日記0201

ネットの一部のひとたちに流通する「インディーズの車掌」という表現がある.駅,および電車内で駅員や車掌でもないのに,かのように,真剣に振る舞う特定の人々を指した言葉だ.そして,揶揄的な文脈で使用されている印象がある.俺が言い淀むことじゃないな.「障害者への揶揄」だ.

 インデーズという言葉自体は,なんらかのカルチャーやコンテンツの送り手が,大手に属さずにあるいは他所から資本を得ずに自主的に活動していること状態を意味するのが一般的だろう.端的に言えば生産体制への形容詞だ.

 この本来の意味からすると「インディーズの車掌」は自主的だとかに言い換えなどではなく,「自称」のニュアンスに転換されたもので,その飛躍にユーモアがあるのかもしれない.言い得て妙のようで,得ていない.ボケツッコミのような.

 今,考えているのはそんな分析的な話ではない.時折,この言葉を通して自分の生き方を捉えて辛くなるのだ,というお話だ.というのも,どこかの組織に所属して,名刺などで何者であるのかという身分を与えられるわけではないという生き方がだ.ちなみに俺の自己認識は,別に大学から地位も与えられていない,ただ先行する研究を見て,研究をしている人だ.

 不安定だとか,先がみえないとか,そういう話でもない.だから,インディーズの車掌という概念が重要になってくる.インディーズの車掌が指すその現象とは,本人の認識と世間の認識がずれてしまっていること,その歯車があっていないことなのだ.

 それがなぜ精神的に辛いのかというと.すまない,ここから話は脱線して,飛躍する.飛躍して,突然に端的に言って心の役割とは,環境とうまく関わることだ.いわば環境と個体の歯車を合わせる歯車だ.人間の自意識というレベルに話を送ると,世間という環境の歯車と,自己認識の歯車がずれているかも,となると心という歯車は空回りをしていたか,これから二つの歯車のどちらか,どちらにもかに向けて少しづつ変えていく努力をしなければならない.すまない脱線はしたが,こんな話は不要だったわ.ずれているかもしれないと大変だよね.そんだけだったわ.

 だが,いまの自分の認識と世間の認識に著しいズレを感じているから,という話でもないことを最後に.所属して「何者かである」という地位を与えられているというのは歯車の調整が必要ない.心の頑張りはいらない.だが,インディーズで自主的に「何かをしている」というのが自己認識になると,何かが自分の思うようにやれなくなってくると,そう認識すると途端に歯車が弾け飛ぶ.自分は誰として世間と関わればいいのか.インディーズ車掌のようになっていないか.

 受験生だとか,主婦だとかもそうかもしれない.勉強する,家事をする,そうすることで歯車を回し,そうしていれなければインディーズの受験生,インディーズの主婦.

 とはいえ,インターネットでは世間の認識を変換しようとしたり,保守したりしようと駆動されているように見える言説も多い.男とは何か,女とは何か,どうしているべきか,しなくてもいいのか.そんな話は俺には余る.終わる.

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