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チャールズ・シミック 『コーネルの箱』

☆mediopos-2328  2021.4.1

コーネルの箱のことを初めて知ったのが
いつのことだったか記憶は定かではない
著者のチャールズ・シミックと同じく
シュルレアリスムからなのだろう
その特集のなかでふれられていたのかもしれない

ひょっとしたら昨日引用した
武満徹のエッセイだったのかもしれないし
シュルレアリスムについては
若い頃ずいぶんいろいろ渉猟してみたので
ほんとうはそれよりも
ずいぶん前のことだったのかもしれない

どちらにせよコーネルとディキンソンは
ぼくには近い場所にいるイメージがある
なにかしらの親近感も同じだ
好きというよりは
あの閉じた秘密の世界への親近感
閉じなければひらかれない世界への共感

さてコーネルの「箱」とはいったい何なのだろう
チャールズ・シミックのいうごとく
「人はみな内に秘密の部屋をいくつも抱えている」ように
その「秘密の部屋」でもあるだろう
そこにはまざまなものがコラージュとして
そしてそれぞのものが象徴として置かれている

ディキンソンの詩やコーネルの箱は
彼らのつくりだす象徴が
独特な強度をもちながら
彼らだけにしかない魂の深みのなかから
現れているかたちなのだろう
ユング的にいえば「箱庭」のようなものだろうか

コーネルにかぎらず
私たちはそれぞれがじぶんのまわりに
「箱庭」をつくりだしている

部屋のなかや引き出しのなかに
おのずと現れてくる
物たちのつくるかたちとして

また絵のように描かれたり
詩のように詠われたりもすることで
現れているかたちとして
私たちは魂の「箱庭」をつくりだしている

じぶんでも半ばは
なにをやっているのかわからないままに

■チャールズ・シミック(柴田元幸 訳)
 『コーネルの箱』
 (文藝春秋 2003.12)

「コーネルの作品を初めて見たのはいつだったか、そもそもどこで見たのかは思い出せない。そのころはシュルレアリスムに興味を持っていたから、その関連でコーネルの名に行きあたって作品の写真を見た可能性も高い。彼の作品を見て、自分もこれと同じようなことをやるべきじゃないかという気にさせられたが、そもそもコーネルが何をやっているのか、長いあいだ私にはよくわからなかった。よくあることだが、彼の死後になってやっと、私は彼の芸術についてじっくり考えはじめた。」
「私は、コーネルを理解したかった。コーネルは模倣に値するアメリカ人芸術家である。そのことは私にとってますます明らかになっていった。結局私にできたのは、オマージュを構成することだった----彼が愛した詩人たちの精神にのっとって書いた、短い文章の連なり。「無限は君が否定した偶然から現れ出る」とマラルメは書いている。私もそう思う。そしてここでは、もうひとつめざしていることがある。これはコーネル本人が、日記の日付なしの項にいみじくも書いたように、「妄執(オブセッション)に形を与えようとする懸命の企て」である。」

(「我々は畏怖の念によって理解する」より)

「ホイットマンもやはり、いたるところに詩を見出した。一九一一年、アポリネールは新しい霊感の源を語った----「ビラ、カタログ、ポスター、あらゆるたぐいの広告」こそ我らの時代の詩を宿している。
 こうした理念の歴史はおなじみのものであり、その主役たちもしかり----ピカソ、アルプ、デュシャン、シュヴィッタース、エルンスト----名はいくらでも挙げられる。芸術は創るものではない、見つけるものだ。すべてを芸術の素材として受け入れるのだ。シュヴィッタースは詩の素材に会話の切れ端や新聞の切り抜きを集めた。エリオットの『荒地』はコラージュであり、パウンドの『キャントーズ』も同じ。
 コラージュの技法、すなわちすでに存在している図像の切れ端を組み直して新しい図像を作り上げるという技法は、今世紀の美術におけるもっとも重要な革新である。見出された物、偶然の創造、レディメイド(大量生産された品が美術品に昇格する)、それらは芸術と人生の分離を無効にする。正しく見られ、認識されれば、ありふれた事物も奇跡なのだ
 「問題は何を見るかではなく、君に何が見えるかだ」とソローは日誌に書いている。コーネルも「すべての些細な物に意味がみなぎる、完璧な幸福の世界に没入していく」ことを語る。
 コーネルが非常に敬愛していたジョルジョ・デ・キリコはこう書いている。
 「亜鉛色に塗られた、爪はおぞましい金色をした巨大な手袋、それがある都市の午後、悲しい色に吹かれて店先で揺れながら、舗道の敷石を指している人差し指でもって、新しい憂鬱の隠れたしるしを私に明かしてくれた」」

(「判読不能な力」より)

「自分が何をやっているのか、コーネルは自覚していたか? 一部はイエス、だが大部分はノー。そもそもそんなことを完全に自覚している人間がいるのか? 自分が何を見るのを好み、何に触れるのかを好むかはコーネルも承知していた。彼が好むものに、他人は誰一人興味を示さなかった。シュルレアリスムは彼に、雑多な古物を収集する変わり者以上の人間になる術を教えてくれた。芸術をめぐる理念はあとから来たにすぎないし、最後まで確固たるものだったかどうかも定かでない。どうして確固となりえよう? 畢竟コーネルの営みは、直観の営みにほかならないのだから。ダダとシュルレアリスムは、彼に先例と、自由とを与えてくれた。私はとりわけ、ダダとシュルレアリスムが果たした、偶然を操ることから叙情詩が生まれるという驚くべき発見のことを考えている。コーネルも同じ魔法を信じた、そしてその信念は正しかった!芸術とはすべて、魔法を操ることだ。何なら、新しい幻を希う祈りだと言ってもいい。「古い街中の曲がりくねった壁の中、一切が、恐怖でさへが興趣となる所」とボードレールは書いた。都市は巨大な幻像マシーンだ。単独者たちのためのスロットマシーン。夢想の貨幣、詩の、秘密の情熱の、宗教的狂気の貨幣、マシーンはそのすべてを兌換してくれる。判読不能な力。」

(「トーテミズム」より)

「人はみな内に秘密の部屋をいくつも抱えている。部屋はどこも散らかっていて、明かりは消えている。ベッドがあって、誰かが顔を壁に向けて寝ている。その誰かの顔のなかにも、やはりいくつか部屋がある。そのうちのひとつで、ベネチアン・ブラインドが、迫りくる夏の嵐に揺れる。時おり、テーブルの上に何か物が見えてくる----壊れたコンパス、真夜中の色をした小石、引き伸ばしたクラス写真(誰かの顔がうしろの輪のなかに入っている)、懐中時計のぜんまい、これらの品一つひとつが、自己の象徴だ。
 すべての芸術は、自己が他者を求める渇望にかかわっている。我々はみな孤児であり、その孤児が、見つけた者を手当たり次第素材にして、自分のきょうだいを作る。芸術とは、少しずつ、難儀に、自分が他者に変容していく営みである。」

(「エミリー・ディキンソン」より)

「コーネルとディキンソンは、二人とも最終的に知りえない。二人とも謎のなかに住んでいる、とディキンソンなら言っただろう。二人の伝記は何も説明していない。彼らに先行者はなく、彼らは奇矯で、独創的で、どこまでもアメリカ的だ。ディキンソンの詩がコーネルの箱に似て、秘密がしまってある箱だとしたら、コーネルの箱はディキンソンの詩に似て、出会いそうもない物たちが出会う場である。
 二人とも己の魂の救済を気にかけている。己の孤独の航海者であり探求者である彼らは、その孤独を巨大に、宇宙大に拡げる。彼らは古い形而上学と美学とが輝きを失った世界における宗教的芸術家である。ディキンソンの詩を読むこと、コーネルの箱を見ることは、アメリカの文学と美術を新しい考え方で考えはじめることだ。

コーネルの箱-2

コーネルの箱-3

コーネルの箱-4


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