子供から見た教育の難しさ

近年、子供を教育するというのは難易度を増している。
収入、環境、人間関係……考慮要素は多々あるが、私が何より難しいと感じるのは「親と子供の接し方」である。

両親の離婚

私の両親は、私が8歳の時に離婚した。日本の家庭裁判所の判断において、親権は母親に行くことが殆どであるということもあり、私と一つ上の姉は母親に引き取られることとなった。
私は当時小学3年生であったが、両親の離婚に対して妙に納得感を覚えていた。明らかに両親同士での会話が減り、帰宅時間をズラしているのがわかったからだ。そのため離婚を告げられた時、そこまでショックではなかった。

そこからの生活は、以前と大きく異なるものだった。母は女手一つで私と姉を育てる過程で、姉を溺愛するようになった。
母は姉のいかなる行事にも参加した。姉の所属する部活の大会にも毎度顔を見せ、父母同士の交流も盛んであった。
しかし私が所属するサッカーチームには一度も付いてきたことがない。私が小学校6年生でキャプテンに任命されたことも、卒業まで知らなかったそうだ。当然私のチームメイトで、私の母の顔を見たことがある生徒は1人もいない。
また母は姉の看病には熱心であったが、私を看病したという記憶はない。私がインフルエンザを発症した時も、小さな寝室に私を隔離し、食事という名の菓子パンや市販薬を置いておくだけだった。

今にして思えば、彼女は異性である私との接し方がわからなかったのだろう。それに物理的にも、かけられる時間やリソースには限りがある。仕事をしていることも考えれば、2人に平等な対応をするということは俄然無理な話だ。
しかし私は、今でも彼女を心から母親だとは思えていない。あくまで世間体や人道的な見地から家族のように接しているだけで、それは世間一般に言う「家族」とは程遠いものだ。

そんな私とは対照的に、姉は母親に溺愛されていた。
溺愛と言えば聞こえは良いが、私から見た2人の関係は非常に歪なものだった。
母は姉とよく喧嘩をしていた。当時年端もいかぬ私ですら、その内容は下らないものだったと思う。
やれ「何が食べたいか決められない」だの、「どの服を着るか決まらない」だのと、おおよそ喧嘩に発展するような内容ではなかったはずだ。
それなのに、母と姉は毎日のように喧嘩をしていた。そしてその度に姉は家出をし、業を煮やした母は私に「連れ戻してこい」と言うのだ。
よくもまぁそんなに怒る体力があるものだと思いながら姉を連れ戻すと、姉は決まって母親に手紙を書いていた。そこには自分が悪いこと、反省していること、仲直りをしようという文言が散りばめられていた。そしてそれを見た母は満足げに怒りを納め、”仲直り”をするのだ。
このようなやりとりが、週に5〜6回は行われていた。昨日仲直りをしたと思ったら、今日また喧嘩をしている、ということが日常茶飯事だったのだ。

私は女性同士の感情の機微には疎いが、それでもこの関係が歪であることは理解していた。いつしか姉は自分の意見を主張することができなくなり、1人で買い物をすることすら出来なくなってしまった。彼女の言葉を借りれば「自分という存在を誰かに見せることが怖くなった」らしい。だから彼女は家に母親がいない時は、自分で選んで食事を取ることすらできなかったそうだ。
「母親にとって理想的な娘」を演じるうちに、本当の自分を表出することができなくなった、ということだろうか。

母との別れ

このような環境では、いつか自分を滅ぼしてしまう。
そう感じた私は、どうにか母のもとを離れられないか画策するようになった。
当時私の通っていた小学校の近くに居を構えていた父親の元に転がり込み、放課後から自宅に帰るまでの時間をそこで過ごした。また私の部活や課外活動は父親に帯同を頼むようにもなった。
父は小さいながら、とある会社の社長をしていた。父の家は事務所を兼ねており、父の部下の仕事場も併設されていた。そのため私は小学生ながら、自分とは全く関わりのない大人とのやりとりをするようになった。また父の仕事場には大人が読むようなビジネス書や学術書が並んでいたのも、よく覚えている。
そういった環境の中で過ごすことに居心地の良さを覚えた私は、気がつけば自宅よりも父の家で過ごす時間の方が長くなっていた。休日でも予定がなければ父の家に赴き、父と共に映画を見たり外食したりするようになっていた。それを母はよく思っていなかったが、当時の私にとって母と暮らすということは何よりも苦痛だったのだ。

それから時が過ぎ、小学校6年生の時。私は母に黙って私立の中学校を受験した。もともとそのつもりはなかったのだが、母親の元から離れる言い訳ができると思ったのだ。父親と共謀して受験準備をし、秘密裏に当時の担任から推薦状を受け取った。
そして受験当日。朝早くに筆記用具を持って自宅を後にする私を見て、母親は怪訝そうな顔を浮かべていた。私が一言「◯◯中学校の受験に行く」と言うと、母親は苦虫を噛み潰したような顔で「そう」とだけ言った。
彼女はその時、私が彼女の元から離れようとしていることを勘付いたのだろう。しかし受験当日ということもあり、どうすることもできないということも理解したらしい。それらの感情をないまぜにしたのが、あの表情だったのだ。だから私は、彼女の当時の表情が脳裏に焼き付いている。

受験は恙なく終わり、無事合格。母親の収入では私を私立中学に通わせられないということで、親権を父に譲渡し、父と一緒に暮らすこととなった。
親権を譲渡するための話し合いで父と母は一触即発だったが、なんとか事なきを得て、母の元から離れることに成功した。

父との暮らし

父との暮らしは、それまでとは大きく異なるものだった。
父は「対話と我慢」を教育方針の軸に据えていた。些細なことでも私と父は報告しあい、生活のルールや学校・仕事での出来事は共有していた。
また父は私に「自分のことは自分でする」ということを徹底していた。制服の準備は当然のことで、洗濯や自室の掃除など、自分で出来ることは全て自分でやるよう私に言いつけていた。
そして私がそれを守らなかったとしても、父が介入することは一切なかった。私の着る制服が無くとも父が用意することはなく、欠席を学校に報告するだけだった。

父の教育方針を「対話と我慢」とするならば、母の教育方針は「放置と怒り」だろうか。双方の教育を受けた私からすれば、母のそれは教育方針と呼べるほど上等なものではない。母には教育に関する哲学がなく、ただ自分の中にある「息子・娘」の枠に当てはめることを盲信していたのだ。

父はとにかく私の意思を尊重した。しかしその一方で現状を正しく認識させ、常に複数の選択肢を持つことの重要性を説いていた。
例えば私が「欲しいものがある」と伝えても、父は「なぜ欲しいのかプレゼンし、3つの候補を挙げて選びなさい」と言うのだ。すると私は必要とする理由付けや、金額・効能を踏まえた候補の選定を行うようになった。

母はとにかく私の意思を抑圧した。しかしその一方で私が「なぜ」と問うても、それに答えることはついぞなかった。
例えば私が新しい本を買いたいとねだっても、母は「こんなもの子供らしくない」と突っぱねるのだ。すると私は母に何を言っても無駄であると考え、彼女の前で意思を主張することをやめるようになった。

姉も同じだったのだろう。母に長く育てられた姉と、父に長く育てられた私では、意思の発露に対して大きな隔たりがあった。
いつしか姉もその環境に耐えかね、大学進学を機に父親のもとで暮らすようになった。そこからは徐々に改善され、今では自分の意思を主張できるようになってきた、と思っている。

結び

長々と私の体験談を書き連ねていたが、結局私が言いたいのは「教育とは難しいものだ」という、陳腐なものである。

しかし世の中を見るに、親が教育の難しさを語ることはままあれど、子が親の教育について語った文章はなかなか見られない。
世の親御さんの育児に対する大変さは重々承知している。1人で生きることですら大変なこの世の中で、自分より尊いものを育てるということは、どれだけ大変で立派なことだろうか。
だからこそ、この記事を読んで「自分にとっての教育の哲学」をもう一度問うてほしい。子供にどう育ってほしいのか、子供に自分のことをどう思ってほしいのか、自省してみてほしい。

私のように、母を「母」とも思えない。そんな悲しい子供が増えないことを、心から祈っている。


親が子を良く見ているように、子も親を良く見ているのだから。


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