「ストーリーが世界を滅ぼす」の副読本

 Jhonathan Gottshall(2021)「The Story Paradox(ストーリーが世界を滅ぼす)」は,私の研究と身近なナラティブ・心理に基づく一般書で,面白く読んだのですが,所々「もっと説明が欲しいな」と思うところが多く,引用文献をあさって読んでいます.その中で面白かったHugo Mercier&Dan Sperber(2017)「The Enigma of Reason」が,語りやその理解についての進化的な説明をしたもので面白かったので,ちょっと序文を紹介します.ので気になった方,ぜひ読んでみて.

 とその前に「ストーリーが世界を滅ぼす」の紹介文を一応コピペしておきます.
なぜ私たちはあの人の論破にだまされるのか。
事実と物語は混ぜるな危険!
陰謀論とフェイクが溢れる世界で生き抜く「武器としての思考法」。
文明を築くのに一役を買ったストーリーテリング。その伝統あるストーリーテリングが近い将来文明を破壊するかもしれない。
ストーリーテリングアニマルである私たち人間の文明にとって、ストーリーは必要不可欠な道具であり、数え切れない書物がストーリーの長所を賛美する。
ところが本書の著者ジョナサン・ゴットシャルは、ストーリーテリングにはもはや無視できない悪しき側面があると主張する。
主人公と主人公に対立する存在、善と悪という対立を描きがちなストーリー。短絡な合理的思考を促しがちなストーリー。社会が成功するか失敗するかはそうしたストーリーの悪しき側面をどう扱うかにかかっている。
陰謀論、フェイクニュースなど、SNSのような新しいテクノロジーがストーリーを拡散させ、事実と作り話を区別することはほとんど不可能になった。人間にとって大切な財産であるストーリーが最大の脅威でもあるのはなぜなのか、著者は説得力をもって明らかにする。
「ストーリーで世界を変えるにはどうしたらいいか」という問いかけをやめ、「ストーリーから世界を救うにはどうしたらいいか」と問いかける書。

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で,以下がThe Enigma of Reason」の序文の訳です.

 

Introduction:A Double Enigma
 奴らは飲むし,食うし,しょんべんして,そしてクソをする.奴らは眠っていびきをかく.汗をかいて震える.奴らは欲情する.つがう.奴らの生も死も不快な出来事だ.動物だ,人間は動物だ!ああ,でも人間は,人間だけは理性を与えられている.理性(reason)は他の動物たちよりも人間を一段上に位置付けるものだーなどと西洋哲学は訴えてきた. 羞恥,人間の動物的醜聞は少なからず,理性を呼び起こすことで抑制されうるもので,その能力が人間を知的で賢くする.言葉よりも理性だ.他の動物も言語のようなものを持っている.ミステリアスにつきるもの.魂よりも理性だ.理性を与えられても,人は動物である.しかし獣ではない.

Reason:A Flawed Superpower?
 種としてどんな特徴を人は共有しているのかについてダーウィンが明らかにしたのは,神の贈り物ではなく,生態的な進化の結果であるということだ.そのような特徴としての理性も進化したにちがいない.そうなのだ.自然淘汰は多くの不思議なメカニズムを生み出さなかったのか? 例えば,視覚である.ほとんどの動物種がこの驚くべき生態的適応から利益を得ている.視覚は目という専門化された外的な器官と特化した脳の部分を繋ぎ,精巧に土地や居場所や離れた場所にある物の動きについての情報を,網膜の刺激のパターンから抽出する.この複雑なタスクは理性のそれよりも遥かに複雑だ(p.1).
 人工知能研究者は視覚と理由づけ(reasoning)の両方のモデリングと実装に取り組んできた;人間の視覚の機能には到底及んでいない.多方で,理由づけのコンピューターモデリングの多くが人間の理性よりも一層よく機能すると主張されてきた(いくぶん楽観的に).もし視覚が進化できたのなら、なぜ理性は進化できないのか? 視覚よりも一層,我々は理性についての汎用的機能について語られてきた.理性は認知を新しく高いものへと押し上げる.理性なしでは,動物の認知は本能に縛られる;知識と行為が格段に限られる.理性に拡張されて,認知はあらゆる領域で良い知識を確保でき,革新的で大規模のゴールへと行為を調整できる,というのがお決まりのストーリーだ(or so the standard story goes).
 しかし待て:もし理性にそんなスーパーパワーがあるなら,視覚と違って,なぜそれがたった唯一の種でのみで進化したのだろうか? 実際,いくつかの目立つ適応はかなりレアだ.コウモリのような少ない種のみが発達したエコロケーションシステムを持っている.コウモリは環境における表面でエコーする超音波を放つ.このエコーで障害物や餌といった物事を特定し,位置を把握する.
 ほとんどの他の動物がこのようなことをしない. 視覚とエコロケーションにはいくつかの共通する特徴がある.光線のある狭い範囲が―視覚であれば光,エコロケーションの場合は超音波―様々な認知や実践的目的に関係する情報を提供する.
 ならばなぜ,視覚はそんなに一般的でエコロケーションはレアなのか?それは多くの環境において視覚がより効果的だからだ.例えばコウモリがするように洞窟に暮らし,夜に獲物を狩るといった視覚が不可能だったり,弱まる生態学的ニッチにおいてのみエコロケーションは適応的だ. 人類のみが住む非常に特別な生態的ニッチに適応的であるから,一つの種に固有で,レアなのだろうか?この興味深い可能性は検討する価値がある.
 しかしながら,理性がどんな環境でも,どんなタスクにおいても認知を拡張するという主張の標準的な理性への理解方法とは相入れないものだ.ほんの少しの種のみがエコロケーションを有していることを理解するのは簡単だ.なぜ人だけが理性を持つのかの理解はより挑戦的なのだ. 車輪について考えてみよう.動物は車輪を持っていない.
 なぜだろうか?(ちょうど理由づけのモデルが視覚のモデルの開発よりも簡単にみえるように)結局,車輪の乗り物は足や羽根よりも簡単に構築できる(p.2). しかしながら,生態的な車輪が本来の場所で育つ必要がある一方で,人工物の車輪は別々に作られて,乗り物に付けられるものだ.自由に回る身体部位が,他の部位といかに神経や血管でどのように繋がりうるのか?あるいはそのような繋がりなしに他の機能がありうるのか?実現可能な生態的な解決は簡単には考えられないし,これは問題のほんの一部だ. 進化した複雑な生態的適応には,初歩的な前触れから完全に発達したメカニズムまでの一連の進化的な段階があるはずで,その流れにおける全ての修正は自然淘汰によって専好されたものだ(少なくとも途絶えていない).例えば,虫や軟体動物,哺乳類の複雑な視覚システムは全て,長い修正の流れを通して単純な光の知覚から進化したもので,そのどれもが適応的か中立的だ.おそらく,非車輪種から車輪動物への適応のステップは不可能でないとしても,いちども生じなかったほどにはあり得そうもない.
 ひょっとすると,それで動物の認知にとっての理性は,動物の動きにとっての車輪かもしれない.ひょっとすると,理性は一種だけでかなりありえそうもないステップを通してほんの最近に進化したものだからレアで,それから唯一得をしている幸運な種が我々なのかもしれない. 理性が徐々に進化したであろう一連の段階は未だ謎だ.理性はスーパーマンやスパイダーマンのスーパーパワーが普通の人の特徴と異なるようなものというよりも,より一般的な認知機能が統合されたものあろう.もちろん,理性は生態的な適応というより,古代ギリシャにおいて発明された文化的装置で,追加的なものだとも論じられうる.
 しかし,理性というスーパーパワーなしに,ある種がいかに理性を発明しうるのだろうか?理性は明らかにさまざまな文化的な拡張から利益を得ているが,理性を生み出し,評価し,用いる種の能力とは進化的な説明を求めている.しかし、その説明の仕方も、手のひらを返したようなものだ(Alas, what we get by way of explanation is little more than hand waving.).
 問題はさらに悪い.手のひら返し自体が間違った方向を差し示すのだ.反対の可能性,ある種において生態的な車輪が進化する場合を想像してみよう.その進化がどのように生じるのかについての考えはない(p.3).だが,もしその車輪が自然環境で動物に著しい移動の効率化をもたらすならば,なぜかそれらが進化したのかについて考えつくだろう;言い換えると,我々はその機能を理解しうるということだ.我々は全ての生態的器官と同様に動物の車輪の弱点と機能不全を想定しうる.しかしながら想定できないことは,その機能のパフォーマンスに譲歩するような移動システムにおいて,システマチックな欠陥を発見するということだ.例えば,側面に対しての車輪の大きさの違いが方向性を保つのを難しくさせる.間違った適応としてある生態的なメカニズムを記述することとは,間違って記述されたメカニズムとなりうる.
 標準的に記述される理性とは,そのようなものなのだ. 心理学な人間の理性を示した主張とは愚劣だ.理性はその仕事を十分に行なっていないという考えが共通認識となっている.実験に次ぐ実験が心理学者や哲学者に理由づけにおいて人々は甚だしい間違いを犯すことを確信させた.
 そしてそれは人々の理性が貧困であると言うより,システマチックにバイアスがかかっているということだ.理性の車輪は偏っている. この共通認識を超えて,論争は苛烈だ.理性は欠陥品だが,どう悪いのだろうか?理由づけにおける成功や間違いがいかに査定できるだろうか?このメカニズムは何対して責任がるのだろうか?激しい意見の相違の代わりに,これらの論争の対立陣はある基本的なドグマへの問い立てを間違ってきた.それは理性の仕事を個人が偉大な知恵に至ったり,よりよい意思決定をすることだということを所与にしてきたことだ.
 もしあなたがこのドグマを受け入れるというのなら,そう,理性が到底,公平でもなく,目的的でもなく,ロジカルでもないことに困惑するだろう.一般的に言って,理由づけが人々の合意を失敗させていることは矛盾的だし,さらに悪いことにそれらの違いは激化しがちだ.しかになぜそんなドグマがまず受け入れられているのか?まぁ,そこには伝統があるだろう,,,そして,いったい理由づけの機能とは何だろうかと問うこともできるはずだ.
 標準的な理解の理性は二重のエニグマだ.普通のメンタルメカニズムではなく,進化(かつては神が)が我々人類のみに授けた認知的なスーパーパワーだ.これでもかと謎に包まれながら,このスーパーパワーは欠陥品だということがわかっている.人々を惑わせ続ける理性が欠陥品のスーパーパワー?本当だろうか? 我々のゴールはこの二重のエニグマを解き直すことだ.
  我々は理性がいかに個人の精神や,社会的交流,人の進化に合っている(fit)のかを示す.そうすることで,我々は伝統に挑み,ドグマを否定し,理性のメカニズムと機能を再考する(p.4).

 Where We Are Going
 理性については2000年以上の哲学的蓄積があり,さらに50年に渡る実験研究が行われてきている.いくつかの偉大な思想家は今も影響を与えている.哲学や心理学の伝統もその内部で競い合ってきたという事実がなければ,これらの思想が間違った軌跡を辿ったという主張は傲慢以上のものとなるだろう.
 どれだけ良く,理性が真実の知識や良い意思決定へと人々を方向づけるのだろうか?いかに人類はそれを良く活用しているのか?心理学者が参加して「理性性戦争」と呼ばれて苛烈化した今となっては古いこれらの議論に込み入った話をする気はない.
 その変わりにこの本の一章で行いたいのは,「ドグマを揺るがすこと」が,標準的な理性の理解方法によって提示された問題いかにシリアスで,解決に至っていないことを明らかにするクラッシュを炙りだす(single out clashes)ということだ.私たちは、このような白熱した議論の当事者たちが、互いに弱体化し、戦場からまだ使えるものを集め、より有望な土地で新たな冒険をすることが最善の策であることを示唆したい(We will suggest that parties to htese heated debates have managed to weaken one anther to the point that the best coures may well be to collect from the battlefield whatever may still be of use and to seek new advebtures on more promising ground.)
 我々は二つのエニグマへの一つの答えとなる理性の新しい科学的な理解の展開に関心があり,危うい推論をするつもりはない.我々が示していくが,理性はあり得そうもない奇抜な進化によって人に贈られたスーパーパワーのような奇妙な認知的付加物とは程遠く,人の他の認知機能に適合したもので,明らかに反対の証拠があろうとも,その本当の機能に適応したものだ.
 理性がいかに進化して,いかに働くのかを理解するには,何がそれを特別たらしめているのかだけではなく,いかにそれが他の心理的能力に適合しているのか,それらと共通するところがあるのかに注意を払う必要がある.推論にはさまざまなメカニズムが含まれる.
 理性はその一つだ.2章の「推論の視界」で,我々は,他の推論機能との関係から理性を位置付ける.その概要の図がfig1だ. 動物は常に推論を生み出す:彼は何を知らないのかについての結論を導くために既に知っていることを利用するー例えば,次に何が起こるのかを予想すること,そしてそれで行動をする.彼らは一般的な推論能力でこれを行うのだろうか?間違いなく異なる(p.5).むしろ動物は異なるタイプの問題を扱うさまざまに異なる推論機能を使用する:何を食べるべきか?誰とつがうべきか?いつ攻撃を?いつ逃げる?などなど. 人類も他の動物と同じだ:一つの統合的な推論能力というより,幅広いさまざまに特化されたメカニズムを使用する.
 しかしながら人類においては,これらのメカニズムの多くが「本能」ではなく,子供の発達過程において他の人々との相互行為を介して獲得されるものだ.だが,これらの獲得されるメカニズムのほとんどが本能的な原点を持っている:例えばWolof語や英語,タガログ語を話すことは本能ではないが,発話に注意を向け,あるコミュニティでの言語を獲得するのに必要なステップを踏むこと自体には本能的な素地があるのだ.
 知る限りでは,他の動物は全ての推論をそうしているという意識なしで行っている.人類もまた偉大でさまざまな推論を自動的かつ無意識に遂行している;例えば,母国語の獲得などだ.しかしながら,人が部分的に意識する多くの推論がある.ここでは洞察(intuitions)について触れよう.例えば,あなたの友達のモーリーが言葉でそう言わないだけでなく,否定までしているのに動揺しているという洞察がある場合,この洞察はあなたの意識下に完全にポップアップしてくる(p.6);しかしながら同時にあなたはそれを何か内発的なものよして,心の中からでたような結論として認識する.
 洞察とは精神的な氷山の一角のようなものだ:我々はその先端を見ているだけかもしれないが,しかし,その表面の下に我々が見ていないより多くの部分があることを知っている. 思考についての最近の思考の大半(例えばDaniel Kahnemanの有名な“Thinking, Fast and Slow”)は洞察と理由づけを全く異なる形式の推論として,対比して解いている.我々は反対に,理由づけそれ自体は洞察的推論の一種であるという立場を維持する.
 実際,一般機能としての洞察と特定機能の理由づけには,中間的カテゴリーがある.我々人類は,我々の環境における事物や出来事を表象できるだけでなく,私たちのこれら事物や出来事への表象そのもの(øur very representation)も表象できる.我々には他人が何を考えているのか,抽象的な考えについての洞察がある.表現についての洞察は他者を理解したり,コミュニケーションしたり,意見や価値観を共有する能力において主要な役割を果たす.論じていくが,理性は端的に言えば理由という表象についての洞察的推論のためのメカニズムである.
 3章「理性の再考」では,支配的な理解方法から重要な方法で離れていく;我々は理性と洞察を対比する標準的な方法を否定する.我々は理性についての研究(精神機能の感覚における)とそこでの理性(正当化の感覚における)を心理学と哲学が二つの異なるものとして理解したものを同じ一つのものとして扱う.
 通常は理性が個人がよく思考するための優れた手段として見られている一方で,我々はそれを主に相互行為に使用されるものとして議論する.我々は理性を,思考を正当化し,他者に働きかけるために生み出し,他者に思考や働きかけを説得するために生み出すということを提示する.我々は理性を,自身の思考を評価するためだけでなく,他者が正当化したり我々を説得するために生み出す理由を評価するのにも使う.
 理性が通常,ロジックの使用や,少なくとも知識や意思決定を拡張し改善するものとして見られてきた一方で,我々は,理性は公的な規範に拘束されない,もっと日和見的で,折衷的なものであると論じる.理由づけにおけるロジックの主な役割とは,レトリカルなものだ:ロジックは洞察的議論を単純化して図式化(schematize)するのを助け,洞察の力を強調したり,誇張する. では何故理性は進化したのか(p.7)?
 より一般的な推論の形式によってもたらされたものを超えて,人間にのみ特別な価値をもつ理性を何が与えたのか?これに答えるために我々はより広い視野を採用する. 理性には二つの主な機能があると論じる:個人を正当化するためと,他者を説得する議論のためだ.これらの機能は同じ類の理性に基づき,互いが深く関係している.
 なぜわざわざ自身を説明し,正当化するのか?人類は高次認知機能という点でのみ他の動物と異なるのではなく,文化的に,いかに協調を行うのかという点でも異なるのだ.親族だけでなく,見知らぬ者とも協調する;いまそこ(here-and-now)で投機するだけでなく,長期のゴールを追求して協調する;種特有の数限られた共同行為(joint action)だけでなく,新しい形式の協調を共同的に組む.
 そのような協調とは,調整や信頼というユニークな問題を課すものだ. 理性の第一の機能は,人々の協調に求められる豊かで多目的な調整のための道具を与えることだ.自身を説明し正当化するために理由を与えることで,人々は何が動機かを示し,自身の目線においてその考えや行為を正当化する.そうすることで,他者に自身たちが何を期待するのかを知らせ,自身たちが他者に何を期待するのかを暗黙に示す.他者の理由を評価することは誰を信じるべきでいかに協調に至るのかを決定するのに実質的な価値(relevant)がある.
 人類はまた,他の動物とは,互いに共有する情報の豊かさや広さという点で異なり,コミュニケーションに頼る程度も異なる.有能な大人になるために,我々はお互いに他者から多くのことを学ばねばならなかった.我々の技術や一般的な知識とは個人経験によるものというよりも,社会的な伝達によるものだ.我々の日常のほとんど,家族との生活,仕事,レジャー,なども他者から学んだことによるものだ.
 他者とのコミュニケーションから得られる不可欠で莫大な利益は相対的に誤った情報への脆弱性がある.我々が他者に耳を傾ける時,誠実な情報であることを臨.我々が他者に語りかける時,自身の利益からしばしば他者をミスリードさせることがある.単純な嘘を要する必要はなく,他者の考えや行為によりよく影響するように,情報を少なからず歪曲したり,省略したり,誇張する.
 それで我々は他者に耳を傾ける時,我々は賢く信じるべきだったり,信じない必要がある.我々が他者に語りかける時,我々は他者の理解可能な信頼の欠如を克服する必要がある.他者が信頼に値しない場合にのみ我々が他者を信じないなら,物事は簡単だ(p.8).しかしながら,我々が他者を信頼に値しないからではなく,他者を信じられるのか不明だからこそ,自身の信念をしばしば思慮の外で保留する.この遠慮は賢いのかもしれないー用心の越したことはない(better safe than sorry)-しかし,我々は情報の評価を見誤る.語りかけるもの,耳を傾けるものに利益あるコミュニケーションは確信のなさからしばしば,勢いのないはっきりしない(falter)ものになる.
 理性の二つ目の機能―理由づけや論争を介して行われるものーとは伝達者が真実だと信じられるために聴衆の目から十分な信頼性を欠いていても,コミュニケーションを効果的にするというものだ.理性は伝達者が寡黙な聴衆を説得する議論として使う理由を生み出す.同じ理由で(by the same token),理性は懐疑的な聴衆がいい議論として受け止めるか,悪いもので拒絶するのかの評価を助ける. 我々は初期の共同研究で理性の議論的な機能を焦点化して,「理由づけの議論的理論」を展開した.この本では,この観点を推し進めて,理性の議論的機能と正当化機能を検討し,そのメカニズムと理性の二つの機能への相互行為的な理解方法を展開する.
 4章「理性ができることできないこと」では,理性の行うことについてのツアーを提供する.このツアーを通して,相互行為的な理解が,理性がなぜそのように振る舞うのかを説明する観点としての利点を示す.そこで我々は確証バイアスなど,洗練されているが説明が悪い理性の明らかな弱点について再検討する.
 ツアーはあるペアの観察から始まる:人間の理性は偏りがあり,怠け者だ.偏りがあるのは,理由の持ち主の観点を支持する正当化や議論を圧倒的に探し出すためで,怠け者なのは,理性は理性が生み出す正当化や議論の質の査定の労力を減じるためだ.例えば,突然浜辺で休日を取ることになるとする.次のバケーションをどこで過ごそうかと考えると,その人は同時に海の近くの日当たりのよい場所を選ぶための理由を,明らかに貧困な理由を含めて集め出す(例えば,多くの他の場所への付帯とにも同様のディスカウントがあるにも関わらず,彼女が行きたいところへのフフライトのディスカウントがあるかもしれない,などと.).
 理性の個人の使用には二つの典型的な結果がでる.強い意見を始める時,考えに登る理由はこの意見を全面的支持するものになる傾向がある(p.9).そして,その人はその心を変えようとはしない;自信過剰となったり,より強い意見を展開することすらありうる.
 しかし,時に強くはない意見を開始する時や自信のない時もある.この場合は理性はその人をとにかく正当化しやすい選択へと動機づける.例えば,その人が嫌な親戚のところへ訪れて浜辺でバケーションをするか,浜辺に行ってから嫌な親戚に会いにいくかという選択があった場合,後者の方がどこか安上がりにではないかと.理性はその人を理にかなった決定へと方向づける:安価な選択に.しかしながら,浜辺で彼女の時間を捨てる見込みのあることをぜすに,親戚の家からいけばより満足して帰れたかもしれない:全体的に良い選択でも,正当化が難しいことが含まれる
 . 心理学者は一般的に理性は,間違った洞察を修正するのを失敗したり,出来事をさらに悪化させるといったように,偏っていて怠け者だと認識している.にも関わらず,彼らのほとんどが理性の主な機能が個人の認知機能を拡張することだという立場を維持しているー非常に難しい仕事だ(a task it performs abysmally).
 多方で,相互行為的な理解の観点では,理性の偏りや欠点とされるものへ,まずは進化的にもっともな説明を提示していく. 我々は,自身を正当化し,他者を説得する狙いで認知的なメカニズムが偏っており,怠けていることを明らかにする.単独の人の理由づけの失敗が「異常な」文脈における理性の使用によるものだ.
 水の中で,そこで機能するように作られてはいないペンが,あるいは同様にそこで機能するように進化していない言語が適切に機能することを期待したりはしないだろう.同様に,適応的な結果をもたらすであろう補償がなにもない,それが進化した相互行為的な文脈の外に理性を置くようなものだ.
 そして,理性を「通常の」環境に戻し,理性が進化した適切に機能を果たす文脈において人々が議論や正当化を互いに交わす時に何が起こっているのかという議論の中心へと取り掛かる
 .特に,ある問題の真実や解法の発見に共通の関心があるが,反対意見である人々が議論を交わす時,一番いい考えが勝利しがちだ;その議論の流れにおいて誰が始めようと,誰がそれに至ろうと他者を説得するだろう.この結論はあまりにも楽観的に聞こえるかもしれないが,論理的課題を議論する学生から,審議する陪審員,次の戦争がどこで勃発するのかを予想しようとする報道局員に至る幅広い領域の証拠によって支持されるものだ(p.10).
 最後の3節,5章の「野生の理性」では,これまで見てきた理性の特徴と効果がいかに強固なものなのかを例証する.我々は個人の理由づけが偏っていて,怠け者であることを理解したが,論争というものは西洋社会だけではなく,全てのタイプの文化で,教育された大人に限らず,子供においても効果的なのだ.倫理や政治的な議論を考えると,理性が偏っていて,怠け者であることに驚く人もいるだろう.もっとも驚くべきは,倫理や政治的な領域においても,参加者により正確な倫理的判断を形成することや,市民に道理的な選択を形成することを論争がいかに効果的に促すのかを示す証拠だ.しかしながら,これらの発見は相互行為的観点において期待するものでもある.
 最後の節18の「個的な天才?」は,一般的に人間の理性の頂点だと考えられる科学についてだ.科学にはさまざまな理由づけの方法があるので例外的だが,科学者の理由づけ自体の方法も例外的なのだろうか?ニュートンからダーウィン,アインシュタインに至るまで科学的な発展は個的な天才に帰属されがちだ.彼らの優れた理性は,我々の多くが患う欠点に苦しめられてはいない.これらの天才は新しい理論を閃くために他者との議論をなしでやれるだけでなく,彼らの革命的な見解が誤解されたり,徒党を組んで蔑まれるなら,そんな議論は彼らの妨げになりうる.偏見の少ない新世代が光を見出すのを待った方が良いだろう.幸運なことに(我々の理論にとっても,科学にとっても),科学はそうではなかった.科学者も全ての人類が使用する偏っていて限界のある同じ理性を用いている.
 しかし彼らは理性の強み,特に理性がいい議論を生み出すのではなく,いい議論かを評価することに効果があることから利益を得ている:そこに議論があったなら,科学者コミュニティは,周辺から最近の教科書までの新しい理論の信用を評価する.
 5章18節で我々が提示するのは,標準的な理性の理解への対照的な相互行為的な理解だ:理性は第一にもっとも重要な社会的な能力だという立場である.科学が示すような,理性がもたらす知的な利点を我々は否定しない;そうではなく,我々はそれがいかに知的な利点をもたらすのかを説明する:それは他者との相互行為を介した利点だ. 我々はあなた方が自身のメリットに基づいて判断できる議論を提示するので,我々がそう言うからと言って我々の主張を受け入れないかもしれない(p.11).
 理性についての洞察的な推論が導くメカニズムとして理性を考えることがいかに最初の半分のエニグマを解くのかを見せていく:理性はある動物の心に信じがたく備え付けられたスーパーパワーではない;むしろ,人間という動物を特徴づける卓越して発達した部品をうまく統合したものだ. 残り半分のエニグマを解くために,理性の壊滅的な欠陥として記述されてきた明らかな偏りが実際は議論的な機能によく適応した機能であることを示す.我々の理解の仕方から人の理性についての驚く予想が多く導かれる.それらの予想は我々が提示する証拠から確かめられるだろう.
 議論の力によって,相互行為的理解が正しいこと,いや少なからず正しい道のりにあることを説得できることを願っている.それによって,この本自体が理性への相互行為的理解について擁護する例となるだろう(p.12).


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