日記とか8「言葉にできないもの」
八王子のホテルで晩酌しながら呟いたことに一部の人から反応をいただいたので、コメントを兼ねてここに書き残しておく。
音楽の何にそんなに惹かれているのか。アニメの何にそんなに魅せられているのか。聞かれても多分言語化できない。だから鑑賞の授業や感想を書く課題は嫌いだった。
— 糀 (@Nov975) June 12, 2021
語彙力や想像力の問題だなんて言わせない。意思伝達の殆どを言語に頼っている人間にとって言葉は万能なように錯覚するけど、言葉にした時点でその語義という制約が加わる。言葉にならないもの、むしろ言葉にしたせいで陳腐になるものも絶対にある。普段当たり前に感じている物事こそそうだと思う。
— 糀 (@Nov975) June 12, 2021
一応文脈としては、ある特定の作品についてではなく、音楽やアニメといったカテゴリーそのものがなぜ好きなのか言い表せない、という意図だったんだけど、とりわけ2番目のツイートに関して、音楽の具体的な聴取において経験された質とその言語表現の意義という観点から反応をいただいていたので、そちらに焦点を合わせて自分もコメントしておきたいと思う。
ちなみに鑑賞の授業は別に自分の好き嫌いについて書くわけではないので、当初の文脈から言うと、カテゴリーについてであれ特定の作品についてであれ、「なぜ好きか言い表せない」ということを鑑賞の授業を嫌う理由とすることでは辻褄が合わなかった。ここは訂正させていただく。
そこで当初の文脈を脇において、音楽(の聴取経験)を言語化するということについて語ると、やはりその場合にも言語化できないもの、語義という制約によって取りこぼされるものはあると思う。次のツイートは僕の言いたいことをよく表してくれている。
言葉にならない何かを言葉にするのって責任重大だし、ある種の暴力ともなり得るんですよね。じゃあなんでそういうのを音楽で表現しないで、わざわざ言葉でやるんだよと。グサグサ
— likkashoot (@likka_shoot) June 14, 2021
なので、鑑賞の授業とかで音楽を言語化するのってどうなんだろうな。確かに構造とか和音進行とか聴き取ることで、ある程度正解/不正解はあるかもしれないけど、大事なのは音楽的に想起される部分の方で、常に言語化できない、ごちゃごちゃした感情の方だと思う。
— likkashoot (@likka_shoot) June 14, 2021
ただしひとつ、想起された感情や「感じ」といったものがすべて全く言語化することができないわけではない、ということには気をつけたい。少なくともある短調のメロディーを聴いて「悲しい感じがする」等と言うことはできるし、漠然と「美しい」と言うこともできる。しかし構造や和声進行に対して、それらの「感じ」は画一化されるものではなく、言語化によって零れ落ちるものは大きい。そういう意味で、これらの「感じ」を「正確に」記述することはできない。
しかし考えてみれば言葉にならないものがあるからといって、音楽において経験されたいかなるものについての言表も直ちに無意味だということにはならない。美的性質が単に主観的な印象にすぎず、全く客観性を欠くものなら、今ほど音楽は発展しなかったのではないかと思う。同じメロディーを聴いたとき、(抽象化された言い方では)同じ「感じ」をもつということは、経験的な事実として他者と共有可能である。そうでなければ作曲家は自身の創作活動に何の指標も持つことができない。記述可能なある特定の構造が、多かれ少なかれ抽象化されることによって記述可能となった一定の「感じ」を生み出す、という客観性が、体系的な音楽の発展に寄与しているのではなかろうか。そう考えると次で言われていることにも合点がいく(違ってたらすまん)。
19世紀ロマン主義の批評家・理論家たちの言語による解釈のおかげで、「言葉にできない」「非規定的」とされた器楽の受容が可能だったということもあり、「文化の継承者育成」としての音楽教育の役割は果たせているのかも、まあその役割に疑問があるから教員なってないわけだが https://t.co/Msbsxc3gdz
— 𝑾𝑰𝑻𝑯 𝑳𝑶𝑽𝑬 (@perikandaisuki_) June 14, 2021
あくまで授業の話しから離れないようにするけど非言語の音楽が発展してる過程に全く言語が関与してないのかと言われれば、それはノーかなと思ったんだよね。
— 正木剛徳 Takanori Masaki (@TakanoriES) June 14, 2021
もちろん音楽を本質を直に生で理解する人もいると思うけど多分一度言葉にするプロセスで面白いかも!!って思う子もいると思うのさ
とすれば、僕が子供の頃わからなかった鑑賞の授業の意義も、体系的な音楽の受容とその発展という点に見出せるのではないかと思う(彼(@perikandaisuki_)のもつ「疑問」はぜひ聞いてみたいところであるが)。
ここまでのことから、音楽の聴取において経験されたものを正確に言語化することはできないが、そのことと言語化を試みる意義は両立可能である。不完全な仕方であるにせよ、言語化することによって主観的な印象にもある程度の客観性をもたせることができ、それが体系的な音楽の発展に寄与していると思われる。
ただじゃあ体系的な音楽の受容と発展のために意義があるからといって、その意義を子供と共有できるかと言えば難しく、ましてやそれが子供にとっての意義として実感されうるかといえば、ほぼ不可能ではないかと思う。だから個々人にとっての実践的な意義といえば、結局のところ想像力や表現力の涵養と言うほかないのかもしれない。そうなるとやっぱり「言葉にならないもの」の壁が立ちはだかるわけで。そしてどうやっても完全な言語化へと至ることはできないんだから、もはや「やることに意味がある」と言うしかない。まあそれがダメということはないんだけれど、いまいちその効果って本人としては実感しにくい。僕が鑑賞の授業が苦手だった本当の理由はここにあるのかもしれないと思った。
まあそもそも、あらゆる作品が「完全なる美」を実現できないことにしても、鑑賞経験の完全な記述ができないことにしてもそうであるように、完全性へと至ることができないということ自体音楽に限らず芸術一般に科せられた宿命であって、仕方のないことなのかもしれない。
(とりあえず)おわり
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