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多田智満子『魂の形について』/狩野敏次『魂 その原形をめぐって』/池田晶子『魂とは』/シュタイナー『魂について』

☆mediopos3374  2024.2.12

魂とはなにか
どんな形をしているのか

科学は魂をもてあまし
脳が生み出す「私」という意識
というあたりでお茶を濁し
「クオリア」という用語で
物質的には説明し難い意識現象を
説明しようともしているが

科学は〈魂〉は否定しても
科学的認識の主体的根拠である
〈私〉を否定するわけにはいかない

池田晶子のことばでいえばこうなる

「「〈私〉とは何か」と問うて、
「〈私〉とは脳である」と答えているのは、
〈私〉なのか、脳なのか。
〈私〉を脳と同一としているところの〈私〉こそが、
ここで問われているその〈私〉なのだから、
これは答えになっていない。」

〈魂〉が問われるとき
科学主義的な視点ですべてを説明しようとすると
「魂は存在するのか存在しないのか」
といった問いにさえなってしまうのだが
「意識」が存在することは肯定されていても
〈私〉についてはある意味で宙吊りになってしまいかねない

池田晶子は「形而上的な〈私〉」
「〈私〉のイデア」として〈魂〉という言葉を使おうとする
「〈私〉が魂」なのでも「〈私〉の魂」でもなく
「〈魂〉における〈私〉」として・・・

そして〈魂〉とは
「自分が自分であるところのこれ、
ある人がその人であるところのそれ、それやこれやのこと」
としてとらえられている

ひとりひとり〈魂〉は異なっているということだ
それぞれ独自の「形」があるということでもあるだろう

シュタイナー(の以下に引用した講義)によれば
人間には植物と共有する植物魂
動物と共有する動物魂があり
(動物魂は集合的であり個別性はない)
さらに個的な魂の様態として悟性魂等がある
としているように
人間が人間であるということは
個々異なった〈魂〉をもっているということである

池田晶子の「〈魂〉における〈私〉」という表現も
人間であるがゆえの〈魂〉において
〈私〉という現象が生じている
ということを意味しているといえる

さて今回は
多田智満子『魂の形について』を
久々めくってみたのをきっかけに

上記のように
〈魂〉についての基本的なとらえかたを
見てみることからはじめた

さらに
古代から現代までひとは
魂をどんな形として表象してきているのかを
狩野敏次『魂 その原形をめぐって』も参照しながら
死と再生を繰り返す魂のことを
あれこれと見てみたりもしたのだが

ぼくじしんは「魂の形」を
どんなイメージとしてとらえているのかを
問い直してみることにしたいと思う

いうまでもなく「魂の形」は
物質的対象としては目に見えないのだが
それはむしろ見える形としてではなく
そのひとがそのひとでしかありえないような
個別の「形」としてあらわれているもの
としてとらえているようだ

そのひとをそのひとであると見るとき
たんに目で見た形だけで
識別しているのではないことのほうが多い
もちろんそれは霊視といったことではない

もちろん見るということは重要なのだが
他の諸感覚をも働かせながら
それぞれの気配を感じとるということでもある

そしてその気配は
書かれた言葉といったものからも
見たり聴いたりする以上に強く感じられたりもする
たとえばある種の(象徴的な意味での)ニオイ
(まるで犬のように?)
そのひとがそのひとである形(印/徴)として
伝わってくることが多いようだ

しかもそれはひとにかぎらず
伝わってくるさまざまな情報をはじめ
あらゆることについても同様に
その表面的な見え方などを超え
ある種直観的にその気配が感じられたりもする

そうした感覚は多かれ少なかれ
少しばかり意識しさえすれば
それぞれの形でだれもが有しているはずだが
固定観念によって認識がパターン化され
それらがさまざまな障壁となってしまうと
スポイルされてしまったりもするようだが・・・

そこであらためて
ぼく自身の魂はどんな「形」をしているのかと思うのだが
(「汝自身を知れ」という根源的な求めにもかかわらず)
じぶんがじぶんでしかないという感覚はたしかに
魂の感覚として確かにあるものの
「形」としてはいまだよくわからずにいる
やれやれ・・・

■多田智満子『魂の形について』(白水uブックス 1996/3)
■狩野敏次『魂 その原形をめぐって』(雄山閣 2017/5)
■池田晶子『魂とは』(トランスビュー 2009/2)
■ルドルフ・シュタイナー(高橋巌訳)『シュタイナー 魂について』
 (春秋社 2011/1)

*(多田智満子『魂の形について』〜「1 たま あるいは たましひ」より)

「霊魂について語るといっても、もちろん宗教にかかわるわけではなく、また哲学的な問題に立ち入るわけでもない。ここで話題となるのは魂そのものではなく、魂のかたちである。というよりはむしろ、昔から人々が魂なるものを、具体的にどんな形で表象してきたか、ということである。そして具体的にとは、つまり、丸いとか、羽が生えているとか、あるいは形がなくて風のようだとか。そういう単純な意味だと考えて頂いて差し支えない。また、形はおそらく質料(ヒュレー)に対する形相(モルフェー)の意味であろう、と深読み、あるいは誤解して頂いてもまた一向に差し支えない。」

「ことばの語源は、しばしば、原始的な思考をよく解き明かしてくれる。特に日本語の場合、霊魂の語源学はとりも直さず霊魂の形態学(モルフォロジー)である。
 やまとことばで、霊魂はたましひあるいは単にたまである。」

*(狩野敏次『魂 その原形をめぐって』〜「はしがき」より)

「魂とは何だろうか。「魂を揺さぶる」「魂をこめる」「魂が抜ける」「魂を冷やす」など、私たちは日常的に魂という言葉をよく耳にするけれども、本当に意味がわかっているかというと、いささか心もとない気がする。正直なところ、魂を「精神」や「心」、あるいは「気力」などの言葉に置き換えて、何となくわかったつもりでいるのではないだろうか。(・・・)

 ひるがえってみれば、古代人は魂をもっと具体的で実体のあるもの、目に見えるものととらえていた。その最古の形の一つに蛇がある。古代人は蛇を魂と見ていたのである。古代人の生命観によれば、人間は魂と肉体からなり、魂が中身で、肉体は魂を入れる容器と考えられた。魂は生命をつかさどるもので、人間は生きているのは魂が肉体の中に宿っているあいだだけである。魂が肉体から離れ、永遠に戻らない状態が死である。

 肉体は滅ぶけれども、魂は不滅である。もう少し正確にいえば、魂は不滅というよりも、死と再生を繰り返しているのである。肉体から離脱した魂は他界へ送られ、そこで蛇として転生する。他界は魂が安住する世界であり、魂はそこで蛇として生きるのである。その消息は日本神話が語る黄泉の国訪問譚を読めばおのずから明らかになる。イザナミは火の神カグツチを生んだために死んでしまった。イザナミの死体は黄泉の国へ送られ、その魂は最終的には蛇に生まれ変わるのである。(・・・)

 他界で蛇に転生した魂はこの世に戻り、新しい肉体に宿って再生する。これが人の誕生である。魂を中心に考えれば、魂は蛇から人へ、人から蛇へと転生しながら死と再生を繰り返している。魂が不滅とされるゆえんである。」

*(池田晶子『魂とは』〜「Ⅰ 魂を考える/ポスト・オウムの〈魂〉ために」より)

「〈魂〉というものはない。それは脳のことをいう。
 これは科学の立場、科学の扱うものが「物質的存在」に限られる限り、これは当然である。
 しかし、意識という「非物質的な存在」を、脳という物質の機能であるとして、それなら〈私〉は、どちらに属するのだろうか。「〈私〉とは何か」と問うて、「〈私〉とは脳である」と答えているのは、〈私〉なのか、脳なのか。〈私〉を脳と同一としているところの〈私〉こそが、ここで問われているその〈私〉なのだから、これは答えになっていない。〈私〉とは何か。
 〈魂〉は否定しても、〈私〉を否定しているわけではない科学には、その〈私〉の唯一性を説明できない。複数個並べた脳のうち、ある特定の脳を「〈私〉の脳である」と指示できると仮定して、しかしそれを指示できるのは、「それが〈私〉であるからだ」。では、その〈私〉とは何なのか。
 脳に存在するのではないこの〈私〉のことを、〈魂〉と言いたい気持ちに、どうしても私はなる。」

「私が問いたいのは、内容ではなくて形式である。〈私〉という形式、宇宙における何がしかが、〈私〉という形式として在ることの不思議である。この形式を〈魂〉と呼んでみたいのだが、しかし、この場合、内容なしの形式というものが有意味なのかどうかという疑念がただちに頭をもたげる。」

*(池田晶子『魂とは』〜「Ⅰ 魂を考える/〈魂〉の考え方」より)

「「魂のことを考えている」
 と言うと、私にはまったく予想外だった反応の仕方があって、そしてそれが大部分だったのだが、
「それが在るか無いか」
 というかたちの問いとして返ってきたことだ。「そんなものは認めない」あるいは「私はそれを信じたい」という態度の表明もまた、この「在るか無いか」のどちらかを前提として出ていることは明らかだ。
 けれども、私は、そうではなくて、自分が自分であるところのこれ、ある人がその人であるところのそれ、それやこれやのことを、〈魂〉と呼んでいるつもりだったのだが。「在るか無いか」ではなくて、すでにこうであるこの事実について、考えているつもりなのだが、」

「「意識」の普遍性は言えるが、〈私〉の普遍性は言えない。そこで、〈魂〉の語を使ってみたいと私は考えるのだ。「社会的な〈私〉」から峻別された「形而上的な〈私〉」として、そして敢えて、その先のないどん詰まりの意、「〈私〉のイデア」として、〈魂〉というこの言葉をだ。」

「ひょっとしたら、「〈私〉が魂」なのではなく、「〈私〉の魂」という言い方もなく、
「魂の〈私〉」
 というのが、近いのかもしれない。」

*(池田晶子『魂とは』〜「Ⅰ 魂を考える/〈魂〉の理解の仕方」より)

「論理的思考によって、〈魂〉を語ろうとするのは、おそらく、何か非常に柔らかく壊れ易いものを掬おうとして、目の粗いふるいをあてがうようなものだろう。ほとんどの部分は、ふるいの目から漏れ落ちる。
 あるいは、論理的思考が、〈魂〉を語るのにふさわしくないのは、自分がそれであることが明かなそれは、生きられ感じられていればそれがすべてであって、とくに論理的に語られることを、それ自身が要請しないことにもよるだろう。論理というのは、ある意味では、対他的な武器でしかない。しかし、人が自身を語るために、武装しなければならない理由はじつはないのである。」

「とはいえ、自分がそれであるところのそれを、自分の内側から語ろうとするところにこの困難はあるのであって、逆に。この〈魂〉という視点から、世界の側を見てみると、多くのことが明らかに理解できるようになることに、私は次第に気がついた。」

「私は以前、苦しまぎれに、「〈魂〉の初期条件」という言い方をしたが、遺伝子が〈魂〉なのではない限り、「なぜ〈私〉はこの人間をやっているのか」という不思議は、「〈魂〉における〈私〉」と解することで、時系列での理解が為されるようになる。それは、遺伝子なんぞで考えるより、はるかに広大かつ玄妙なものである。」

「結局のところ、人はみな同じではないのだ。同じなのは見た目のこの形だけなのだ。「同じでない」というのは、「不平等」という意味ではなく、たんに〈魂〉が別々だということである。」

*(池田晶子『魂とは』〜「Ⅲ 魂を語る文体は/ある人がその人である、という問い」より)

「池田/すごく当たり前のことなのですが、人はそれぞれ皆違うということです。それぞれが違う仕方で感じたり考えたりしている。それが、その人であるということなのだから、それでいい。魂という視点から世の中を見てみると、他人に寛容になれるし、自分を認めることもできるのではないでしょうか。」

*(『シュタイナー 魂について』〜「魂の起原」より)

「魂(サイケ)という言葉を用いた学問である心理学(サイコロジー)をも含めて、こんにちの科学は、魂のことをあまり知ろうとはしていないのです。心理学者でさえ、魂と呼ばれるものから、できたら眼をそむけたいと思っています。だからこんにちの心理学は、「魂のない魂の額」と呼ばれたりするのです。」

「魂とは何でしょうか。魂を身体の中に住み、そしてふたたびそこから去っていく何かであると思っている限り、魂を認識することはできません。魂とは私たちの中にあって、身体の凡ての器官に浸透している何かなのです。魂は運動の中にも、呼吸、代謝の中にも生きています。しかし魂は私たちの凡ての行為の中で、一様に働いているのではありません。
(・・・)
 人間は、植物が葉や花を生じさせるように、身体諸器官を生じさせ、植物と同じように、成長します。ですから古代の研究者は植物にも魂があると思って、植物魂という言い方をしていました。そして諸器官を成長させる同じ働きが、凡ての植物にも人間にもある、と思っていました。人間の凡ての身体器官を成長させる働きは、植物魂の働きなのです。
(・・・)
 私たちは知覚する力、感じとる力をもっています。からだに針がつきささると痛いと感じます。一方植物は、葉に穴をあけられても平気です。このことは第二の魂である動物魂の存在を示しています。この魂は私たちに感受性、欲望、運動の能力を与えています。わたしたちはこの能力を動物界全体と共有しているので、この魂を動物魂と呼ぶのです。」

「動物段階では感受性が暗い感情に留まっていますが、人間の場合には、知性という高次のいとなみが始まっているのです。
 人間の魂のこの第三段階は、悟性魂と呼ばれます。」

「私たちはなぜ一人ひとり特別の魂をもっているのでしょうか。なぜどんな魂もそれぞれ特別の性質をもっているのでしょうか。
(・・・)
 自然科学が種を種から発展させているように、神智学は魂を魂から発展させるのです。神智学も低次のものから高次のものを生じさせます。
 魂は魂的な原則に従って、魂から生じたのです。どんな魂も魂的なものの所産である、みずからふたたび魂的なものの原因になるのです。
(・・・)
 動物の場合、個々の動物は類の概念と結びついています。或る虎は他の虎と本質的に同じです。しかしどんな人も同じ理由で他の人と同類であるとは言えません。どんな人の魂も他の人の魂と違うのです。」

「私たちの時代は、みずからの魂の存在を否定するところにまで達してしまいました。この時代に自分自身を取り戻すこと、私たちの内部の永遠で恒常的なものを信じること、私たちの内部の神的なる存在の核心をこの時代のために新たに甦らせること、これが私たちの運動の課題でなければらないのです。」

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