一日一花

一、
これまた幼い頃、「花」という漢字が好きではなかった。どれだけ難しい漢字が書けるか、がアイデンティティとなっていた小学2年生の私には、「花」という漢字は簡単すぎたのである。七角目のへにょんと曲がる部分なんか、頼りなさげでまあ嫌いだった。「さーいーたーさーいーたーチューリップーのーはーなーがー」という童謡の歌詞も、なんと短絡的でありふれているものかと思っていた。また、「花」と言われて思いつくものたちーチューリップ、たんぽぽ、アサガオ、桜エトセトラ…これらは家から小学校の通学路で全て見ることができた(チューリップに至っては、童謡ができるほど一般化したものであるし、生で見る必要すらないと思っていた)。何も持っていない小学生の自分ですら簡単に手に入れられる代物に価値など無いと思っていた。

一方で、「華」はかっこいいと思っていた。画数も多くて線対称。線だけで構成された彼女はきらびやかで、麗しくて、凛とした佇まいであることが想像できた。私みたいな人間が話しかけたらピンヒールで一蹴されそうな、そんな印象を抱いていた。なかなか手に入らず、誰の手にも届かない「華」はかっこいい。

「花」と「華」はニュアンスが違うように感じる。「華」は、とあるなにかを形容する言葉として使われがちだ。例えば「華のある人」とか「華のセブンティーン」のように、人を惹きつけるなにかや、人生のうちでも濃密で繊細な時期を指している。一方で「花」はなにかを形容する言葉ではなく、それ自身を指し、行動が伴うことが多い気がする。「花を持たせる」「枯れ木に花」などの比喩的な慣用句から、「花を贈る」などの行動まで。


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一、
ブーケトスというものがあるが、昔からあれはあまり好きではない。平等主義ではないが、自分の周りの人には全員に、最大限の愛を贈りたい。愛はブーケひとつで足りるようなものはなくて、もっと流れて溢れ出してしまうようなマグマ的ななにかに近い。愛を贈る人が通った後にはあらゆる種から花が咲いてしまうような、もしくは全て枯れてしまうようなそんなイメージである。そう考えると、灰をまいて花を咲かせる有名なじいさんはよい。私もあれになりたい。


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一、
人に花を贈ることに抵抗がある。
私は後天的に花が好き(?)になった人間だから、花を贈るにいいタイミングとそうでないタイミングがあるのかがよくわからない。最近はお洒落な花屋のチェーン展開が目立っている気がしていて、店の前を通る度に、その花が似合いそうな友人の顔が浮かぶ。しかし、ここでいきなり花など贈ったらキモいのか…?花を贈れるのは恋人のみの特権なのか…?などといろいろと考えてしまい、結局遅れず仕舞いである。大体花を贈りたくなる相手は女性が多いので、女性陣にはそのあたりをご教授いただきたい。

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