『住めば都』と言うけれど
アルゼンチンに降り立ってから2年が経とうとしている。
今で精一杯だった一年目は、W杯のアルゼンチン優勝で全てを浄化されたような締めくくりだった。
そして二年目は、アルゼンチン大統領が交代となった。詳しいことまでは理解できていないが、混沌としていることだけは理解している。
そしてこんな記事を思い出した。
心配事はいつも心のどこかにあるもの。
心配事のない生活なんてあるはずもなく、本能的に心配事を探してしまっているのかもしれない。
でも、支え合う家族や仲間のおかげで心配事の9割は杞憂に終わっているという現実もある。
サラリーマン時代によく上司から言われた言葉。
じっくり噛みしめると、何かあった場合を想定しないと不安なんだろう。
人の行く手を阻む言葉でしかなかったような気がしてならない。
リスクなくして成長はない、それだけでは納得しない環境だった。
リスクを想定することは大事なこと。
でも、何かを仕掛けるということはケガも付き物で、そこに覚悟があるかどうかが大事なこと。
あの上司からの言葉が「足かせ」にしか聞こえなかったことは、今になっても1㎜の後悔もしていないから不思議なこと。
アルゼンチン人の仲間たちが話しているのを耳にした。
何だかとっても楽しそうに話しているようにも見えた。
自分たちの生活に関わることのはずなのに、なんだかアニメの結末でも話すかのような口ぶりに驚いた。
日本人なら頭を抱えたくなる(実際に抱えていた人もいた)問題に、まるで他人事のように話すことのできるアルゼンチン人の懐の大きさを感じた。
実際には政策に反対してデモ行進が行われたりもする。
全てを受け入れようとするようにも見えないのが不思議だった。
どんな政策であったとしても、自分の住んでいる国を良くしようという思いがあるのは共通の認識だと思う。
今までは国が負担していた交通機関の料金を見直して、国を負担をなにかに充てようという意図なのだろう。
みんな自分の国が好きだし、良くなってほしいと願う。
移住して感じることは、好きである以上は他の選択肢がないのが『住めば都』の本質なのかなとも思えるようになってきた。
日本でもニュースを見れば、増税メガネ(→ひどい言われようだな)の断片的な政策が見え隠れしている。
なんだか、どこも同じことが起こっているような気がしてならない。
何かを仕掛ければ、何かに摩擦が生じる。
そんなことは百も承知で『何かあったら』を論じるなら、なぜそう思ったのかを知ることも重要な気がしている。
発想を変えて見てみれば、やらなきゃわからないことだらけ。
むしろ交通機関が10倍になって、困るのは国民じゃなくて交通機関を仕事とする人たちだって思えば、アイデアなんてたくさん出てくる。
心配事が期待に変わっていけば、心配事がただの心配に終わるというだけのことで実際には起こらないというだけのこと。
全てを絶望してしまう前に、どうにかして『住めば都』にできるのかってことをまずは考えてみようかなって思っている。
※ ブログも更新しています
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