてくる。」

「〈多元的宇宙〉概観」
「①多元的宇宙において、現象することと実在することとは同義である(現象即実在)。」
「②多元的宇宙は複数の〈宇宙〉によって構成される。ここで〈宇宙〉とは組織的まとまりを持つ個的存在の毎瞬間の〈経験〉を意味する。」
「③〈宇宙〉は〈純粋経験〉と同義である。各〈純粋経験〉は〈私有化〉の機能を有し、個別に統一を志す。」
「以上三つの主張をもって特徴づけられるジェイムズの宇宙論は、古今に類例を見ない特異な構造とメカニズムを描き出している。本書はそこに真実の世界が描かれていると確言するものではない(ただし相当に蓋然性の高い仮説であるとは考えている)が、最終的に何ものも捨て去らないヴィジョンが経験論的態度の貫徹によって、あるいは少なくとも経験論的態度を貫こうとする意志の帰結として形成されている事実には、広く注意の目を向ける必要があると考えている。」

(伊藤邦武『ジェイムズの多元的宇宙論』より)

「ウィリアム・ジェイムズの思想はある種の汎心論であり、宇宙霊魂的な世界観とも親近性をもっている。しかしながら、それは絶対的な意味での一性(Einghei)を否定し、世界の根本的な多元性を強調する点で、特異な性格をもっている。彼の宇宙論は
「一つの多元的宇宙(a pluralistic universe)」というユニークな世界像である。彼の抱くヴィジョンとしての宇宙は、そのうちなるすべてが互いに連続しあっているという意味では、一つの宇宙である。しかしすべての連続しあっている要素が、絶対的な意味での一者、一つの原理、一つの霊魂、一つの存在に最終的に収斂することを徹底的に否定し、中心となる何かに基礎づけられるような一元論としての体系化を否定するという意味では、純粋な「一即一切」の思想とは別の思想である。
 一元論に限りなく接近し、一切の事物の連続的な連結を重視しながら、多元性を最後まで要求しつづける立場。あるいは、何重にも畳み込まれた世界の有機的連結は積極的に認めながらも、絶対的な一者への溶解を拒否する世界像−−−−。このような思想は、他の思想伝統ではいかなる形式を取って表現されているのであろうか。
 ジェイムズの哲学に最大級の関心を示したわが国の漱石や西田など、明治大正の思想家や文学者たちにとって、このような「一即多」ないし「一即一切」の思想の典型は、基本的に仏教徒結びついた梵我一如の世界観のうちに見出されていたであろう。しかし、その一即多ということの具体的な意味は、どのように理解されていたのだろうか。
 仏教思想は一般に思弁的世界観としてよりも実践的哲学としての性格を強くもっているが、その仏教思想のなかにあって丁亥的に思弁的、理論体系的志向を強くもち、しかも(・・・)ライプニッツの「意識の複合」の問題にも通じる、多元的汎心論の傾向をもった立場の一つとして、華厳思想がある。」
「この華厳の世界は多重性と人格性という意味でも、ライプニッツの形而上学的世界像に対応している。ライプニッツにおいても、無数のモナドからなる一つの宇宙は、あくまでも「一つの可能世界」である。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?