ずっと考えている

さきほどしばらく切らしていたペンをようやく買いに行った。

帰り道に、地面に座っているおばあちゃんが目に入った。

最初は、ただ座っているだけかな?とも思ったけど、なんだか心配なのでしばらく見ていると、立とうとしているけど、立てなくて何度もしりもちをついていることに気がついた。ちょうどそのおばあちゃんの近くを男性が通ったので、助けるかな、と見ていたら、そのまま素通りされたので(たんにその方は気づいていなかったのかもしれない)私はあわてて階段を下りて助けに行った。

「手伝いましょうか?」と聞くと、「ごめんねえ。ちょっと休憩したくて。じゃあ荷物だけベンチにおいてもろてもよろしい?」と言われたので、ベンチまで荷物を置きに行くと、後ろでまたおばあちゃんは立とうとしたけど立てなくて、しりもちをついていた。

ちょうどその時通りかかった主婦の方が気づいて下さり、お手伝いしてくださった。私はまずおばあちゃんの右手を掴んで、片方だけだと立ち上がりにくいと思ったので「もう片方も支えましょうか?」と聞いた。すると、

「ないねん」

とおばあちゃんは返事した。おばあちゃんに左手はなかった。立ち上がろうとして立てなかったのも、きっと軸がぶれてしまうからだったのだ。とにかくおばあちゃんを立ち上がらせてあげようと、主婦の方に「では後ろから抱える形で支えてあげてください」と言い、おばあちゃんには「私はこっちで支えておきますね」と伝えて、どうにか2人で支えたのでおばあちゃんは無事立ちあがることができた。そして、おばあちゃんと手をつないでベンチまで歩いた。主婦の方は帰られた。きっと私1人では力が及ばなかったので、とてもありがたかった。とても力強かった。

おばあちゃんに「ありがとう。助かったわ」と言っていただき、そのあとに私もその場を離れた。

手伝ったことは正しかったと思う。でも、でも。おばあちゃんがなぜ立ち上がれなかったのかに私がもっと考えをめぐらせるべきだったかもしれない。おばあちゃんが、「(左手が)ないねん」と言った時に、何かもっとほかの言葉をかけるべきだっただろうか?おばあちゃんの「ないねん」は、もっとほかの意味で助けをもとめていたのかもしれない。私はそれに気づけなかったのかもしれない。それとも、あまり干渉し過ぎないことが救いになる場合もあるから、あれは正しかったのか?おばあちゃんはきちんと帰れただろうか?荷物は持てるだろうか。

握りしめたおばあちゃんの手にはたくさんの皺があった。皺はこれまでに生きた時間を、明瞭に現わしていた。ちっぽけな私には想像できないほどの時間と苦労、そして幸せと想いが刻まれていた。

 若者とお年寄りの方との隔絶や意識の差異は今に始まったことではない。10年前にも、20年前にも、30年前にもそれは問題視され続けている。(いつからかはわからないけれど、30年前に刊行された雑誌や新聞などで読んだ記憶がある)でも、デジタル化が進んだ昨今、そしてさらにコロナ禍ではそれが顕著になったことが実感としてある。あらゆるものが便利に、効率化されるのは良いことかもしれない。きっとそれは誰かを思ってなされていることだから。私もその恩恵は授かっている。でも、社会のスピードが目まぐるしくなる中で何か見落としているものはないかと、強く感じる。社会のスピードを速くすることだけが、最良の事なのだろうか。経験や知恵を持っているお年寄りを見放すことは、決して良いことではない。

尊敬している星野道夫さんが「お年寄りが尊敬されている社会は健康な社会だと思う」と、およそこのようなことを作品の中で言われている。まさにその通りであると思う。私が生まれていない時代を経験している。私が知らないことをたくさん知っている。そして、生活の知恵を教えてくれる。それだけで十分尊敬するに値するではないか。介護をする大変さや苦しみももちろんある。時間をかけても分かってもらえない辛さもある。相手がお年寄りだからといってすべてを手放しで許容し、善意のみで介護すべきだとは思わない。人間関係はどうしたってうまくいかないものだから。でも、社会を効率化するとき、そのスピードについてゆけない人の存在にも気づくべきだ。それは、お年寄りだけではない。これから成長する子どもたちや、マイノリティの人たちだってあてはまるだろう。人間はみなマイノリティな部分を抱えている。

 とても長くなってしまった。途中から話の軸がそれてしまったことは承知している。稚拙な表現や考えが散見されると思う。が、どうかお許し願いたい。

ずっと考えている。ずっと、ずっと考えている。

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